原発なくそう茨木市民の会です。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログ「なくそう原発茨木」をご覧ください。
「原発なくそう茨木市民の会」が発足しました。
2013年5月31日、茨木市福祉文化会館において、「原発なくそう茨木市民の会」が結成されました。
会員は300人を超し、結成総会で32人の運営委員が選任されました。 市民の会は、市民に開かれた会として
これから原発のない社会の実現の日まで、活動を続けていこうと思っています。
運営委員に参加してやろうと思われる方は、いつも歓迎していますので事務局までご連絡ください。
さて、「市民の会」は昨年の「原発を考える市民のつどい」を引き継ぐものです。
そこで、事務局の神山氏に今までの運動の教訓とれからの運動の方向について文章を書いてもらいました。
私たちのゆるがぬ二本の軸足
放射能は母と子の安全・安心とは両立し得ないもの
原子炉は本質的に危険なもの
原発を使わない政治と経済への決断を求める新しい市民運動へ
原発なくそう茨木市民の会事務局 神山治夫 2013年5月31日
① 福島の原発事故は日本の政治・経済の根もとを大きくゆるがしました。 事故からしばらくは国会の論議でもテレビや新聞など各種メディアでも原発の異常な危険性や、安全神話の大きな過ちなど、まじめな検討と反省の論議も見られました。
私たちの運動は、昨年は、1個のウランペレットを手にして、その小さな一粒のウランペレットの中にどのような恐ろしい危険が詰め込まれているかを手がかりに、私たち茨木市民の先輩たちが訴えた「原子炉は本質的に危険なものである」という事を軸として市民との幅広い対話を進めてきました。 それは多くの市民に驚きをもって迎えられ、冊子「原発なぜアカン」、ウランペレットキーホールダーの普及と小集会や賛同署名の積み重ねが、10月26日の市民会館大ホールでの「つどい」の成功へとつながりました。
② しかし、福島の事故から二年を経過したこのごろ、特に年末の政権交代で原発再稼動への意欲を積極的に示している安倍政権が誕生してから以後の最近の国会やテレビ、新聞、雑誌などの討論の有様は一変して来ています。 原発をめぐる論議では、本質的危険性や引き続いている福島の事故の重大な不安、被害者救済の推進などの議論が後に追いやられ、共通して現れているのが、原発なくせば停電するとか電気代が倍になるとか、日本の企業が海外に逃げ出す、日本経済が不況に陥るなどという論議がとってかわり、挙句の果てには日米同盟にヒビが入る、核技術を温存しないと日本の安全保障にかかわるといった論議までが花盛りになって来ています。 原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが主流となって来ています。 こういう状況は私たちの運動にも影を落とし、ある小集会でペレットを示して話をした方の経験で、「もうその話は聞いた。問題はエネルギーをどうするかや」とか云う反応が出ていると聞きます。
③ このような状況の変化をふまえて、私たちは、何を軸に据えて、市民との対話をすすめ、小集会で訴え、「原発なくそう茨木市民の会」の運動を前進させるべきだろうか。 あらためて熟慮し、検討を重ねて、これからの運動も正確に的を射た主張を中心軸に据えて運動を進めねばなりません。 そのための討論の素材としていくつか私の考えを述べてみます。
運動を困難にさせている放射能の五つの特徴
母と子の安全とは絶対に両立し得ない放射能の特徴
④ 国民の原発に対する不安は根強いものがあると思います。 しかし、現実には状況の変化の中で、その不安に立ち向かうお母さん方の運動もさまざまな困難に直面しています。 妥協を許さずきびしく問題点を追及する母と子の運動は、特に関西地区などでは、だんだん周りの人たちとの間に溝を生じさせ、困難が生まれているようです。 それは、放射能被害のきわめて特殊な特徴、性格からよってくるものがあります。 最大の問題は放射能が目に見えず、色に出ず、匂いもなく、音もせず、つまり人間の五感で感知することが絶対に不可能な本質を持っていることに大きく影響を受けています。 そこに対話によって知を得て原発への批判を強めているお母さんたちと、五感に感じられないことから、本当に云われるほどに危険なのやろかと、切実性の感じ方が希薄になって来ている周りの人たちとの間に溝を生じさせている大きな要素があります。 原発問題では母と子の安全・安心を守るということは、最大の課題であり、全人類的な課題です。 私たちの運動もこの課題を脇においては正しく進めることはできません。 具体的には福島の子を守るという課題をかかげつつ、私たちが今年の運動を進める上で母と子の安全・安心をおびやかす放射能の五つの特徴と放射能は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないことをしっかりとつかみ、市民対話の中で溝を埋め、共同を大きくひろめていく必要があるのではないでしょうか。
⑤放射能の五つの特徴を次のようにまとめてみました。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。②の特徴:閾値のない危険(LNT)。③の特徴:若い命、幼い命を集中しておびやかす危険(DNA破壊)。④の特徴:時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険(晩発性)⑤の特徴:人間の手で、力で消し去ることのできない危険(核子レベル世界の法則性)
