原発なくそう 茨木

阿武山原子炉設置反対運動の歴史と意義
茨木市で原発なくそうの運動を!

原発再稼働で揺れる若狭・おおい町へ行ってきました

2012-05-21 13:27:14 | 日記
原発なくそうの思いで集まっている茨木市民有志グループです。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログ「なくそう原発茨木」blog.goo.ne.jp/c262uouiをご覧ください。
今。「関西広域連合の声明に抗議する。」、「原発と憲法」についてと「原発なぜアカン展」、
「阿武山原子炉反対茨木市民運動展」のパネル展の案内を載せています。 あちらも御覧あれ!



おおい町戸別訪問体験記

★おおい町へ! ・・・・
政府・関電から若狭大飯原発の再稼動を迫られているおおい町で、稼働を許さないとたたかっている方たちが4月27日から5月1日の間に、おおい町3000戸の全所帯に「大飯原発再稼働反対」の署名を持って訪問する活動をするという報道を聞き、4月29日、支援に行ってきました。
行く前には、次のようなことを予想していました。

★おおい町へむかって車を走らせながら ・・・・ 
話に応じてくれるのは、よくて4軒に1軒だろう
「どっから来たんや?」と聞かれて「大阪から来た」などというと、「何も分っとらんよそ者がごちゃごちゃ言うな。おまえら電気使うてるだけのくせに。地元のこと分かって来とんのか!」というふうに反発されるのではないか。
賛成・反対、マスコミでは「地元では半々」と報じられているが、新聞社やテレビ局からの電話アンケーなら「秘密保持性」については「安心感」があるのである程度正直に答えても、訪ねてきた「原発反対派」の我々には、次の家で何を言われるか分からないので、直接面と向かうと黙り込んでしまうか、話はしてくれても、はっきりと「反対」というような立場からの意見はほとんど言ってくれないのではないか。いや、その前にやっぱり話そのものをしてくれないのでは? などなどなど。

★さあ、おおい町の村へ入って、話してみると ・・・・
ところが実際の結果は「へえーっ?」と驚くものでした。
訪問したのは名田庄という、山の中と言ってもいいくらいの、戸数57軒の集落でした。 27軒と話して、拒否されたのはたった2件。 そのうちの一人は相当高齢のおばあちゃんで、我々を何かのセールスと最期まで勘違いしていて、トンチンカンな話のまま「終わり」。 もう一人は30代の女性で、「うちに来られても困ります」と、戸を閉められてしまいました。 でも、こんな応対はこの二人だけ。 あとはみんな、ほんとによく話してくれ、なんとかきっかけを見つけてこっちの方から話を切り上げないと話が終わらないという状態でした。

★「町の説明会あんなん茶番や!」本音を聞かしてくれる町民 ・・・・
「外人部隊」であることの「ひけめ意識」についても全く逆でした。 始めは私たちに対し慎重な感じだった人も、「大阪から来ました」というと、「じゃあ安心」という感じで、途端に顔から緊張感が消えて、近所に対しては時々警戒するような目配りと気配を見せても、私たちには「よそ者」という安心感があるようで、賛成、反対別にして「それはそれはご苦労様ですねぇ」とみんな言ってくれ、眉を開いて話をしてくれます。
「26日の、町の説明会、知っとるでしょう。 私も行ってきた。 あんなん茶番や。 『町民とは話し合いをしました』ゆうためだけのもんですわ。 はじめからそうなんですわ。 なんせ10人ほどの人が発言してね、そのうち8人くらいの人が反対なんですわ。 賛成意見の人なんか2人しかおらんのですから。 お坊さんと民宿の経営者の人がな、ほんまにようがんばらはってなあ。 『産業の振興と安全性とは別問題や!』言わはってな。 あの民宿の人、もう原発の客、絶対にこんようにされますで。 間違いなしに。 あの人これからどうすんのかなあ。 ほんまに頭下がりますわ」
庭先で洗車をしていた30歳くらいの男性は、「私のおやじは『高浜』で働いてるんです。 それでも、『ゲンパツ』に対してはみんな何も言えへんけど、みんな一緒の気持ちですよ。 ええと思てるもんなんかおらへん。 ただ、政府がこんなふうな、原発がらみの仕事しかないような町にしてきたんですから、政府が責任もって仕事と雇用をちゃんとしてくれんと、『反対』だけゆうてても、どうしようもないと思うんですわ」などと、地元の人にだとこんなふうには本音は語ってないんじゃないかと思えるような話をしてくれるんです。 「外人部隊」であることが返って「威力」を発揮した、という感じでした。 この人このあと、「あの川の向こうにもちょっとだけやけど、まだ家あるよ」と指さして親切に教えてくれたんです。 私たちがいわゆる「反対派」であることは勿論百も承知でです。

