なるほど、『朝三暮四』の新(珍)解釈はアリとしようか!
なかなか面白かったし、目のつけ処も、まあ良しとしよう
ならば、何故、『已己巳己(いこみき)』の意味として互いに
似たもの同士の喩えの他に、紛(まぎ)らわしいものの喩え
を加えなかったのだろうか
誰がどう見たって似ていると思うまえに紛らわしいだろう。
そこで、新しく『乙己已巳巴(おとこのみみどもえ)』を、
紛らわしいものと似たもの同士とだんだんに変化する
などの意味を持つ私製造語としたい。
それぞれの 意味合いと 読み方は…
「巳」は、 干支のへびの意味、 み ・ シ
「已」は、 ある時点より以前、すでに、やむ、のみ
「己」は、 おのれ、自分自身、おのれ、つちのと、コ・キ
(ひらがなは訓読み、カタカナは音読みで、己は人名以外「み」と読みません)
ちなみに、巳,已,己の読み方がわかる簡単な覚え歌が
あるのです。
「みしは上、すでにやむのみ半ばなり、
おのれつちのとこき下につく」
なお、「乙」「巴」を省いた『己已巳(このみみ)』もいいかも…
さてと…
紛らわしいとなれば、『おざなり』と『なおざり』も微妙だ。
現代風に言えば、どちらも「いい加減な対応」であるという
ことにおいては一応に共通する。
「おざなり」は、なんらかの対応はするにせよ、いい加減
(適当に済ましてしまう=中途半端)なのに対して…、
「なおざり」は、何の対応もしていない状態だと言えます。
「おざなり=御座成り」 … いい加減ながらも対応している
「なおざり=(等閑)」 … まともに着手すらしていない状況
使用発生的には、「なおざり」が平安時代で、「おざなり」が
江戸時代からと言われています。
そういえば…、
中学か高校かは定かではないが、教科書に『徒然草』の
「諸矢(もろや)」のくだりがあったことを覚えている。
口語体だったと思うので国語の授業だったのだろうが、
そこに『なおざりの心』なるものが紹介されていた。
ここでは、そのさわりの部分だけ原文で…
徒然草第92段
ある人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。
師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。
後の矢を頼みて、始めの矢に等閑(なおざり)の心あり。
毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。
ある人が、弓を習うのに2本の矢を持って的に向かった。
師匠が言うには、「初心者は矢を2本持ってはいけない。
2本目の矢を頼り、最初の矢にいい加減な気持が起きる。
毎度ただ、仕損じることなく最初の矢に事を決すると思え」
という。
高校・大学と弓道部に籍を置いていた者としては、
甲矢(はや)と乙矢(おとや)と、2本の矢を持つのが
一手だったので、はてなと思い記憶していたのだろう。
それは、さておき、元々は「なおざり」が、今で言うところの
「いい加減=中途半端」の意であったものが、江戸時代に
「おざなり」が使われ始めて、そのまま(なお)放置〈去り)
「なおざり」となって、着手すらせずに放置するような意味
に変化したのではないだろうか。
この際、
「この一瞬において、為すべきことを直ちに為す」ことが、
いかに困難であるかを説く吉田兼好先生は放っておいて…
原文のアンダーラインの「得失なく」に着目してみてください。
これは、明らかに“的を射る=的中させる”ということを
意味しています。
「得る〈あたる〉ことを失うことなく」ということでしょうから、
得失は、いわゆる損得のことではなく的に当たる(得る)と
外れる(失う)ことを指しているのです。
それならば、『的を得る』は立派に成立するわけで、巷で
言われているように、『的を射た』と『当を得る』が混同して
出来た言葉の誤用であるとするのは、どうなのだろう
『正鵠を射る』・『正鵠を得る』は、いずれも 可 ですし、
正鵠とは、 中白=金的と呼ばれる 的の中心部分です。
どう考えても、この表現は「的を得ている」のです。
そこで、当ブログでは、『的を得る』を正しい表記・表現と
して、決して『なおざり』にならぬよう、『おざなり』に認知する
ことにします。
なんのこっちゃ…
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金的丸
星4つです
四月一日 一
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