以下、五つの特徴については別にまとめて書いてみますが、運動を確信持って進めてゆく上でこの問題を深く学習することは避けて通れない重要な課題です。 しかし、ある程度まとまった学習を通じてしか本当に知り得ないというむつかしさがあります。 ここでは、全体をつかむために、概略だけふれておくことにし、別の機会にしっかりと学んでみる必要があると思います。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。 放射能を持つ放射性物質には近づかないように、触れないように、放射性物質に汚れた食べ物や飲み物は口に入れないように、放射能を含む空気は吸わないようになどと子を持つお母さんたちは心配だからあちらこちらで開かれた説明会や勉強会に出かけて学びます。 しかし、そのとおり実行しようにも大変です。 何も見えず、匂いもせず、手にふれてもわからず、自分の力ではどうしようもないのです。 信頼できる検査済みのものをと思っても検査はごくわずかしかやられておらず、全ての食品を検査することはできません。 産地で選べるかそれも無理です。 つまり五感で感じ取れない危険でいくら説明されても安全だといわれてもお母さんの不安は絶対になくすことができません。 これは一方で母と子の不安を払拭できないから深く掘り下げ追及も先鋭化していく側面と、一方では日常的に感覚をマヒさせてしまう側面を持っています。
②の特徴 閾値のない危険 (Linear No Threshold)
第二の特徴は閾値がないということです。 閾とは玄関先の扉の下の木のことで、ここをまたいで入ると家の中、そこを境目に外と内とがわかれています。 ある量以下なら反応が起こらないというのが閾値です。 今まで私たちが知っていた毒物には、みな閾値があります。 しかし、この放射能による被害には閾値がないというのが最近の研究で明らかになっています。 つまり、どんなに僅かの放射能でも、ある程度少なかったら大丈夫という線切りはなくて害を受けてしまうというのが放射能被害の特徴です。
③の特徴 若い命、幼い命を集中しておびやかす危険 (DNA破壊)
第三の特徴は放射能は何を傷つけるかという問題です。 放射線は、生体の細胞内のごく小さな器官を傷つけますが、特に細胞分裂の盛んな子供、赤ちゃん、妊産婦、胎児のDNAをひどく傷つけるという特徴があります。
④の特徴 時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険 (晩発性)
DNAを傷つけられた異常な細胞はだんだんと分裂をくり返して、何年、何十年か先に体の異常として現れてくるようになります。
⑤の特徴 人間の手で、力で消し去ることのできない危険 (核子レベル世界の法則性)
最後に今まで考えて来たこの四つの特徴を持った危険性は、人間の手では、力では、知恵では消し去ることができないという特徴です。 放射線は核子、素粒子の世界でそこの法則に従うしかありません。 30年で半分減ると次の30年で残りの半分が減るという減り方をします。 結局一応なくなったと云える0・1%にまで減るのは30年の10倍、つまり300年かかることとなります。 プルトニウムなら半減期が2万4000年で消滅するまでには24万年かかることとなります。 日本の国が出来たとされる天武天皇の時から、まだわずか、1300年余りしか立っていません。 アメリカ合衆国にいたっては、まだ230年しかたっていません。 セシウムをなくすまでにはアメリカ建国以来の長い年月をかけてもまだ足りません。 24万年かかって始末しなければならないなどとは、とても私たちの考えられる時間、スパンではありません。
以上、放射能の危険が持っている5つの特徴を概略書きましたが、いずれの特徴を取ってみても、原発は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないものです。 母と子の安全・安心が守られないということは、人類が絶対に行ってはならない業、行状です。 私たちが原発問題を考える時に、絶対ゆるがせにできない事であります。 このことを私たちはしっかりと揺れない、ぶれない軸足の一つとして確認して運動を進めたいと思います。
放射能を必然的に産みだしてしまう原子炉の本質的危険
⑥ エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜでしょうか。 的外れでない正しい討論をすすめるには、出発点をはっきりした立脚点に立たせて、討論に焦点をあてなければなりません。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにあります。 福島の事故がなく、原発に何の問題もなければ、日本では電力問題、エネルギー問題が化石燃料の将来性、炭酸ガス排出規制が問題になっても電力需給が焦眉の急な問題にはなりませんでした。 福島の事故が起こり、隠されていた原発の持つ危険性が国民の目にあきらかになり、多くの原発が動かせなくなった(現在日本の原発は54基の内福島の4基が事故により廃炉になり、48基が動かせなくなって大飯の2基だけが発電をしている)からこそ、電力問題、エネルギー問題が大きな社会的問題、政治的問題になっているのです。 出発点は原発の安全性がすっかり瓦解してしまった、発電システムとして利用可能なのか、利用していいものなのか、それが出発点です。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を論じることはできない筈です。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものがすっかり多くなってしまいました。
⑦ その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まります。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとか、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っています。 原発は根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではありません)、国民的合意抜きにして、派生する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえあります。
⑧ 原発使用の可否、使っていいものか、スイッチを入れてよいものか、いけないものかは、もっと深い根源的なところにあります。