★「原発ないほうがいい」派が7割 ・・・・
計数的にご報告しますと、「賛成」者、数%。 「分からない。答えない」 3割弱。 残りの約7割の人は「恐いです。ないほうがいい」でした。 びっくりするでしょう?しかも、「分からない。 答えない」の人も、内心は「いやだ!」と言いたいが言えない。 もしくは「恐い」と思いながらも、原発産業に関わっているごく身近な人から「それでも電気はいるんやし」と言われ、或いは自分にそう言い聞かせ、それ以上はつらいから、自分の頭の中から追い払って考えないようにしている、というのがホンネだとはっきり、ほんとにはっきり、その気持ちが伝わってくるんです。 そしてそんな立場の人たちもみんな、私たちが訪問したこと、私たちが話すことについては、ほんとに「誠実」に受け答えをしてくれるんです。 ずっと都会に住んできた人間としては、戸惑いを覚えてしまうほど、みんな、こちらが誠実に話しかければ、立場、考えが違っても、ほんとに誠実に応対してくれるんです。 都会では初めて訪ねてきたような者が政治的立場の違う者だった場合は、実につっけんどんな対応をされることなど珍しくないのに、めんくらってしまうほど、相手に対して誠実なんですね。
地元住民のこういう気持ちに直接接することが出来たので、「行ってよかった」と、ほんとに思ってます。 おっかなびっくり回り始めて、すぐ楽になり、最後には意気揚々と引き上げました。 この日、大飯町の山手では、八重桜がまさに“満開”でした。 (茨木市松ケ本町・Y生)
 

原発事故の影響調査 「原産報告」から考える

2012-05-14 19:06:48 | 日記
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原発事故の影響調査  原産会議報告書から考える
                              神山治夫
★再稼動に不安を抱き反対する国民は過半数に達する
今、大飯原発の再稼動を進めようとする政府の動きに対して、地元の福井県、おおい町、UPZ(緊急防護措置を準備する区域)30キロ圏内に入る滋賀県、京都府にとどまらず、全国的な関心を呼び起こし、世論調査でも再稼動反対62%、政府の安全基準が信頼できない82%に達している。(毎日新聞調査) 

★再稼動が無謀で危険きわまりない暴挙であると国民が感じている理由
今、国民の多くが再稼動を認めるべきではない、政府の再稼動をなにがなんでも進めようとする姿勢には、道理がない、無謀極まりないと考える根拠は大きくは6点あると思える。
① 福島のあの重大な事故がいまだに原因も究明されておらず、事故の収束もできていないこと。 未だに原子炉格納容器の蓋さえあけられず、原子炉内の核燃料の状態も把握できない状態にあること。 事故の原因が津波だけによるものか、地震によってどのようなダメージを受けていたのかすらわかっていないという現状であることだ。
② 政府がたった3日間で急いで作りあげた30項目の安全対策も完全実施されてはおらず、重要な部分で計画だけがあるという状態であること。 事故が起こった時に対処する上で欠かすことのできない重要施設である「重要免震棟」さえ3年以内に作るという計画だけである。 もし、事故が起こって、放射能プルームが拡散せずに舞い降りて来た時には、事故対応を放棄して職員や事故収束のための応援隊も全て退避でざるを得なくなる。 そのような安全対策上も不完全な状態のまま再稼動することは認められない。
③ 福島事故と地震との関連はまだまったく解明されていない中で地震・津波の危険性については学会でも見直し再検討をせまられる課題となっている。 2007年7月16日に起こった中越沖地震では、柏崎刈羽原発1号炉において想定基準値振動450ガルをはるかに越す1699ガルの振動に見舞われた。 大飯原発では近辺の熊川断層2本の連動で700ガル、3連動で760ガルを想定基準値振動としてるが、中越沖地震のような震度5弱、マグニチュード6.8で1699ガルの振動に見舞われると、大飯原発では限界点(cliff edge)1260ガルをはるかに越えてしまい、破滅となる。 
④ もし事故が起こった場合、どのような被害が予測されるのか、その予測に基づいて住民の安全をどのように守り、完全な避難が可能な計画が出来ているのか。 実際は科学的な根拠のある被害予測もされておらず、したがって住民の安全を守る対策、避難対策も立てられていない。
⑤ 経済産業省下におかれている原子力安全保安院も内閣に所属する原子力安全委員会も、まったく原子力規制の役割を果たさなかった。 国際的な基準となっている、推進機関と完全に分離し、独立した権限を持つ規制機関が日本ではなかった。 そのことが国民の大きな不信感となっている。 したがって、今は、科学的な知見と専門技術を持ち、推進機関とは完全に独立した、強力な権限を持つ適正な規制機関がない状態である。 にもかかわらず、科学的知見もない、専門技術も有していない、内閣の一部大臣だけで、判断して再稼動をさせるということは全く規制のおよばない暴挙である。
⑥ 福島の事故の被害が未だ収束の見通しすら立っておらず、多くの人たちの生活基盤を奪い、違憲状態が続いている現状で再稼動を許すことは被害者に対する冒涜である。


