原発なくそうの思いで集まっている茨木市民有志グループです。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログ「なくそう原発茨木」をご覧ください。 よろしくネ。
NHK特集「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を視聴して 異議あり!
神山治夫
2013年2月17日
2013年2月16日NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を放映し、視聴した。 徹底討論と題されているが、討論の筋立てに根本的な問題ありと感じた。 思うままにノートした。
エネルギー政策の論議と原子力の本質的危険性
原発を使わない政治と経済への決断と新しい知力の総結集を
神山治夫2013年3月25日
① 福島の原発事故は日本のエネルギー政策の根幹をゆるがした。 2月16日、NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズにおいて「どうするエネルギー」をテーマとして政府代表、経済界から経団連、大学、民間の識者数名による討論を放映した。 各種メディアでもエネルギー問題の議論が再々にわたって登場する。
しかし、このNHKの討論を始め最近の討論に共通して現れているのが、原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが多い。 しかし、エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜか。 徹底的な討論をすすめるなら、出発点はそこにはっきりした立脚点、討論の焦点をあてなければならない。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにある。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を新しい立場から論じることはできない筈だ。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものが多い。 前記NHKの討論においても民間識者をふくめその視点に立つことを断固として主張する立場に立った論者の姿が見えなかった。
その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まる。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとかいった、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っている。 原発が根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではない)、国民的合意抜きに、派性する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえある。
しかし、政府やそれに近い論者はこう反論する。 その使用に耐えるもの、使用が可能なもの、使用が許されるものか否かの判断のために具体的な規制基準や、安全対策、電力需給・経済への影響度などを詳細に検討することが現実的であって、原発NoかYesかの理念論争をやっているのではない、と。 しかし、政府やその論者たちは重大なことをごまかしている。 なぜなら徹底討論の冒頭でも明らかになったように、規制基準、安全対策の強化などは全て再稼動の手順のひとこまとして行われているのであって、原発使用の可否の判断のための調査活動ではない。 可否の判断は拙速に決められない、決めるべきではない、と先延ばししながら早期の再稼動めざしての準備作業として論議もし、行政的措置もとっているのが現実である。 使用の可否の判断のためと強弁するなら、その可否の国民的判断が示されるまで、すべての原発(稼動中の大飯2基を含む)を停止し、再稼動しないという政治決定が先にあるべきである。
② 原発使用の可否はもっと深い根源的なところにある。 福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにした。 福島の事故の今の現状が、最もシビアなものではない。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっている。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていないし、事故そのものも収束したと云える状況ではない。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量のなお数百倍に達するとみられている。 今この瞬間も時間あたり1000万ベクレル(放射性セシウム137換算)もの放射性物質が放出され続けている。 静かに、目にも見えず、音もせず、しかし、休むことなく延々とである。 まだ政府・東電は完全に手中に収めコントロールし得たと云える状況にも至っていない。 これが原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題である。
第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまう。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのである。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれた。 それは人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになる。 たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、放射性セシウム137を600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100bq/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまう。 これが原子炉の持つ本質的危険である。 原発が使用に耐えるシステムであるかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかが、第一の問題であるが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示した。
そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに管理し処理し処分する方法を知り得ていない。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされる。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできない。 法則的にできない。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではない。 これが第二の問題の現状の結論だ。
したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなる。 この二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としている。 原発にはおびただしい問題点がある。 論じ尽せぬほど多くの問題点がある。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばならないが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出さない。 それは使用に耐えない、使用してはならないシステムであるという結論だ。
③ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムである。 これを現実社会で稼動させるということはどういうことか。 企業活動で云うならば、出資をし、設備を作り、資材を用意し、労働者を雇用し、リスクに備えて保険を整備し、生産活動を開始し、製品を出荷し、流通させ、消費に至る。 残った産業廃棄物は製造者責任で保管し処理処分する。 これらの一貫した全体のシステムを完結させて投資した資本に見合う利潤が得られて再生産が可能となる。 しかし、原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムである。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はない。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることである。 通常はあり得ないことだ。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来た。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきた。 そして福島の破たんに至った。
今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてならない。
④ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばならない。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まる。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、ベストミックスはどうあるべきか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本の国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められる。 そこが出発点だ。
NHK番組には政府・自民党代表と経団連代表、大学・民間シンクタンクの知者たちが集まっておられた。 まず政府に問わなければならない。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はない。 即刻(来る参議院選挙でも)退場してもらう以外にはない。
日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばならない。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおれない。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかない。
そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれる。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなる。
今、すべての政治家、経済人、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断である。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断である。 政治的決断と国民合意の形成である。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治が求められるのだ。
そこからすべての新しい論議、新しい展望が開け、取り組みが始まる。 原発ゼロへの決断、全ての原発を再稼動させないという決断、それが全ての出発点となる。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログ「なくそう原発茨木」をご覧ください。 よろしくネ。
NHK特集「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を視聴して 異議あり!
