知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思いに日記代わりに記録していきたいと思います。
北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。
まずは身近な存在であるそこらを中心に歩いていきたいと思います。
金沢城は浅ノ川と犀川に挟まれた小立野台の先端に位置している。小立野台地の先端すなわち山の尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていたそうで現在の「尾山神社」はそれに由来している。初代城主は一向一揆掃討の命を受けた織田信長の家臣佐久間盛政だったが、信長死後豊臣秀吉と敵対し死没。代わりに七尾から入城した前田利家が「金沢城」を「尾山城」に改名したが後に「金沢城」に戻し今日に至っている。
この小立野台地は両側を流れる浅ノ川と犀川の浸食によってできた河岸段丘である。
この河岸段丘について学術的に調査した資料が「金沢大学理学部地球学科」によってまとめています。→こちら
またブラタモリの出演でもおなじみの梅林秀行先生も分かりやすい資料を発表していますTwitter→こちら
『スーパー地形』アプリで「今昔マップ金沢」対応。とても嬉しい。金沢で仕事予定なのでナイスタイミングでした。金沢城百間堀の大堀切や二重惣構、さらに盛り場分布(柿木畠〜片町〜香林坊〜武蔵ヶ辻)など、改めて変遷を追ってみよう。#スーパー地形 #カシミール3D #今昔マップ #金沢 pic.twitter.com/etGWlv4XJI
— 梅林秀行 (@chang_ume) August 14, 2018
小立野台地の付け根にある「夘辰山」山系、つまり両河川の上流部からは「辰巳用水」で下流の兼六園、金沢城へ水が引き込まれ、
同じく戸室山からは金沢城の石垣に使われた「戸室石」が小立野台地を引いて運び込まれた。石を引いたので「石引」という地名として現在も残っている。
この戸室石は金沢・加賀藩を象徴するような石で、野田山の加賀藩主墓所や富山県高岡で亡くなった加賀藩二代藩主前田利長の墓所にも使われている。→こちら
また分藩した富山藩の歴代藩主の墓所にも一部使われている。
夘辰山山系から突き出た小立野台地が良く分かる場所があります。
◆まずは、「夘辰山展望台」からの俯瞰。
写真左が上流の山系、右が先端部で、上が犀川、下が浅ノ川という位置関係になります。
山から海に向かって極端に細長く突き出た地形がハッキリとわかります。
小立野台地にある金沢城を拡大した写真。
先端、山の尾の部分に「尾山神社」があるが写真では見えない。写真中央部右端に僅かに赤い鉄塔が見えるのが旧NHKの放送塔で、この辺りが金沢城追手門、尾山神社方向となる。
◆次に「浅ノ川」から小立野台地を見上げてみる。撮影場所は山側環状線「田上」付近。
写真左が上流、右手が下流。
また下方向が山環田上、上方向が「小立野台」という位置関係。
平たいところが川流れで浸食されたところで高く見えるところが、浸食崖。
浸食崖の緑地保全ヶ所
住宅街背後が小立野台地
◆今度は反対側の「犀川」から見てみることにする。
犀川の侵食によってできたのは「小立野台地」だけではなく、片側に「寺町台地」も形成した。
陸上自衛隊金沢駐屯地辺りから撮影。
右が上流、左が下流。川向が「小立野台地」
目を転じて下流方向を撮影。
左が「寺町台地にある陸上自衛隊金沢駐屯地」、右が「小立野台地」
その間を流れる犀川と犀川跡地の低地に広がる住宅街。
そこから下流に向かって進むと堰堤と断崖がハッキリわかる場所もある。
さらに下流に向かい、片町方向に架かる犀川大橋付近で撮影。
上流に向かい右が「寺町台地」、左が「小立野台地」最先端部。
「犀川大橋」より「小立野台」最先端部にある「尾山神社」方向。この通りは片町・香林坊に続く大繁華街。
ビルの隙間から背後にある「小立野台地」最先端部の「金沢城・兼六園」の杜が垣間見える。
◆段丘があると,交通には多少不便ですが,その斜面には緑が残り,至るところに泉や湧水があって,変化のある美しい景観と,市民の憩いの場を提供しています.と、「金沢大学理学部地球学科」の報告書でも述べている通り、金沢には「九十九坂」あるとも言われています。坂道ファンも多く、検索するとたくさんのwebページがヒットしますよ。→こちら