★被害予測調査について
 今稿では、上記の国民の懸念の内、④の被害の想定について、少し検討したい。 今まで日本の政府が本格的に原発の事故の被害がどのようなものであるかを住民の安全を確保するためという観点から調査した例はない。 ただ、1960年に科学技術庁が原子力産業会議に委託して行い、同会議から政府に提出された「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害に関する試算」という調査結果がある。 これは、住民の安全をどう確保するかという観点から調査されたものではなく、原発事業を推進するにあたって、電力会社が負うリスクを試算し、電力会社をバックアップするための「原子力損害賠償法」の制定のために行った調査である。 しかし、それでも、この調査は原発の持つ危険性が並はずれた規模のものであり、破滅的なものであることを浮き彫りにした。 この調査を普通、「原産報告」と呼ばれている。

★「原産報告」が示したもの
「原産報告」は第1章冒頭にこう書いている。 「いうまでもなく、大型原子炉が万一大事故を生じた場合、敷地外の公衆に災害を与える可能性をもつ所以は大抵の大型原子炉中に大量の放射性物質が貯えられているためである。 大ざつぱにいえば原子炉が停止して後約1日後において、内蔵されている放射能は熱出力1Wあたり1キュリーであるといえる。 つまりここで取扱おうとする熱出力 50 万KWの原子炉では内蔵されている放射能の全量は約 5×10の8乗キュリーになるということである。多くの核分裂生成物に対する人体の許容量がマイクロキュリー(1キュリーの100万分の1)のオーダーで測られるものであることを考えるならば、核分裂生成物から生じうる潜在的危険は非常に大きいものであることがわかるであろう。」
※キュリー(C1)は現在使用されているベクレルに換算すると 1C1=3.7×10の10乗ベクレル=370億ベクレル(bq)となる。 熱出力50万キロワットの原子炉に作られて内臓されている放射性物質の放射能は5億キュリー=5億×370億ベクレル(1850京ベクレル)となる。

この調査で予測の基礎となる事故によって放出された放射能の規模を次のように設定している。 「本調査では10の4乗キュリーをこえる量が大気中に放散される事故を対象とする。」 つまり重大事故が起こって、370億ベクレルの×10000=370兆ベクレル以上の放射能が環境中に放出されたと云う事を基準としている。
 これを基準として、アメリカのオークリッジ国立研究所が開発した計算方法WASH740と云われる計算方法でシュミレーション調査されている。 
シュミレーションの設定条件として次のように設定している。 
「考察する原子炉は事故が起きる前に約 4 年間運転した熱出力 50 万 KW の動力炉とする。
(1)分裂生成物の放出について次の場合を示す。その他の場合の大体の傾向は以下の結果から推定できよう。
(イ)揮発性放出稀ガスの全部と沃度の 50% と向骨性元素の 1% とセシウムの 10% とが放出。キュリー数としては (24 時間後の値で) (イ) 10の5乗キュリー    (ロ) 10の7乗キュリー
(ロ)全放出。炉内の内蔵分裂生成物に比例した割合で放出 (イ)10の5乗キュリー (ロ)10の7乗キュリー
(2)放出温度については2つの場合を考える。 (a)低温(普通の大気温度) (b)高温(3000度F)
(3)放出粒子の大きさについては質量の中央値が次の直径であらわされる2つの典型的分布を考える。
(a)1ミクロン。煙の粒度分布に相当。 (b)7ミクロン。工場塵の粒度分布に相当。
(4)気象条件については次の2つの気象変化の組み合わせを考える。 (a)気温逓減または逆転。 (イ)普通の温度逓減状態。日中に相当。 (ロ)かなり強い温度逆転状態。夜間のある時間に相当。  (b)乾燥または湿潤。 (イ)雨無し。 (ロ)0.7mm以上。最もよくあると思われる降雨量率。」
計算の結果をその結論をまとめた表の一つが次にあげる表である。