福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにしました。 福島の事故のこれまでの経過、今の現状が、最もシビアなものではありません。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっています。(原産報告書・原発なぜアカン冊子8頁参照) もし地震が数時間遅れて11日(金)の数時間おくれた夜であったなら、東京都も全域避難区域になってしまった可能性を指摘するアメリカの専門家の証言もあります。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていませんし、事故そのものも収束したと云える状況ではないことは最近の停電事故、漏水事故が明らかにしました。 東電の発表資料を見ますと(昨年末現在)福島第一原発から環境中に放出されている放射能は1号機が1000万ベクレル/h、2号機が1000万ベクレル/h、3号機が4000万ベクレル/h、合計福島第一原発からの放出量は総計6000万ベクレル/hとなり、これはここ1年間安定的に経過しているとしています。(3月7日に開かれた政府の原子力対策本部内原発廃炉対策推進会議では「同発電所が安定状態を継続している」と評価しています) 今この瞬間も静かに、目にも見えず、音もせず、匂いもせず、国民の目の届かぬところで、休むことなく延々と安定的に(!)放出しているのです。 まだ政府・東電は完全に事態を手中に収めコントロールし得たと云える状況には全く至っていません。 人工放射性物質を環境中に放出することは日本国の法規で許されぬ犯罪行為です。 政府・東電は、日夜、今現在も犯罪行為を進行中なのです。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量(事故当初11年3月時点70京ベクレル、12年5月時点累計90京ベクレル、現在は100京ベクレルに達しているだろうと見られる)のなお数百倍に達するとみられています。 この現状が原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題です。
⑨ たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、何万人レベルの人間の命にかかわる放射性物質を産みだし、放射性セシウム137だけでも600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100ベクレル/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまいます。(昨年の運動で私たちがひろく訴えてきたことで、今も最も重要な事であるには変わりありません) これが原子炉の持つ本質的危険です。 原発が使用に耐えるシステムであるかどうかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかどうかが、第一の問題ですが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示しました。 にもかかわらず政府、原子力規制委員会は新規制基準なるものを持ちだして再稼動を進めようとしています。 新規制基準は、本質的なところでは何も原子炉安全基準を強化したものでもなんでもありません。 田中委員長は「新基準はいわゆる設計基準として格納容器の基本構造に対する要求変更は致しておりません」(参議院予算委員会4月23日答弁)と云っています。 つまり危険な原子炉の本体については何の基準強化もしていないと云っているのです。 原子力ムラの人たちは、危険な放射性物質をペレット中に産み出すことは否定できず、五重の防護で放出を絶対にさせないと豪語してきました。 その根源的な一重目の防護がペレットに閉じ込めるでありました。 このことを最近、私はペレットの中に馬1匹を閉じ込めている危険性と云う新しい切り口でお話をしようと考えています。 大飯3号機、4号機のように100万キロワット級の原発は出力300万馬力ほどあります。 4m四方ほどの僅かな空間に300万頭もの馬を閉じ込めているようなもんです。 コントロールする、手綱を取るのにペレットに閉じ込めているのですが、しかし、僅か直径9mmぐらい(核反応の持つ法則性からこの小ささが要求される)のペレットの中に馬1匹分のエネルギーを閉じこめるのですから、中心温度は2000度に達し、表面温度は280度に維持しなければならないというとんでもない管理をしなければなりません。 その温度勾配から見てペレットを包む第二重目の防護であるジルコニウムの燃焼破損温度約800度との間には1mmぐらいの隙間しかなく、一重目の防護とされるペレットそのものがきわめて綱渡り的な、危険なシステムとなっています。 ペレット温度管理(水温管理)の少しのバランスの狂いが二重目のジルコニウム管も燃え上がらせ水素爆発を起こし、三重目の圧力容器も四重目の格納容器も五重目の原子炉建屋も破壊してしまう危うい「安全」であったことが明るみで出ています。 ペレットに閉じ込めたつもりの馬の手綱を人間はさばくことができないのです。 軽水炉の持つ指摘されているこのような弱点について新基準はなんら触れることのないまま、なんの構造的改変を要求することもなく再稼働に突っ走ろうとしています。
⑩ 第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまいます。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのです。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれました。 人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになります。
そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに
管理し処理し処分する方法を知り得ていません。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされます。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできません。 法則的にできないのです。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではありません。 青森六ヶ所村の再処理工場も、プルトニウム処分を唱えるもんじゅ高速増殖炉も、最終処分地の選定も全てが行き詰まっています。 これが第二の問題の現状の結論です。(日本のプルトニウム所有量は44tで国内保有9t、海外保有35tで非核国で最大、IAEAスタッフの半数が日本の査察にあたっている)
原発は使用してはならないシステム、スイッチを入れてはならないシステム
⑪ したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなります。 以上の二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としています。 原発にはおびただしい問題点があります。 論じ尽せぬほど多くの問題点があります。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばなりませんが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出せません。 原発それは使用に耐えない、使用してはならないシステムである、スイッチを入れてはならないシステムだという結論です。 これを去年に続いて今年の私たちの運動をも貫らぬくゆるがぬ第二の軸足にして行かねばならないと思っています。
⑫ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムです。 原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムであります。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はありません。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることであっても通常の企業家、経済人のすることではありません。 通常はあり得ないことです。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来ました。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきました。 そして福島の破たんに至ったのです。
今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてはならないと痛感します。
原発をうごかさなければ政治、経済を運営し得ない政治家は退場を
原発にたよらずに日本の政治、経済を運営できる政治家の登場を!
⑬ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばなりません。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まります。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本のエネルギー供給、国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められます。 そこが出発点です。 まず政府に問わなければなりません。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はありません。 即刻(来る参議院選挙で)退場してもらう以外にはないのです。
日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばなりません。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおられません。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかありません。
そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれます。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなります。
今、すべての政治家、経済人、技術者、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断です。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断です。 政治的決断と国民合意の形成です。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治と経済が求められるのです。 この方向に日本の政治が舵を切り替える方に向くかどうかが来る参議院選挙で問われる最大の選択の一つです。 この時期に、原子炉を拒否した日本最初の市民運動の伝統を受け継ぐ「茨木市民の会」の結成を宣言したことは、大きな意味があります。 ペレットやアカン冊子や、小集会の知恵と工夫を産みだした去年の経験を生かした活動を展開しましょう。 ベトナムや、トルコに原発アカン冊子の英語版を届けることも小さな取るに足らぬ動きのようですが、安倍の暴走に立ち向かう大きな私たちの意気込みを示すものです。 安倍の暴走は勢いがあるように見えますが、福島後最初に原発輸出の契約にこぎつけたエストニアでは住民投票で阻まれ、地元の福島は汚染水の行き場がなくなり、もんじゅはうごかせなくなり、敦賀は廃炉に追い込まれつつあります。 原発輸出に活路を見出そうとしていますが、福島の事故も収束せず、犠牲者の救援もできないのに原発輸出とは人間のすることか、とかえって国民の怒りをかっています。 吉井さんの講演にあったように原子力村は強大なとてつもない力を持った勢力ですが、国家の後ろ盾を失った時には原発の1基だってうごかすことができない弱さを持っています。 国家の進路を決める私たちこそが彼らの運命を握っているのです。 自信をもって運動をひろげましよう。 「市民の会」の存在感を市民の中にひろく定着させましよう。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログ「なくそう原発茨木」をご覧ください。