神山治夫
2013年2月17日
2013年2月16日NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を放映し、視聴した。 徹底討論と題されているが、討論の筋立てに根本的な問題ありと感じた。 思うままにノートした。
エネルギー政策の論議と原子力の本質的危険性
原発を使わない政治と経済への決断と新しい知力の総結集を
神山治夫2013年3月25日
① 福島の原発事故は日本のエネルギー政策の根幹をゆるがした。 2月16日、NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズにおいて「どうするエネルギー」をテーマとして政府代表、経済界から経団連、大学、民間の識者数名による討論を放映した。 各種メディアでもエネルギー問題の議論が再々にわたって登場する。
しかし、このNHKの討論を始め最近の討論に共通して現れているのが、原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが多い。 しかし、エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜか。 徹底的な討論をすすめるなら、出発点はそこにはっきりした立脚点、討論の焦点をあてなければならない。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにある。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を新しい立場から論じることはできない筈だ。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものが多い。 前記NHKの討論においても民間識者をふくめその視点に立つことを断固として主張する立場に立った論者の姿が見えなかった。
その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まる。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとかいった、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っている。 原発が根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではない)、国民的合意抜きに、派性する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえある。
しかし、政府やそれに近い論者はこう反論する。 その使用に耐えるもの、使用が可能なもの、使用が許されるものか否かの判断のために具体的な規制基準や、安全対策、電力需給・経済への影響度などを詳細に検討することが現実的であって、原発NoかYesかの理念論争をやっているのではない、と。 しかし、政府やその論者たちは重大なことをごまかしている。 なぜなら徹底討論の冒頭でも明らかになったように、規制基準、安全対策の強化などは全て再稼動の手順のひとこまとして行われているのであって、原発使用の可否の判断のための調査活動ではない。 可否の判断は拙速に決められない、決めるべきではない、と先延ばししながら早期の再稼動めざしての準備作業として論議もし、行政的措置もとっているのが現実である。 使用の可否の判断のためと強弁するなら、その可否の国民的判断が示されるまで、すべての原発(稼動中の大飯2基を含む)を停止し、再稼動しないという政治決定が先にあるべきである。
② 原発使用の可否はもっと深い根源的なところにある。 福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにした。 福島の事故の今の現状が、最もシビアなものではない。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっている。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていないし、事故そのものも収束したと云える状況ではない。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量のなお数百倍に達するとみられている。 今この瞬間も時間あたり1000万ベクレル(放射性セシウム137換算)もの放射性物質が放出され続けている。 静かに、目にも見えず、音もせず、しかし、休むことなく延々とである。 まだ政府・東電は完全に手中に収めコントロールし得たと云える状況にも至っていない。 これが原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題である。
第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまう。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのである。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれた。 それは人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになる。 たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、放射性セシウム137を600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100bq/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまう。 これが原子炉の持つ本質的危険である。 原発が使用に耐えるシステムであるかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかが、第一の問題であるが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示した。
そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに管理し処理し処分する方法を知り得ていない。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされる。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできない。 法則的にできない。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではない。 これが第二の問題の現状の結論だ。
したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなる。 この二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としている。 原発にはおびただしい問題点がある。 論じ尽せぬほど多くの問題点がある。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばならないが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出さない。 それは使用に耐えない、使用してはならないシステムであるという結論だ。
③ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムである。 これを現実社会で稼動させるということはどういうことか。 企業活動で云うならば、出資をし、設備を作り、資材を用意し、労働者を雇用し、リスクに備えて保険を整備し、生産活動を開始し、製品を出荷し、流通させ、消費に至る。 残った産業廃棄物は製造者責任で保管し処理処分する。 これらの一貫した全体のシステムを完結させて投資した資本に見合う利潤が得られて再生産が可能となる。 しかし、原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムである。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はない。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることである。 通常はあり得ないことだ。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来た。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきた。 そして福島の破たんに至った。
今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてならない。
④ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばならない。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まる。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、ベストミックスはどうあるべきか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本の国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められる。 そこが出発点だ。
NHK番組には政府・自民党代表と経団連代表、大学・民間シンクタンクの知者たちが集まっておられた。 まず政府に問わなければならない。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はない。 即刻(来る参議院選挙でも)退場してもらう以外にはない。
日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばならない。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおれない。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかない。
そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれる。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなる。
今、すべての政治家、経済人、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断である。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断である。 政治的決断と国民合意の形成である。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治が求められるのだ。
そこからすべての新しい論議、新しい展望が開け、取り組みが始まる。 原発ゼロへの決断、全ての原発を再稼動させないという決断、それが全ての出発点となる。