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今日も元気に行ってみようか!

父、旅立つ

父、88歳8か月、末期の膀胱癌が分かってから1年8か月頑張りましたが、10月15日に旅立ちました。
 
母親と面会した9月30日から徐々に弱っては来たものの・・・
 
10月4日(亡くなる10日前)・・・叔母が面会に来てくれたこの時は、しっかりと叔母と会話し、叔母の持ってきてくれた「かぼちゃのプリン」を自分で食べていたそう。

10月6日(亡くなる8日前)・・・久々に我が家のワンコ3号ちゃんセラピー犬任務を果たす。
施設側の配慮で父親のお部屋での面会が叶い、3号ちゃんに餌付けする父親。



10月8日(亡くなる6日)・・・初孫のワカちゃんの娘が誕生。
 
初ひ孫の写真を父親に見せると、じ~っと見つめていた
 
 
この日の午前中、出産する孫・ワカちゃんへの応援ビデオレターが撮れるほどしっかりとしていた。
 
「ワカちゃん、じじです。じじも頑張っているので、ワカちゃんも元気な赤ちゃん産んでね」と。
 
(実際、ワカちゃん、このビデオを見たのは出産直後)
 
 

そして、この「初ひ孫」の誕生を境に、目に見えて状態が悪くなる父親。

 

これ以降も3姉妹が交代で毎日面会に行ったが、その度に妹たちからも「弱ってきてる・・・」との報告が。。。

 

10月11日(亡くなる3日前)・・・ケアマネさんが面会に来てくれて「初ひ孫誕生」について話しかけると、それまで反応がなかった父親が「微笑んだ」そうだ。

 

10月12日(亡くなる2日前)・・・私と夫が面会に行くと、前日から薬が飲めなくなったと看護師さんからのお話。

もちろん、食事もとれず、少しだけ水分を取れるだけの状態に。

夜、私が「今日はこれで帰っていい?明日の午前中また来るから」と父親に聞くと首を横に振る父親

会話は出来てはいなかったが、私の声はちゃんと聞こえているようで、反応はあるのでちょっと安心。

最後は頷いて、手を振ってくれた

 

この日は、万一に備え、私はすぐに駆けつけられる実家に泊まることに。

夫は翌日、自宅マンションの配管清掃があったためこの後、電車で自宅へ戻る。

 

10月13日(亡くなる前日)・・・朝、施設の看護師さんから連絡。

 

「今朝早くから「SpO2」が低下してきて酸素吸入を始めました」と。

慌てて、父親の施設へ向かって話を聞く。

やっぱりお別れは近いのかも・・とは思ったが、まだまだ緊迫感を持っていなかったポンコツ家族

 

しかし、看護師さんから「今日、お部屋に泊まることも出来ますが」と提案されて、事の重大さ気づく。

病院ではないので付き添いのベッドの用意がないとのことで、寝袋とかマットレスを持ち込んで付き添うしかないそう。

一度、自宅に寝袋とマットを取りに帰ることに。

前夜から自宅に戻っていた夫に、しばらく使っていなかった寝袋を取り合えず干してもらい、夕方一度自宅へ戻る。

 

すぐ下の妹・ゆっき~も一緒に付き添うことになった。

 

(この辺から私の記憶が飛んでくる

 

夜、寝袋抱えて夫と共に父親の元へ戻ると一番下の妹も到着。

不幸なことにその日の朝、足の上に重いものを落として負傷していた一番下の妹、痛みを押して父のもとへ。

部屋のスペース的に3人で付き添うのは無理そうなのと負傷していることもあり、一番下の妹は一度帰宅。

寝袋で泊まる準備完了。

 

私たちが一晩付き添っても何が出来るわけでもなかったが、1時間ごとに看護師さんが来てくれて、色々なケアやチェックをしてくれ、その都度、私たちも話を聞く。

夜中、妹が父親に泣きながら何かを話かけたり、生まれたばかりの父親にとっても初ひ孫の泣き声を聞かせていた。

 

すると父親が突然「もう話しかけないで」と一言。

最後に発した言葉が「ありがとう」でもなく、「もう話しかけないで」とは、なんとも父親らしい。。。

 

10月14日(亡くなる日)・・・父親にすでに意識はなく、呼吸も苦しそうで呼びかけにも反応がなくなる。

でも「本人は苦しくはない」と看護師さんから聞いて、少しだけ安心。。

 

訪問医からも「今日はついていてあげて」と言われたので、いよいよなのか。。。と。

叔母にも状況を連絡すると、すぐに駆けつけてくれたが、すでに会話もできない状態の中、

叔母から、これまで私たちが知らない父親の若いころの「やらかし」や破天荒な行動の数々や叔母との思い出をたくさん聞くことができた

父親も恐らく「今、こんな暴露しなくとも。。」と思って聞いていたんじゃないかと

 

夕方には、私たち娘3人&それぞれの夫たちも集まり、看取る準備に。

 

孫たちは間に合わなかったので、それぞれ電話で父親に最後の挨拶をした。

 

全員が大好きな「じじ」に号泣しながら最後の挨拶。

一番可哀そうだったのは、その日、外出していた孫の聖ぴょん。

電車の中で危篤の連絡を受けて、電車から降りてすぐにホームから電話くれて、大好きな「じじ」にお別れ。

ホームで号泣することになって可哀そうだった

 

それから数時間後、娘たちに看取られて天国へ旅立った。

本当に父親は頑張ったので、私たちは悲しみよりも「楽になれて良かった」という気持ちだった。

 

実際には午後11時40分過ぎに呼吸は停止したが、確認のために訪問医が到着したのが日付が変わり午前0時ちょっと過ぎ。

看護師さんがエンゼルケアをしてくれている間に葬儀屋さんの手配をしたり、父親を葬儀屋がお迎えに来てくれたのが午前2時前。

その後、葬儀屋さんと一緒に葬祭場へ向かい、父親を安置してもらって一度帰宅したのが、午前5時前。

そして寝る間もあまりなく、午前11時から葬儀屋さんとの打ち合わせという予定に。

母親が認知症で施設にいるため、長女の私が喪主ということに。

この葬儀(火葬式)については、この後にまたお伝えできればと。

 

今はもう気が抜けて若干抜け殻状態。。。1年間、ルーティンとしてあれだけ父親の面会に行っていたのに、もう行かなくて良いという空虚感

今のところ悲しみの大波はまだ来ていないが、もしかしてこれから大波が来る??

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