★上記の結果から読みとれるもの
福島の事故の場合に最も近い想定条件は放出条件が「揮発性粒度小」であって、気象条件が「逓減雨有」であった。 したがって急性死亡者、急性障害者はゼロ、要観察者が3100人である。 しかし、もし放出条件が同じであって、気象条件が「逆転雨無」であった場合の計算結果は、急性死亡者720人、急性障害者5000人、要観察者130万人という驚くべき結果を示している。 これは全くの偶然の支配するところであって、人為的に避けられるものではない。 この調査は放出放射能が10の7乗キュリー、つまり37京ベクレルとしている。 福島の場合は77京ベクレルであったとされるので、2倍以上の放射能が放出されたことになる。 人的被害の内、急性死亡者、急性障害者の数は、原子炉周辺の人口分布にもかかわって来るので、一概に2倍の被害とは言えないが、720人をはるかに上回る被害が出る可能性があったことが読みとれる。

★「原産報告書」が想定しないこと
 しかし、この「原産報告書」が全く想定していないことで、現代の問題としては重大な問題がある。 
それは、急性死亡者が720人も出るということの重大さである。 あくまで、この調査では、50万キロワットの原子炉の単独事故としてシュミレーションされている。 それは当時は同じ場所に複数の原子炉が林立するということがなかったからで、想定していないのは当然と云える。 しかし、この「原産報告」が示す事故の重大さを知りながら、同一敷地内に原子炉を林立させるという事を政府、電力会社は行って来た。 その結果、現状ではこの「原産報告」が示していない、次の段階のシュミレーションの持つ大変な問題が明確になっていない。 つまり、福島では、4つの原子炉が同じ地震・津波の被害を受けて全てで爆発が起こり、放射能の環境への重大な放出が起こってしまった。 しかし、この「原産報告」が示すものは、たとえ同じ地震・津波の被害という事態がなくても、一つの原子炉の重大な事故が、急性死亡者が720人(福島ならその倍も出ていたか)も出るという事態のなかで、必然的に他の原子炉への事故の波及が起こってくる。 一切の事故対応人員が緊急撤退をせまられる中で、全ての原子炉が緊急事態に陥ることは十分に予想される。 その場合の放射性物質の環境への放出がどんなレベルのものになるのか、それによってどの程度の人的損害が予想されるのか、全くそういう科学的調査は行われていない。 

★緊急事態での避難計画も立てられない
そのような連鎖的事故が起こり、対応する人員配置も不可能になった時の被害の程度、避難しなければならない地域の想定も何もない。 これで、地元地方自治体が避難計画など立てられるわけはない。 また、影響範囲がUPZ(緊急防護措置を準備する区域)30キロ圏内ではとてもおさまらない。 

★この一点からも再稼動をすることは暴挙だといえる
以上、再稼動に対する国民の批判の内の④項(被害予測)ひとつだけを少し検討したが、これだけでも、今の政府、関西電力の再稼働への動きは無謀、暴挙といわざるを得ない。 原子炉が一つの立地の中に林立させている現状で、それを考慮した被害予測を行えば、それは破滅的な結論を得ること、つまり、原発は日本に置けないという結論を得ることになっても、科学的なこの調査はやらなければならないし、その調査抜きでの原発の再稼動は認められるべきではない。



阿武山原子炉反対茨木市民運動の今日的意義について

2012-05-07 18:27:19 | 日記

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阿武山原子炉設置反対茨木市民運動   原子炉と住民の意思と科学者

