平成24年(2012)5月以来の訪問。
当時はそれほど興味もなく、同伴者を説得してまで入城する勇気が無くて駐車場から見ただけでしたが心に刺さっていたとげのようでもありました。
【整備された大手道などが信長の栄華を彷彿とさせる】
安土城は織田信長が「天下統一」の拠点の城として、琵琶湖湖畔の標高約198mの安土山に天正4年(1576)から築城し、天正7年に天主が完成。金、朱、黑などに彩られた五重七階の豪壮な天主や総石垣の普請、麓に計画的に設けられた城下町などは以降の城造りには計り知れない影響を与えた。本能寺の変以後、天主を中心とした山上の建物群は焼失し、現在は天主台や主要な廓の石垣を残すのみである。しかし近年の発掘調査と整備によって、大手道や家臣団屋敷跡、虎口跡など「幻の城」が明らかにされつつある。
【主な遺構と見どころ】
天主台・石垣
復元整備された大手道や伝家臣団屋敷跡を経て天主台へと安土山山中をたどれば、いやがうえにも「幻の城」への想いは強くなる。石垣の積み方が場所によってさまざまに異なることも見ておきたい。
【安土城周辺のジオラマ】
平面図だけではなかなかイメージが掴めないので復元した建物があると分かりやすい。
(出典:不明、、、掲載についてご指摘有れば対応いたします)
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【順路図】(特別史跡 安土城跡パンプより抜粋、以下同)
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管理事務所受付にて入場料金を支払って、大手道階段を登る。途中家臣団の屋敷跡、摠見寺、大手道が左へ曲がり
黒金門より本丸、信長公本廟、天主跡
帰路に摠見寺跡、三重塔、二王門を経て追手道から受付に戻るコース
管理事務所
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【追手道周辺の見どころ】
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◆整備された大手道
幅約6mの石段が約180m一直線に延び、山中で左(西)に折れている。
両側には家臣団の屋敷があったとされる。
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◆石仏
階段のいたるところに「石仏」が組み込まれている。
再利用したのかは不明だが、明智光秀の居城の一つ「福知山城」の石垣に墓石が使われている事実はこれを見習ったのかと思うと感慨深いものがある。
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◆伝前田利家邸跡
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◆伝羽柴秀吉邸跡
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◆摠見寺仮本堂
(伝徳川家康邸跡)
安土城築城の際信長公が他所より移築し本丸西の峰に自らの菩提寺としたと伝えられる。天主崩落の際も焼け残ったが、安政元年の火災で焼失。その後昭和7年に仮本堂が「伝徳川家康邸跡」に建てられ現在に至る。
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◆武井夕庵邸跡
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◆織田信澄邸跡
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【天主跡周辺の見どころ】
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◆黒金門跡
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◆二の丸
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◆信長公本廟
「伝二の丸跡」に信長公の本廟がある。
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重臣、羽柴秀吉は天正11年1月、三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬して本廟とした。そして6月2日の一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。
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◆仏足石
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◆本丸跡
天主から少し降りたところにある本丸御殿跡。「信長公記」によればこの建物には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されている。その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居である清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明、さらに礎石上の柱痕からこの建物が高床式であったこと、周囲の「伝三の丸跡」や天主取り付け代と渡り廊下で繋がっていたことが明らかとなる。
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◆天主台礎石群
背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西、南北それぞれ約28mの台地。今は礎石が1.2m間隔で整然と並ぶだけであるが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた。五層七階(地上6階地下1階)の天守はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにも有るとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木造高層建築は当時、わが国で初めてのものであった。内部は信長公の御用絵師、狩野永徳の豪壮な障壁画や装飾を配していた。
【三重塔周辺の見どころ】
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◆摠見寺本堂跡
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◆三重塔
室町時代の建物で信長公が甲賀の長寿寺から移建したとされる。慶長9年、豊臣秀吉の子、秀頼が一部改修した記録がある。(重要文化財)
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◆二王門(桜門)
入母屋造り本瓦葺き。信長公が天正年間に甲賀から移築した。(重要文化財)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/f5/2c5943d07090965175a8bbdcfb1cd1e6.jpg)
【復元CG】→こちら
【安土城】
《近世城郭の先駆となった信長の幻の城》
名称(別名);
所在地;滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
城地種類;山城
築城年代;天正4年(1576)
築城者;織田信長
主な城主;織田氏
文化財区分;国指定特別史跡
近年の主な復元等;平成元年~20年「特別史跡安土城跡調査整備事業」が滋賀県主体により実施
天守の現状、形態;天守台の遺構が現存
地図;
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)