Eri's blog

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

福島フィフティ

2021-03-15 09:47:00 | 日記
「原発事故に立ち向かった 吉田昌郎と福島フィフティ」という本を読みました。

この本は小学校高学年・中学生向けでしたが、いつも読んでる本よりも字が大きくて読みやすかったです。

本は3月11日に読みました。そして、12日には「Fukushima50」という映画がテレビで放送されると聞いたので見ました。

本でも映画でも作業をしていた人たちがどれだけ大変だったかが伝わってきました。

福島フィフティは、東日本大震災にともなう東京電力福島第一原発事故により放射性物質が飛散し、そうした状況の中で現場に残って事故に立ち向かった約50人に対して海外メディアがつけた名前(実際の数は69人だった)で、彼らを中心に多くの人たちが復旧に力を尽くしました。


「大きな災害のあとに、世界の多くの国々では略奪が起きます。店や施設をおそって物を盗っていくことが災害のときは、当たり前となっているのです。しかし、日本では一件も起こりませんでした。被災地の人たちは列をつくって、食糧や水が配られるのを静かに待ちました。悲しみをこらえながら、それでも規律を失わず、必死に支え合い、助け合う姿は世界中の人たちの胸を打ちました。そして、たくさんの国から多くの義援金が寄せられました」と書いていました。

東日本大震災の中で、今も後遺症が続く悲劇を生んだのは東京電力福島第一原発事故でした。
激しい揺れと大津波によって、福島第一原発は「全交流電源喪失」状態となったそうです。

日頃から地震への対策は徹底されていて手順通りに行えば、大事には至らないはずだったそうで、ちょうど1週間前の3月4日にも福島第一原発では大規模な地震への訓練が行われたばかりでした。
人命と原子炉を守る
所長だった吉田さんの頭には、それしかなかったそうです。


次は、海水注入についてです。
海水注入を止めたら原子炉を冷やせなくなり、大変な事態をもたらすそうですが真水と比べて不純物が多く含まれている海水を注入することで、原子炉が危険な状態になるのではないかと、官邸の政治家の間で問題になって海水注入をストップさせようとしていたそうです。

その後、東京電力本店からも「海水注入をストップしてください」とテレビ会議を通じて命令されたみたいですが、吉田さんは海水注入を続行しました。

「吉田さんは会社のためでも自分のためでもなく、世の中で1番大切なものを守るために闘ったのです。吉田さんの信念と機転が日本を救ったという人が少なくないのも、無理のないことだと思います」と書いていました。

2012年2月7日、吉田さんは食道がんの手術を受けました。
2012年7月26日に脳内出血で倒れました。
手術も受けましたが症状の改善は見られませんでした。
後に、がんが肝臓と肺に転移していることもわかりました。
1年後の2013年7月9日、吉田さんは58歳で東京の信濃町の慶應義塾大学病院で息を引き取りました。
震災から2年4か月後のことでした。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