でも、これって、あたりまえのことなのでしょうか
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。
とんちで有名な室町期の禅僧「一休さん」の狂歌です。
新しい年を迎えるとは、人生の終焉に一歩近づくことでも
あり、めでたさも半減してしまう心境を詠んだものですね。
年を跨(また)ぐテーマになりますが、5号や2号も
取り上げた「幸せ」について少し考えてみたいのです。
人生50年、昔のひとなら、とっくに寿命を終えて、冥土で
なにをしてるやら…
と、言ったところでしょうが、もがき喘ぎながらも、どうにか
こうにか生き抜いてみて、アラカン(アラウンド還暦) を
目前にしてようやくのことに「知足(ちそく)」の意味が解り
かけてきたようなのです。
余談ですが、我々世代で「アラカン」といったら鞍馬天狗
の嵐寛寿郎か阿羅漢を指します。
さて、「知足=足るを知る」と言えば、石庭で知られる
竜安寺のつくばいにある「吾唯足知」の「口」を介した
刻印文字が有名ですが、若い頃は、単に ビジュアル的な
センスや機智的な造形美に感心するのみで、その本旨に
触れることはなかった。
30代後半、バブル期の真っ只中で会社を興し、バブルの
崩壊とともに倒産。 地獄の40代となる。
莫大な借金を手にした代りに、大切な家族と友を失った。
それまで、あたりまえだと思っていたものがあたりまえでは
ないものになってしまったのだ。
そういえば、20代にもあたりまえでなくなったものがある。
あたりまえに
1977年8月30日 作詞・作曲 透明人間1号
あたりまえに春が来て あたりまえに花が咲き
あたりまえに恋をする あたりまえに…
あの日の君はおさな子の「なぜ」って瞳で振り向いて
なんだか とっても 不思議そう
二人がめぐり逢ったのは あたりまえの事なのに
あたりまえに夏が来て あたりまえに海に行き
あたりまえに夢を見る あたりまえに…
あの日の君は目を閉じて「ねぇ」ってキスをせがんでは
なんだか とっても 可愛いくて
まわりの人目もはばからず あたりまえにくちづけた
あたりまえに秋が来て あたりまえに葉が落ちて
あたりまえに愛を知る あたりまえに…
あの日の君は細い肩 ピクッとかすかにふるわせて
なんだか とっても こわれそう
小さな部屋の灯り消し あたりまえにむすばれた
あたりまえに冬が来て あたりまえに雪が降り
あたりまえに生きてます あたりまえに…
それでも たまに喧嘩して 愛って一体なんだろと
なんだか とっても 切実に
考え込んで 二人して あたりまえに生きてます
そうです。
永遠にあたりまえだと思われたものは、わずか数年と
持たなかったのでした。
あれから30数年を経て、時代は21世紀も10年代に入り
デフレ不況の荒波のなかでの新たな年の船出となりました。
「物で栄えて心で滅ぶ」と言われて久しいにもかかわらず
私たちの生活は相も変わらず物質至上主義の金銭崇拝的
な環境下にあります。
物質的には、もう十分なくらいに潤っているのに、より高価
なものに食指が向いて、ブランド志向は極まり、より美味なる
もの希少なるものが求められる反面、使い捨てや食べ残し、
コンビニなどの大量の廃棄食品の問題が矛盾するままに
常態化しています。
今のご時勢に「足るを知る」は、いかにも時代遅れの感は
否めませんが、右肩上がりの成長戦略をマストとせざるを
得ない資本主義体制自体に問題があるのかも知れません。
あたりまえとは、当然のことだけど、世の中は無常です。
あたりまえだと思えることも、決してあたりまえではなく、
いま、そうであるというひとつの状態にすぎないのです。
あたりまえも平家物語の「ひとへに風の前の塵に同じ」
なのです。
そこで、あたりまえである事が、「幸せ」のマキシマム
(最大値)であると考えられるようになれば、おそらく大多数
の人々は「幸せ」だと言えるのではないでしょうか。
観念的だと言われそうですが、こころを無にして考えてみて
下さい。
物を見聞きすることができる。 話しをすることができる。
手足を動かすことができる。 みんなあたりまえのこと…
さらには、
寒さを防げる衣服があり。 空腹を満たせる食物があり。
雨露を凌げる住まいがある。
これらは、すべて、あたりまえのことですか
いいえ、あたりまえではない人たちがいるのです。
これらのうちのひとつでも失われていたり、満たされて
いないのだとしたらどうなのでしょう。
障害を抱えた人たちやホームレスの人たち、食事も満足に
摂れない人たちのことに思いを馳せれば、自分自身の境遇
に、「あぁ、なんて幸せなんだろう」 と、心から思えるのでは
ないでしょうか。
足ることを知れば、不平不満は減り、こころの平静が保て
ストレスも回避できます。
必要な分を必要な時に必要なだけ用意すれば事足りる
そんな 『知足安分』の精神や『巣林一枝(そうりんいっし)』
深い林の中に巣を作る鳥も、1本の枝を使うにすぎない
という分相応のもので納得し満足することの喩え。
[注] 文豪 近松門左衛門は“巣林子”と号した。
と、いうような心情で一生涯を送れる国作りを、現政権には
是非ともお願いしたいものです。
幸いにして、2010年元旦の当地、静岡県東部地方では
見事な初日の出が拝めました。
初日の出を仰ぎ見る瞬間の神々(こうごう)しさに感激する
心情は太陽信仰をDNAに内在する日本人ならではの
ものではないでしょうか。
なんてったって、日出ずる国、「日本」なのですから…
太陽は平等です。誰に対しても分け隔てなく照らし暖めて
くれる偉大な存在なのです。(小学生の書く文章のようですね)
はてさて、
年頭には似つかない月並みな戯れ事になりましたが、
月並みでない太陽並みのあたりまえの生活が
できる政治を期待して平成22年のブログ開きとしたい
と思います。
ところで、“てなもんや三度笠”の…
当たり前田(あたりまえだ)のクラッカーって、
どこ行った !?…
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星4つです
透明人間1号
珍念くん
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