「原発なくそう茨木市民の会」が発足しました。
2013年5月31日、茨木市福祉文化会館において、「原発なくそう茨木市民の会」が結成されました。
会員は300人を超し、結成総会で32人の運営委員が選任されました。 市民の会は、市民に開かれた会として
これから原発のない社会の実現の日まで、活動を続けていこうと思っています。
運営委員に参加してやろうと思われる方は、いつも歓迎していますので事務局までご連絡ください。
さて、「市民の会」は昨年の「原発を考える市民のつどい」を引き継ぐものです。
そこで、事務局の神山氏に今までの運動の教訓とれからの運動の方向について文章を書いてもらいました。
私たちのゆるがぬ二本の軸足
放射能は母と子の安全・安心とは両立し得ないもの
原子炉は本質的に危険なもの
原発を使わない政治と経済への決断を求める新しい市民運動へ
原発なくそう茨木市民の会事務局 神山治夫 2013年5月31日
① 福島の原発事故は日本の政治・経済の根もとを大きくゆるがしました。 事故からしばらくは国会の論議でもテレビや新聞など各種メディアでも原発の異常な危険性や、安全神話の大きな過ちなど、まじめな検討と反省の論議も見られました。
私たちの運動は、昨年は、1個のウランペレットを手にして、その小さな一粒のウランペレットの中にどのような恐ろしい危険が詰め込まれているかを手がかりに、私たち茨木市民の先輩たちが訴えた「原子炉は本質的に危険なものである」という事を軸として市民との幅広い対話を進めてきました。 それは多くの市民に驚きをもって迎えられ、冊子「原発なぜアカン」、ウランペレットキーホールダーの普及と小集会や賛同署名の積み重ねが、10月26日の市民会館大ホールでの「つどい」の成功へとつながりました。
② しかし、福島の事故から二年を経過したこのごろ、特に年末の政権交代で原発再稼動への意欲を積極的に示している安倍政権が誕生してから以後の最近の国会やテレビ、新聞、雑誌などの討論の有様は一変して来ています。 原発をめぐる論議では、本質的危険性や引き続いている福島の事故の重大な不安、被害者救済の推進などの議論が後に追いやられ、共通して現れているのが、原発なくせば停電するとか電気代が倍になるとか、日本の企業が海外に逃げ出す、日本経済が不況に陥るなどという論議がとってかわり、挙句の果てには日米同盟にヒビが入る、核技術を温存しないと日本の安全保障にかかわるといった論議までが花盛りになって来ています。 原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが主流となって来ています。 こういう状況は私たちの運動にも影を落とし、ある小集会でペレットを示して話をした方の経験で、「もうその話は聞いた。問題はエネルギーをどうするかや」とか云う反応が出ていると聞きます。
③ このような状況の変化をふまえて、私たちは、何を軸に据えて、市民との対話をすすめ、小集会で訴え、「原発なくそう茨木市民の会」の運動を前進させるべきだろうか。 あらためて熟慮し、検討を重ねて、これからの運動も正確に的を射た主張を中心軸に据えて運動を進めねばなりません。 そのための討論の素材としていくつか私の考えを述べてみます。
運動を困難にさせている放射能の五つの特徴
母と子の安全とは絶対に両立し得ない放射能の特徴
④ 国民の原発に対する不安は根強いものがあると思います。 しかし、現実には状況の変化の中で、その不安に立ち向かうお母さん方の運動もさまざまな困難に直面しています。 妥協を許さずきびしく問題点を追及する母と子の運動は、特に関西地区などでは、だんだん周りの人たちとの間に溝を生じさせ、困難が生まれているようです。 それは、放射能被害のきわめて特殊な特徴、性格からよってくるものがあります。 最大の問題は放射能が目に見えず、色に出ず、匂いもなく、音もせず、つまり人間の五感で感知することが絶対に不可能な本質を持っていることに大きく影響を受けています。 そこに対話によって知を得て原発への批判を強めているお母さんたちと、五感に感じられないことから、本当に云われるほどに危険なのやろかと、切実性の感じ方が希薄になって来ている周りの人たちとの間に溝を生じさせている大きな要素があります。 原発問題では母と子の安全・安心を守るということは、最大の課題であり、全人類的な課題です。 私たちの運動もこの課題を脇においては正しく進めることはできません。 具体的には福島の子を守るという課題をかかげつつ、私たちが今年の運動を進める上で母と子の安全・安心をおびやかす放射能の五つの特徴と放射能は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないことをしっかりとつかみ、市民対話の中で溝を埋め、共同を大きくひろめていく必要があるのではないでしょうか。
⑤放射能の五つの特徴を次のようにまとめてみました。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。②の特徴:閾値のない危険(LNT)。③の特徴:若い命、幼い命を集中しておびやかす危険(DNA破壊)。④の特徴:時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険(晩発性)⑤の特徴:人間の手で、力で消し去ることのできない危険(核子レベル世界の法則性)