神山治夫2011・12・28

① 福島原発事故を受けて、各地原発の定期点検後の再稼働が地元住民、自治体の合意が得られず、出来ない状況が起こっている。 2011年12月26日現在で稼働中の原発は全国54基中、関西電力高浜原発3号機など6基のみとなった(毎日新聞12月26日付)。 高浜3号機も2月には定期点検入りとなり、九州電力に続いて関西電力も全て停止することとなる。

② 住民合意がなければ、原発の設置はおろか、再稼働も不可能である。 原子炉の設置、運転と住民合意との関係で最初の本格的な矛盾、対立となったのが1957年8月に起こった阿武山関西研究用原子炉の設置に反対する茨木市市民運動であった。 

③ 当時の状況を概括すると、1953年12月8日、国連総会においてアイゼンハワー米大統領が「原子力平和利用Atoms for Peace」の演説を行った。 1955年11月1日、東京で始まった「原子力平和利用博覧会」はその後広島を含む7都市で行われた。 「最初に放射能雨の洗礼を浴びせ、次は原子力平和利用を装った外国の営利主義からの抜け目のない攻勢である」(毎日新聞)との一部の警告もあったが、広島での博覧会においてみられたように、原爆は絶対悪だが、平和利用は絶対善、人類のホープ、明るい未来を約束するものというキャンペーンが一世を風靡する状態となった。 「輝かしい原子力時代を迎えることは明らか」と述べた渡辺広島市長や長田新氏、一時的には森滝市郎氏などの反核運動家、あるいは平和主義者であり民主的学者と目された末川博立命館大学総長なども相次いで原子力平和利用を称賛した。 原子力平和利用の在り方に批判的とされた専門学者もその例外ではなかった。(「原発とヒロシマ」田中利幸2011年岩波) 
茨木市民運動の勝利に大きく貢献した原子物理学者立教大学教授武谷三男氏すら当運動に招かれて吹田市で開催された市民公聴会の発言冒頭で「原子力というのは人類の将来のホープであるということは、これは明らかなことであります。」と述べている。(「原子炉安全神話」を拒否した茨木市民・科学者のたたかいの記録・1957年発行冊子の復刻版p16)

④ 1954年3月の国会で突然2億3500万円の原子力開発予算が修正提案で提案され採択された。 この予算をめぐって財界、一部大学の工学部などが積極的にのりだした。 一気に日本への原子炉導入に向けての取り組みが各界あげて一斉に加速された。 その先端となったのが関西への研究用原子炉の設置であった。 

⑤ しかし、その各界あげての原子力平和利用推進の大きな流れの前に大きく立ちはだかったのが、茨木市民による原子炉設置反対住民運動であった。 茨木市民の反対はきわめてprimitiveな「水道源をおびやかし、生活と故郷をおびやかす原子炉を身近に置くことは許さない」というものであった。 この運動は、要求はきわめてprimitiveな原初的なものであったが、戦後民主主義の一つの大きな到達点であった地方自治のありようをフルに生かした運動が展開された。 組織された「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」の委員長には田村英茨木市市長が就任し、茨木市議会対策会議が委員を出し、その下に各町内会、その他商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などを網羅した運動となった。 市民の生命と暮らしを守るという戦後民主主義の下で課せられた地方自治体の責務、役割、可能性を見事に発揮したとも云える。
最初に立ちあがった茨木市旧安威村の住民決起大会で、旧村長抱義一氏は「設置するならどこか遠い所へ持っていってもらいたい」と述べ、高島好隆市議は「本当の安全度は疑問である。自分たちの生まれ育った土地を護るためあくまで反対する」と述べている。(「京阪新聞」昭和32年8月25日付)
 田村英茨木市長は声明のなかで反対理由についての第一に「茨木市住民の大部分は安威川の水により生活している」ことを指摘し、「安威川は茨木市の生活資源であると言っても過言でない。阿武山の水は大部分安威川に流れ込んでいる。阿武山の水のいかんはただちに安威川の水質に重大な影響を及ぼすのである。」ことを述べて反対理由にあげている。(「阿武山原子炉設置反対理由」田村英)

⑥ 原子炉設置を推進しょうとする側の関係学者もこの住民のprimitiveな不安・要求を無視して進むことはできなかった。 そこで住民説得のために持ちだされた論理が「原爆と違って平和利用の原子炉は絶対安全なものである」というものであった(1957年8月27日高槻市主催原子炉問題聴聞会)。 それは、今、痛切に反省されなければならない現在に続く「安全神話」の始まりであった。

