天正6年(1578)上杉謙信が死去すると御館の乱が起こった。景勝は三郎景虎救援の関東小田原北条軍を阻止するため、同年6月27日、深沢利重らに荒戸築城を命じた。景勝書状に「あらと」の初見があり、築城時期の明らかな越後国境警備の城郭として重要。
景勝は深沢利重、樋口主水助、登坂安忠らに関東軍侵入に備え防備を厳重にせよと命じている。 8月、小田原北条軍は荒戸城を攻略し、樺沢城(南魚沼市)を根拠地に景勝軍と各地で戦った。関東軍は10月に入ると、北条高広、河田重親らを越後にとどめ、来春の来越を約して関東へ引き上げた。そのため越後では景勝軍が優勢のうちに天正7年(1579)の春を迎えた。景勝は戦機が熟したとみて3月、荒戸城を奪還した。同24日、三郎景虎は鮫ケ尾城(妙高市)で自害、御館の乱は終結した。
天正9年(1581)2月3日、景勝は樋口与三右衛門兼重、宮里三郎左衛門らを荒戸城将に命じた。
本丸跡は東西、南北それぞれ約30m、三方が高さ約2mの土塁に囲まれている。二の郭と三の郭の出入り口には枡形、土塁、空堀が構築され、堅固な構えが伺える。
本丸跡からは三国峠、湯沢町中心部などが眺望できる。芝原峠を越えて越後に侵入する敵を迎え撃つ重要な役割を担い、荒戸城は関東小田原北条軍を最初に撃破する基地だった。
場所は新潟県南魚沼郡湯沢町神立字袖山他、
自分は北陸道から来たので、長岡ジャンクションから関越道に入り「湯沢IC」下車、国道17号線を東京方面へ左折
JRの高架からの湯沢温泉リゾート
国道17号線が山へ差し掛かると、ほどなく「芝原トンネル」が見えてきます。トンネルに入る直前、側道を左に入ります。
林道をしばらく登ると「荒戸城登城口」の案内看板が建っています。
登城口向かいには、車が2〜3台停められる退避所が設けられています。
ここから城郭遺構までは比高約50m、時間は10分ほどで到着となります。
途中に1か所分岐がありますが、案内表示に従って登ります。
ここで当日の行程を縄張り図で示します。
鳴海忠夫先生作図、北國観光圏「上杉謙信越山の地」より(ブログ管理者加筆)
立体的イラストがメッチャ分かり易い。(注;方位が縄張り図と異なります)
こちらから引用させていただきました。凄く内容が濃いので参考になりました→こちら
登城口からの遊歩道は「大手道」、先ほどの分岐は「旧三国街道」
「馬出」
大手道はまず馬出郭に到達します。
馬出手前に壮大な「空堀H」(アルファベットは縄張り図に加筆、以下同)が、北方向にある三国街道からの敵の侵入を阻みます。
東側の大手道を進むと「竪堀A」が直進を阻み、クランクさせて二の丸へ誘導します。
「馬出郭」には櫓台があったと考えられています。
馬出から西方向、主郭下の空堀、奥は三の丸方向
手前「空堀H」、中央「馬出郭」、左端が「大手道」、「竪堀A」でクランクして奥に見える「二の丸」に至る。
「二の丸」
主郭下、南東を守る曲輪。枡形の役割も考えられます。
二の丸東側「竪堀B」
東側斜面と削平地もろともえぐっているので南北の移動を完全に分断している。主郭側斜面は高い切岸で、二の丸に侵入した敵は袋のねずみです。
竪堀B、主郭から俯瞰
左手が二の丸、中央が竪堀B、右が腰曲輪?
腰曲輪?主郭からの俯瞰
東側斜面から這い上がってきた敵がたどり着いた腰曲輪?(削平地)は、竪堀Aと堀切C、主郭切岸によって袋のねずみ状態で、上から狙い撃ちされ全滅💦
ここへ誘い込む罠ですよね(;^_^A アセアセ・・・
「本丸」
「坂虎口」
二の丸から東側斜面の坂道を登って本丸に至る。
「本丸大手虎口土塁」
坂はクランクして虎口に至る
「本丸削平地」
本丸大手虎口土塁
本丸内側より
本丸土塁
東面を中心に、両方の先端を西側に折り曲げている。
「搦手虎口」
内側より
搦手虎口
外側より
「本丸からの眺望」
大手虎口土塁上から東方向、三国街道や湯沢の町並みが一望に監視できる
同、湯沢温泉望遠
「三の丸」
二ノ丸は主郭大手を守り、三の丸は搦手を守る曲輪。
三の丸北区画、主郭より俯瞰
同所より本丸
三の丸南区画
こちらも坂虎口となっており、主郭南側の搦手虎口からクランクして西斜面に築かれた坂道を下って三の丸の南区画に至る。南側からの敵の侵入を阻止する「竪堀D」
三の丸「搦手虎口」
「外枡形」
三の丸搦手虎口の外側に設けられた削平地
南斜面、西斜面の二方向を空堀と土塁で囲み、西から北へは広大な空堀を巡らせ、搦手道からの侵入を警戒している。
これも馬出のようでもあります。(角馬出)
西面、「空堀E」と土塁
空堀Eは西面から南面へ直角に、斜面に沿って竪堀となる。
空堀Eは三の丸西側から北側の斜面にかけて、グルリと取り囲んでいる。
西側空堀F
三の丸下の横堀は、遂には本丸北側斜面にまで至る。
本丸北側谷部G
谷の中腹から二重の竪堀が刻まれているG
この部分は(障子掘り)と考えられているそうです。
空堀H
さらにその先は、馬出にまで続いている
つまり大手から搦手までの北西斜面全域に空堀を巡らせているのだ!!
これは、眼下の三国街道に対する鉄壁の防御なのではないでしょうか。
ここ荒戸城跡は領地支配の城ではなく、戦場に構築された陣地です。
角馬出や障子掘りは北条氏による改修とも考えられています。
越後は豪雪地帯なので、訪れることができる期間は春の終わりから秋の初めとなります。しかも夏場は下草が伸び藪化しますので、山城の旬はとても短いのです。そんな越後の山城にあって、保存整備の行き届いた、夏でも見やすい山城をフォロワーさんに教えていただきました。さらに参加しているSNSのサイトで偶然にもこちらが紹介され、背中を押されての攻城となりました。北陸道から関越道、そして上信越道から北陸道を経由して600km、13時間の日帰りでしたが満足感と達成感に包まれた一日となりました。情報を戴いた皆さんに感謝です。
【荒戸城】
《景虎旧援軍を阻止せよ》
名称(別名);あらとじょう(荒砥城、新戸城)
所在地;新潟県南魚沼郡湯沢町神立字袖山他
城地種類;山城
標高/比高;789m/190m 林道より60m
築城年代;天正六(1578)年
廃城年代;
築城者;上杉景勝
主な改修者;北条氏? 上杉景勝による再改修?
主な城主;深沢氏、富里氏、栗林氏(上杉景勝城代)
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;曲輪、土塁、堀切、竪堀、馬出し他
近年の主な復元等;
地図;
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