以下、五つの特徴については別にまとめて書いてみますが、運動を確信持って進めてゆく上でこの問題を深く学習することは避けて通れない重要な課題です。 しかし、ある程度まとまった学習を通じてしか本当に知り得ないというむつかしさがあります。 ここでは、全体をつかむために、概略だけふれておくことにし、別の機会にしっかりと学んでみる必要があると思います。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。 放射能を持つ放射性物質には近づかないように、触れないように、放射性物質に汚れた食べ物や飲み物は口に入れないように、放射能を含む空気は吸わないようになどと子を持つお母さんたちは心配だからあちらこちらで開かれた説明会や勉強会に出かけて学びます。 しかし、そのとおり実行しようにも大変です。 何も見えず、匂いもせず、手にふれてもわからず、自分の力ではどうしようもないのです。 信頼できる検査済みのものをと思っても検査はごくわずかしかやられておらず、全ての食品を検査することはできません。 産地で選べるかそれも無理です。 つまり五感で感じ取れない危険でいくら説明されても安全だといわれてもお母さんの不安は絶対になくすことができません。 これは一方で母と子の不安を払拭できないから深く掘り下げ追及も先鋭化していく側面と、一方では日常的に感覚をマヒさせてしまう側面を持っています。
②の特徴 閾値のない危険 (Linear No Threshold)
第二の特徴は閾値がないということです。 閾とは玄関先の扉の下の木のことで、ここをまたいで入ると家の中、そこを境目に外と内とがわかれています。 ある量以下なら反応が起こらないというのが閾値です。 今まで私たちが知っていた毒物には、みな閾値があります。 しかし、この放射能による被害には閾値がないというのが最近の研究で明らかになっています。 つまり、どんなに僅かの放射能でも、ある程度少なかったら大丈夫という線切りはなくて害を受けてしまうというのが放射能被害の特徴です。
③の特徴 若い命、幼い命を集中しておびやかす危険 (DNA破壊)
第三の特徴は放射能は何を傷つけるかという問題です。 放射線は、生体の細胞内のごく小さな器官を傷つけますが、特に細胞分裂の盛んな子供、赤ちゃん、妊産婦、胎児のDNAをひどく傷つけるという特徴があります。
④の特徴 時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険 (晩発性)
DNAを傷つけられた異常な細胞はだんだんと分裂をくり返して、何年、何十年か先に体の異常として現れてくるようになります。
⑤の特徴 人間の手で、力で消し去ることのできない危険 (核子レベル世界の法則性)
最後に今まで考えて来たこの四つの特徴を持った危険性は、人間の手では、力では、知恵では消し去ることができないという特徴です。 放射線は核子、素粒子の世界でそこの法則に従うしかありません。 30年で半分減ると次の30年で残りの半分が減るという減り方をします。 結局一応なくなったと云える0・1%にまで減るのは30年の10倍、つまり300年かかることとなります。 プルトニウムなら半減期が2万4000年で消滅するまでには24万年かかることとなります。 日本の国が出来たとされる天武天皇の時から、まだわずか、1300年余りしか立っていません。 アメリカ合衆国にいたっては、まだ230年しかたっていません。 セシウムをなくすまでにはアメリカ建国以来の長い年月をかけてもまだ足りません。 24万年かかって始末しなければならないなどとは、とても私たちの考えられる時間、スパンではありません。
以上、放射能の危険が持っている5つの特徴を概略書きましたが、いずれの特徴を取ってみても、原発は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないものです。 母と子の安全・安心が守られないということは、人類が絶対に行ってはならない業、行状です。 私たちが原発問題を考える時に、絶対ゆるがせにできない事であります。 このことを私たちはしっかりと揺れない、ぶれない軸足の一つとして確認して運動を進めたいと思います。
放射能を必然的に産みだしてしまう原子炉の本質的危険
⑥ エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜでしょうか。 的外れでない正しい討論をすすめるには、出発点をはっきりした立脚点に立たせて、討論に焦点をあてなければなりません。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにあります。 福島の事故がなく、原発に何の問題もなければ、日本では電力問題、エネルギー問題が化石燃料の将来性、炭酸ガス排出規制が問題になっても電力需給が焦眉の急な問題にはなりませんでした。 福島の事故が起こり、隠されていた原発の持つ危険性が国民の目にあきらかになり、多くの原発が動かせなくなった(現在日本の原発は54基の内福島の4基が事故により廃炉になり、48基が動かせなくなって大飯の2基だけが発電をしている)からこそ、電力問題、エネルギー問題が大きな社会的問題、政治的問題になっているのです。 出発点は原発の安全性がすっかり瓦解してしまった、発電システムとして利用可能なのか、利用していいものなのか、それが出発点です。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を論じることはできない筈です。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものがすっかり多くなってしまいました。
⑦ その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まります。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとか、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っています。 原発は根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではありません)、国民的合意抜きにして、派生する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえあります。
⑧ 原発使用の可否、使っていいものか、スイッチを入れてよいものか、いけないものかは、もっと深い根源的なところにあります。
