応永年間、三木正頼は南飛竹原郷をおそって益田郡を横領し、数世の後自綱にいたって高山盆地に侵入した。
天正7年(1579)松倉城は、この自綱によって築かれてものである。 天正10年(1582)八日町の一戦で強豪江馬輝盛を倒すと、鍋山城主三木顕網、高堂城主広瀬氏らを次々に倒して、飛騨全土を平定した。このころ自綱は、越中の佐々成政に通じて秀吉に従わなかったので、天正13年(1585)秀吉は家臣金森長近に命じてこれを撃たせた。自綱は高堂城に迎え戦って敗れ、秀綱は松倉城によって死守した。しかし勇将畑安高が山蔵宗次によって討たれ、また藤瀬新蔵が裏切って金森に通じ、闇夜に火を放ったので城は落ち、三木氏はここに滅び、以後長くは以上となった。城は本丸、二の丸、三の丸の面影を残し、飛騨における有数の城址である。、、、現地案内板より
場所は岐阜県高山市松倉町(高山市上岡本町)
国道41号線(高山バイパス)「上岡本本町南」交差点から、国道158号線を白川郷方向に200mほど進み「飛騨の里」に向かうように左折する。
そのまま「飛騨の里」を通り過ぎて登ていくと、「松倉遊歩道」と「松倉城址」への林道にいたる。
この林道を登っていくこと10分、途中1車線ですり替えのできない道が続くので要警戒。自分は行きも帰りも全く同じ場所で対向車と出会い、偶然にも退避できる側道があったので、譲ったり譲られたりで事なきを得ました。
目的地の休憩広場に到着
芝生広場には屋根付の休憩所やトイレも設置され、登山者の憩いの場となっています。
ここに車を停め、この先徒歩で城址を目指します。
熊の目撃情報があったそうで、備え付けの鐘を鳴らして入山です。
もちろん、リュックには「鈴」を取り付け最低限の対策は怠りません。
遊歩道は多少の登りはありますが整備されており、途中巨石がお出迎え。
南西尾根を断ち切る「堀切」
斜面から回り込む敵を遮る「空堀」
からの
急な登り!!
切岸か?
連続した山城特有の防御施設のあと目にしたものとは、、、
おお~~!!!
思わず感嘆のため息!!!
朝霧に包まれた神秘的な空気の中、下から見上げる石垣は厳かでもありました。
◆「西南隅櫓台石垣」
南西隅石
自然石や岩盤を巧く取り込んでいます。
南側崖からの石垣
ぐるっと回り込んでみましたが、崖と藪で危険!
南西隅櫓の北側にある遊歩道を登ると、奥には霧の中に本丸外曲輪石垣が浮かんで見えてきた。
西南隅櫓跡 三の丸より
◆搦手石垣
西南隅櫓から三ノ丸に移動する際、急な登りが待ち受けている。安全のためロープが張られているので、それに掴まっての登り降りとなる。注意がロープや足元に行って見落としがちですが、ここから左手に石垣が見えます。
本丸石垣・本丸外曲輪石垣・に続く三の丸石垣ともいえる、西面の三段に積まれた石垣の最下段部分です。搦手を守る最前線の石垣ともいえるのではないでしょうか。
◆★ここで松倉城の配置図で行程を説明します。★◆
(かつて本丸にはこのような説明板があったようです)
コンパクトですが総石垣の山城だったようです。
松倉城復元イラスト
凄く分かり易いです(^^♪
遊歩道からの登りは、当時の「搦手」だったんですね。
金森戦記ブログより転載→こちら
(金森長近と一族についての詳細な記事がみものです)
◆「三の丸」
三の丸削平地にある休憩所と本丸外曲輪石垣 (西南隅櫓より)
三の丸石垣南面
上段に見えるのは本丸外曲輪石垣
◆「南東隅櫓と南石門」
三の丸より全景
「南石門」
発掘調査中の南石門
かつて「中間の道」(大手道と搦手道の中間にあった道)からの登城口だったようです。
調査現場に掲示してある発掘当時の写真
左右の石垣は門を形成しており、地中からは石段の敷石が発見されたようです。