⑦ 「茨木市民は原爆と原子炉の違いもわからない無知から反対している」とのキャンペーンに抗して、茨木市民は市議会代表、婦人団体代表を派遣し、自ら専門科学者に接触し、坂田昌一氏、武谷三男氏など当時の原子物理学の重鎮たちに訴えて、科学者たちの関心を引き起こした。 専門科学者は「原子炉は絶対安全なもの」という誤った論理をさすがに看過することはできなかった。 学者社会の中のいろいろな立場上の困難さをのりこえて、武谷三男氏、服部学氏は、直接現場に入り、住民の中に入って自らの見解を述べ、「原子炉は本質的に危険なものである」と明言した(1957年9月10日茨木市反対期成同盟主催聴聞会)。 茨木市民の危惧、要求が理にかなったものであると支持した。 また、全国25大学の140名に及ぶ専門学者が連名で阿武山原子炉設置計画の白紙撤回を求める要望書を組織し提出した(1957年10月付関西研究用原子炉設置準備委員会委員各位宛「関西原子炉設置に関する要望書」)。 
武谷三男氏は後日著書の中で「あれがまだできてない公害反対運動のトップなんだ。茨木の関西原子炉反対運動ね。あれが最初でしょうね。日本の。あのとき、でも茨木の人たちはよく勉強していましたよ。非常によく勉強していましたね」(武谷三男『現代技術の構造』技術と人間、1981・p273)、「ほんとに市をあげての反対運動をやった。この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。その設置に反対して、かなり熱心で、しかもりっぱな闘争をやって、それは成功したんですね」(同前・p157)と述べている。(引用・「初期原子力政策と戦後の地方自治-相克の発生 : 関西研究用原子炉交野案設置反対運動を事例に」樫本喜一・人間社会学研究集録. 2006, 2, p.81-110)
 1957年12月20日、京都大学自治会代表者会議は声明を発表し、その中で「地元民の反対運動が研究者に大きな影響を与え、良心的な研究者の反省を呼びおこし、それが組織に迄高められたことは高く評価すべきことであり、・・・」と総括している。(「声明―関西研究用原子炉に対する我々の態度―」京都大学自治会代表者会議・1957年12月20日)

⑧ 茨木市民は科学者の支持・協力を得て行く中でその原初的な主張を通しながら、基本的な主張を明確にして行った。 その第一は「原子炉は本質的に危険なものである」という主張であった。 この主張に確信を与えたのは、推進側学者と武谷三男氏との間でかわされた吹田市での公開討論であった。 推進側学者の論点はことごとく武谷三男氏によって論破された(1957年9月11日吹田市並びに吹田市議会主催「関西研究用原子炉設置についての公聴会議事録」・日本共産党茨木市委員会発行冊子「阿武山原子炉設置反対運動の勝利のために」所載速記録)。 茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟は「原子炉は本質的に危険なものである」という大見出しを掲げた「情報2号」を全市民に配布し(1957年12月5日付)、公開討論の速記録(抄)を伝えた。 武谷三男氏は公開討論の中で次のように述べている。 「今後もし動力炉が入って来て、そうしてこれが日本の重要なエネルギー源になるほど大きくなって来たならば、それがもし乱暴に扱われたときの被害、安全々々と言いながら乱暴に扱われたときの被害は恐るべきものに達するだろうと私は今から心配しております。」(前掲速記録1957年発行冊子の復刻版「原子炉安全神話を拒否した茨木市民・科学者のたたかいの記録」p26) これが茨木市民と良心的科学者とが共有した心配であった。 残念ながら福島でその心配は現実のものとなった。

⑨ また、茨木市民の主張のもう一つの大きな特徴となったのが「宇治川・大阪なら危険だが、安威川・茨木ならまあいいか」という論理は絶対受け入れられないという事であった。 原子炉設置計画は当初、京都府宇治市に置かれる計画であった。 しかし、大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学などが大阪市民の水源地がおびやかされるとして同案に反対し阿武山案となったいきさつがあった。 阿武山案になった途端に大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学が積極的誘致を表明するようになった。 大都市を守るため、大都市の発展のためには小都市、あるいは過疎地は犠牲にしてもよいという考え方がまかり通っていた。 そういう論理が茨木市民の怒りに火をつけた。 しかし、その論理は結局、その後も原発設置にはつきまとい、東京・首都圏なら危険だが福島ならまあいいかの論理となり、大阪・京阪神なら危険だが福井若狭ならまあいいかとなってまかり通っている。 その論理は政府の「原子炉立地審査指針」という准法制化にさえされている。 福島の事故によって、その論理の非人間性が明らかとなり怒りとなっている。
高槻・茨木・吹田など旧三島郡の住民は大阪市を守るために淀川右岸の護岸は左岸よりも弱くされているとの噂は子供のころからよく聞かされていた。 