福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにしました。 福島の事故のこれまでの経過、今の現状が、最もシビアなものではありません。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっています。(原産報告書・原発なぜアカン冊子8頁参照) もし地震が数時間遅れて11日(金)の数時間おくれた夜であったなら、東京都も全域避難区域になってしまった可能性を指摘するアメリカの専門家の証言もあります。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていませんし、事故そのものも収束したと云える状況ではないことは最近の停電事故、漏水事故が明らかにしました。 東電の発表資料を見ますと(昨年末現在)福島第一原発から環境中に放出されている放射能は1号機が1000万ベクレル/h、2号機が1000万ベクレル/h、3号機が4000万ベクレル/h、合計福島第一原発からの放出量は総計6000万ベクレル/hとなり、これはここ1年間安定的に経過しているとしています。(3月7日に開かれた政府の原子力対策本部内原発廃炉対策推進会議では「同発電所が安定状態を継続している」と評価しています) 今この瞬間も静かに、目にも見えず、音もせず、匂いもせず、国民の目の届かぬところで、休むことなく延々と安定的に(!)放出しているのです。 まだ政府・東電は完全に事態を手中に収めコントロールし得たと云える状況には全く至っていません。 人工放射性物質を環境中に放出することは日本国の法規で許されぬ犯罪行為です。 政府・東電は、日夜、今現在も犯罪行為を進行中なのです。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量(事故当初11年3月時点70京ベクレル、12年5月時点累計90京ベクレル、現在は100京ベクレルに達しているだろうと見られる)のなお数百倍に達するとみられています。 この現状が原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題です。
⑨ たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、何万人レベルの人間の命にかかわる放射性物質を産みだし、放射性セシウム137だけでも600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100ベクレル/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまいます。(昨年の運動で私たちがひろく訴えてきたことで、今も最も重要な事であるには変わりありません) これが原子炉の持つ本質的危険です。 原発が使用に耐えるシステムであるかどうかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかどうかが、第一の問題ですが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示しました。 にもかかわらず政府、原子力規制委員会は新規制基準なるものを持ちだして再稼動を進めようとしています。 新規制基準は、本質的なところでは何も原子炉安全基準を強化したものでもなんでもありません。 田中委員長は「新基準はいわゆる設計基準として格納容器の基本構造に対する要求変更は致しておりません」(参議院予算委員会4月23日答弁)と云っています。 つまり危険な原子炉の本体については何の基準強化もしていないと云っているのです。 原子力ムラの人たちは、危険な放射性物質をペレット中に産み出すことは否定できず、五重の防護で放出を絶対にさせないと豪語してきました。 その根源的な一重目の防護がペレットに閉じ込めるでありました。 このことを最近、私はペレットの中に馬1匹を閉じ込めている危険性と云う新しい切り口でお話をしようと考えています。 大飯3号機、4号機のように100万キロワット級の原発は出力300万馬力ほどあります。 4m四方ほどの僅かな空間に300万頭もの馬を閉じ込めているようなもんです。 コントロールする、手綱を取るのにペレットに閉じ込めているのですが、しかし、僅か直径9mmぐらい(核反応の持つ法則性からこの小ささが要求される)のペレットの中に馬1匹分のエネルギーを閉じこめるのですから、中心温度は2000度に達し、表面温度は280度に維持しなければならないというとんでもない管理をしなければなりません。 その温度勾配から見てペレットを包む第二重目の防護であるジルコニウムの燃焼破損温度約800度との間には1mmぐらいの隙間しかなく、一重目の防護とされるペレットそのものがきわめて綱渡り的な、危険なシステムとなっています。 ペレット温度管理(水温管理)の少しのバランスの狂いが二重目のジルコニウム管も燃え上がらせ水素爆発を起こし、三重目の圧力容器も四重目の格納容器も五重目の原子炉建屋も破壊してしまう危うい「安全」であったことが明るみで出ています。 ペレットに閉じ込めたつもりの馬の手綱を人間はさばくことができないのです。 軽水炉の持つ指摘されているこのような弱点について新基準はなんら触れることのないまま、なんの構造的改変を要求することもなく再稼働に突っ走ろうとしています。
⑩ 第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまいます。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのです。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれました。 人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになります。
そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに
管理し処理し処分する方法を知り得ていません。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされます。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできません。 法則的にできないのです。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではありません。 青森六ヶ所村の再処理工場も、プルトニウム処分を唱えるもんじゅ高速増殖炉も、最終処分地の選定も全てが行き詰まっています。 これが第二の問題の現状の結論です。(日本のプルトニウム所有量は44tで国内保有9t、海外保有35tで非核国で最大、IAEAスタッフの半数が日本の査察にあたっている)
原発は使用してはならないシステム、スイッチを入れてはならないシステム
⑪ したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなります。 以上の二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としています。 原発にはおびただしい問題点があります。 論じ尽せぬほど多くの問題点があります。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばなりませんが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出せません。 原発それは使用に耐えない、使用してはならないシステムである、スイッチを入れてはならないシステムだという結論です。 これを去年に続いて今年の私たちの運動をも貫らぬくゆるがぬ第二の軸足にして行かねばならないと思っています。
⑫ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムです。 原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムであります。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はありません。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることであっても通常の企業家、経済人のすることではありません。 通常はあり得ないことです。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来ました。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきました。 そして福島の破たんに至ったのです。
今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてはならないと痛感します。
原発をうごかさなければ政治、経済を運営し得ない政治家は退場を
原発にたよらずに日本の政治、経済を運営できる政治家の登場を!
⑬ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばなりません。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まります。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本のエネルギー供給、国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められます。 そこが出発点です。 まず政府に問わなければなりません。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はありません。 即刻(来る参議院選挙で)退場してもらう以外にはないのです。
日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばなりません。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおられません。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかありません。
そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれます。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなります。
今、すべての政治家、経済人、技術者、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断です。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断です。 政治的決断と国民合意の形成です。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治と経済が求められるのです。 この方向に日本の政治が舵を切り替える方に向くかどうかが来る参議院選挙で問われる最大の選択の一つです。 この時期に、原子炉を拒否した日本最初の市民運動の伝統を受け継ぐ「茨木市民の会」の結成を宣言したことは、大きな意味があります。 ペレットやアカン冊子や、小集会の知恵と工夫を産みだした去年の経験を生かした活動を展開しましょう。 ベトナムや、トルコに原発アカン冊子の英語版を届けることも小さな取るに足らぬ動きのようですが、安倍の暴走に立ち向かう大きな私たちの意気込みを示すものです。 安倍の暴走は勢いがあるように見えますが、福島後最初に原発輸出の契約にこぎつけたエストニアでは住民投票で阻まれ、地元の福島は汚染水の行き場がなくなり、もんじゅはうごかせなくなり、敦賀は廃炉に追い込まれつつあります。 原発輸出に活路を見出そうとしていますが、福島の事故も収束せず、犠牲者の救援もできないのに原発輸出とは人間のすることか、とかえって国民の怒りをかっています。 吉井さんの講演にあったように原子力村は強大なとてつもない力を持った勢力ですが、国家の後ろ盾を失った時には原発の1基だってうごかすことができない弱さを持っています。 国家の進路を決める私たちこそが彼らの運命を握っているのです。 自信をもって運動をひろげましよう。 「市民の会」の存在感を市民の中にひろく定着させましよう。