南石門の石垣
階段から南東隅櫓台の石垣へと、連続的に繋がっています。
南東隅櫓台石垣
東面の石垣を二の丸方向から
かなり垂直に積んでいますね
南東隅櫓台石垣・南東隅石
東面
荒々しい加工跡
南東隅櫓台石垣・南東隅石
南面
崖の急斜面は藪に阻まれ、これ以上先には進めませんでしたが、この先は南石門に繋がっています。
◆二の丸
二の丸南面石垣と旗立石、南東隅櫓より
旗立石、下から
二の丸南面石垣・東端
同南東隅石
野太い石積み
二の丸東面石垣
腰曲輪より
下の段は鏡石的なものでしょうか
二の丸「大手門跡」
こちらも発掘調査中
二の丸「井戸跡」
二の丸「旗立石」
二の丸から北方向の眺望
9:41に撮影 朝霧で何も見えませんでした(;^ω^)
「二の丸全景」
本丸より俯瞰、西から東方向
馬の背のような尾根を削平して曲輪を築いたことがわかります。
二の丸より本丸方向
左手(南側)下に見えるのは南東隅櫓
◆「本丸」
本丸東面石垣
二段になった石垣で、下の段は本丸外曲輪石垣
本丸東面 虎口への登り口
下段は本丸外曲輪石垣
本丸虎口 外側の石垣
本丸虎口 内側の石塁
本丸内側 南面石塁
本丸中央部から東側
現在発掘調査中でした。
発掘途中の状況でしょうか(現場掲示)
建物の礎石が発見されたようです。
本丸西面石垣 本丸外曲輪より
西側から下の本丸外曲輪へ降りることができます。
とても狭い空間で、西面と南面にL字型に削平地が繋がっていますが、藪が酷く西面の一部しか進む事ができませんでした。
同、北から南方向
本丸からの眺望
城址碑 9:49撮影、朝霧で視界ゼロ
同10:24撮影 キタ――(゚∀゚)――!!
待てば海路の日和あり(^^)/
高山の町並み
北アルプスまで一望です
★☆♪ここで休憩~ヽ(^o^)丿 ♪☆★
食後三ノ丸まで戻り
一番の見どころ「本丸外曲輪石垣」を南面から西面まで、ぐるっと回ってみます。
本丸外曲輪高石垣 南面の東端
同、南面東側の「折れ」
東面の虎口に対して横矢をかける防御施設だったのでしょうか
同、東面虎口角石
同、南面西端搦手側
同、南西隅石
この辺りに落下している築石が多数あり。
ハンコの持ち手に見える(笑)加工された築石
この取っ手に見える部分が奥に嵌って、スタンプに見える部分が石垣の表面を飾る。数千もあるピースの一つなんだろうな。
同、西面石垣
同、西面石垣の北端
同、西北角石
同北西隅部の北面から上段へ登る石段発見!
登ってみると、この場所は「折れ」なのか?
そう言えば本丸北側の下には「腰曲輪」があって、そことの関連がありそうです。
一石して石垣の内部が露出している場所がありました。
表面の石と、中に詰め込んが「栗石」の関係が見えます。
【まとめ】
山城でこれだけ立派な高石垣、総石垣の城が存在していたなんて、、、
そしてその石垣がほぼ完全に現存していることに感動です。。。
この石垣を誰が築いたのか???
城主で築城者の三木自綱なのか?
はたまた、秀吉の命で飛騨を攻略した金森長近の改修によるものか?
現在いたるところで発掘調査が行われていますので、その疑問が解ける日も近いことでしょう(^^)/
【松倉城(飛騨国)】
《まつくらじょう》
名称(別名);
所在地;岐阜県高山市松倉町(高山市上岡本町)
城地種類;山城
標高/比高;857m/360m
築城年代;天正7年(1579)
廃城年代;天正16年(1588)
築城者;姉小路頼綱(三木自綱)
主な改修者;
主な城主;姉小路(三木)氏
文化財区分;岐阜県史跡
主な遺構;曲輪、石垣、堀切、井戸
近年の主な復元等;
※出典、、、
地図;
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