⑩ 茨木市民の運動は、その端緒となったprimitiveな原初的な、かつ人間の基本権にかかわる主張の故に、政治家も学者も無視し得ないものであり、それが科学者の学問的良心をよびさまさせる方向で展開され、かつ、戦後民主主義の到達点の一つであった地方自治の原則を生かした運動形態を取ったが故に、計画撤回をかちとる成果となった。 これはその後も今も重要な課題となっている地元住民の納得と合意抜きには原発の建設は認められないという原則の初例となった。
1958年5月14・15日開催された日本学術会議原子力問題委員会において茨木市議会を代表して陳述した高島好隆議員は、「私どもは ・・・ 日本ビール(後のサッポロビール)の工場誘致に成功し、愛知トマトの工場を始め名古屋製糖の協同乳業、日世コーンのアイスクリーム工場 ・・・ などの食品工場が既に操業している現状であります」と述べ、地域の産業発展計画に対する悪影響を指摘して反対理由にあげている。(「高島代表の陳述内容」1958年5月 日・報告ビラ) これはその後原発が建設された過疎地域自治体が地域経済が破壊され、原発マネーに頼らざるを得ない状況が作り出される中で地域住民の不安や反対をおしのけて建設を容認していったこととあわせて重い検討課題となって来ている。 茨城県東海村村長村上達也氏は「原発に依存して地域社会を作るのは限界で、そこから脱したまちづくりを考えるべきではないか。」と述べている。(毎日新聞2011年10月8日付) 
  この市民運動はわずか一年半ほどの運動であったが、その間に原子力平和利用に関する様々な問題点が提起された。 しかし、推進する側には教訓としてなんら汲み取られる事なく、安全神話はますます拡大され、住民の理解と納得を得る努力が金銭による懐柔に流され、大都市の発展のために犠牲を地方にかぶせる手法がまかり通って来た。 その行き着く先が福島の重大事故であった。 この危険性は今も続いている。

⑪ 茨木市民が切り開いた住民の合意なしに原子炉は設置させないという先例は、その後全国17カ所にわたって原発が設置されるという事で崩されて行った。 「この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。」という前掲武谷三男氏の発言(1981年)、嘆きとなっているが、同時に25カ所にわたって住民の反対運動によって原発の建設が白紙撤回され、あるいは実施させていないことにも注目しなければならない。 そしてそれが今福島の事故を受けて関係自治体を中心とした再稼働を許さない大きなたたかいとなっている。 
原発建設を食い止めている地区。 新潟県巻町・石川県珠洲市・福井県小浜市・福井県川西町三里浜・京都府久美浜町・京都府舞鶴市・京都府宮津市・兵庫県御津町・兵庫県香住町・三重県紀勢町南島町芦浜・三重県紀伊長島町城の浜・三重県海山町大白浜・三重県熊野市井内浦・和歌山県日置川町・和歌山県日高町・和歌山県古座町・岡山県日生町鹿久居町・山口県豊北町・山口県萩市・徳島県海南町・徳島県阿南市・愛媛県津島町・高知県窪川町・高知県佐賀町・宮崎県串間市(しんぶん赤旗2011年8月3日付「志位和夫講演」より)。
  今、福島の大きな過酷な経験を得て、原発が果たして人間にとってのホープであるのか、地球環境をも破壊しつくす悪魔の凶器であるのか問いなおされている。 しかし、原発を推進して来た関係財界、政治家、学者たちは相変わらずなお、その経験を率直に学ぼうとせず、福島事故の原因もあきらかになっていないまま、原発再稼働を進め、事もあろうに国外への輸出すら推進して憚らない。 こういう状況の中で、あらためて阿武山原子炉設置反対茨木市民運動の記録を再発掘し、茨木市民はもとよりひろく日本の原発に関心をもつ住民に知らせて行き、運動の経験を思い起こし、現在に生かすことは、今日的な意義があるだろう。