30年以上生きてきて思うことは、自分の人生が自分の思う通りには進んでいかないということです。
人間は生まれてくる順番も、家庭も親も選べないということは分かっていますが。
もっとも、平和な時代の日本に産まれたということと、親に殺されずに済んだことには感謝しなければいけませんね。
特に大きな病気に罹っていないことも、有難いことです。
でも、もっと話の分かる親ならば、もっと自分に体力があったらと、ついつい多くを望んでしまうのが人の性なのでしょうか。
自分の人生に満足して生きている人ってどのくらいいるのか、気になることがあります。
人によって、幸福の基準には違いがあるとは思いますが。
やりがいのある仕事、働きやすい職場、居心地の良い家庭、家族全員が大病することなく、夫婦円満、子供も素直で将来に不安がない。
経済的にも、煩わしい人間関係にも悩まされることがない、平凡ではあるけれど健やかで幸せな毎日。
そんなふうな人生ならば、幸福を感じることができるでしょうか。
しかし、人は誰しも生きている限りは、いろんなことに頭を悩まされるものです。
一人一人、抱える悩みは種類も内容も違いますが、誰が楽で、誰が苦しいなんてことは一概に言うことができません。
にもかかわらず、人は往々にして他人の苦労話は取るに足らないことだと一笑に付す一方で、自分の悩みは深刻で重大だと思いがちです。
仕方ありません。他人の人生はあくまで他人のものですから。所詮は他人事なのです。
他人の人生が羨ましいからといって、その人生をあなたが自分のものにすることはできないのです。
例え、それができたとしても、人はそれぞれ喜びや幸せの感じ方や考え方の基準が違うのですから、あなたが手に入れた他人の幸せが、必ずしもあなたに期待通りの充足感を与えるとは限りません。
隣の家の芝生は青く見えるなんて言いますが、土地の狭い日本の住宅事情を鑑みれば、いざ隣の家に入ってみたら芝生どころか、そもそも庭がなかったなんてことも有りうるのです。
(現実はシビアです…)
《赤毛》サマセット・モーム著、朱牟田夏雄訳(岩波文庫、1962)には、他人の人生、生活に幻想を抱き、そしてそれを勝手に美化した理想の人生を手に入れようとしたスウェーデン人の男が登場します。
しかし、彼は自分が望んだものを、手にした生活の中に見出すことはできませんでした。
彼が抱いた幻想は、やはり幻にすぎず、本当は最初からそこには何もなかったのかもしれません。
あるいは、彼には本当の幸せが見えていないだけなのか、解釈の余地はありますが、彼はすっかり自分の人生に失望します。
そして、長い年月の果てにとうとう幻想は滅び去り、彼は現実世界へと帰っていくことにします。
彼を現実世界に帰らせるきっかけになったのが、また同時に彼に幻想を抱かせる原因でもあるというところが、この物語の最大の皮肉です。
物語の中で、主観的に語るのはスウェーデン人の男だけで、他の登場人物がどう思っているのかは読み手には分かりません。
最後には、このスウェーデン人の男さえも心を閉ざしてしまい、物語が淡々と締めくくられると、読み手は何ともいえない虚無感の中にポツンと一人で取り残されてしまうのです。
短編小説の中に、これだけの人の情熱の愛おしさと哀しさ、皮肉な人生、そして、粛々と流れ続ける時間の無常さが描かれている作品を、私は他には知りません。
物語の最後、スウェーデン人の男が去っていく年老いた船長の後姿をじっと見送る場面があるのですが、そこに作者の人を冷静に見つめ続ける、どこか諦めたような、それでいて細々とした希望を探しているような視線を感じます。
「人生なんてこんなものさ。君だってそう思うだろう?」と皮肉な問いを投げかけながら、それでいて、それを否定してもらいたがっているようにも思えます。
有無を言わせずに切り捨てるニヒルさの中にも、人の善意を切望しているような、そんな感じのするこの作品が好きです。
何にしろ、期待のし過ぎは良くないですね。
例えば、隣の家に庭なんかなかったけど、殺風景な玄関の片隅に小さな鉢植えがあって、可愛らしい花が一輪咲いていた…くらいのセンチメンタルだったら許されはしないかしら?
人間は生まれてくる順番も、家庭も親も選べないということは分かっていますが。
もっとも、平和な時代の日本に産まれたということと、親に殺されずに済んだことには感謝しなければいけませんね。
特に大きな病気に罹っていないことも、有難いことです。
でも、もっと話の分かる親ならば、もっと自分に体力があったらと、ついつい多くを望んでしまうのが人の性なのでしょうか。
自分の人生に満足して生きている人ってどのくらいいるのか、気になることがあります。
人によって、幸福の基準には違いがあるとは思いますが。
やりがいのある仕事、働きやすい職場、居心地の良い家庭、家族全員が大病することなく、夫婦円満、子供も素直で将来に不安がない。
経済的にも、煩わしい人間関係にも悩まされることがない、平凡ではあるけれど健やかで幸せな毎日。
そんなふうな人生ならば、幸福を感じることができるでしょうか。
しかし、人は誰しも生きている限りは、いろんなことに頭を悩まされるものです。
一人一人、抱える悩みは種類も内容も違いますが、誰が楽で、誰が苦しいなんてことは一概に言うことができません。
にもかかわらず、人は往々にして他人の苦労話は取るに足らないことだと一笑に付す一方で、自分の悩みは深刻で重大だと思いがちです。
仕方ありません。他人の人生はあくまで他人のものですから。所詮は他人事なのです。
他人の人生が羨ましいからといって、その人生をあなたが自分のものにすることはできないのです。
例え、それができたとしても、人はそれぞれ喜びや幸せの感じ方や考え方の基準が違うのですから、あなたが手に入れた他人の幸せが、必ずしもあなたに期待通りの充足感を与えるとは限りません。
隣の家の芝生は青く見えるなんて言いますが、土地の狭い日本の住宅事情を鑑みれば、いざ隣の家に入ってみたら芝生どころか、そもそも庭がなかったなんてことも有りうるのです。
(現実はシビアです…)
《赤毛》サマセット・モーム著、朱牟田夏雄訳(岩波文庫、1962)には、他人の人生、生活に幻想を抱き、そしてそれを勝手に美化した理想の人生を手に入れようとしたスウェーデン人の男が登場します。
しかし、彼は自分が望んだものを、手にした生活の中に見出すことはできませんでした。
彼が抱いた幻想は、やはり幻にすぎず、本当は最初からそこには何もなかったのかもしれません。
あるいは、彼には本当の幸せが見えていないだけなのか、解釈の余地はありますが、彼はすっかり自分の人生に失望します。
そして、長い年月の果てにとうとう幻想は滅び去り、彼は現実世界へと帰っていくことにします。
彼を現実世界に帰らせるきっかけになったのが、また同時に彼に幻想を抱かせる原因でもあるというところが、この物語の最大の皮肉です。
物語の中で、主観的に語るのはスウェーデン人の男だけで、他の登場人物がどう思っているのかは読み手には分かりません。
最後には、このスウェーデン人の男さえも心を閉ざしてしまい、物語が淡々と締めくくられると、読み手は何ともいえない虚無感の中にポツンと一人で取り残されてしまうのです。
短編小説の中に、これだけの人の情熱の愛おしさと哀しさ、皮肉な人生、そして、粛々と流れ続ける時間の無常さが描かれている作品を、私は他には知りません。
物語の最後、スウェーデン人の男が去っていく年老いた船長の後姿をじっと見送る場面があるのですが、そこに作者の人を冷静に見つめ続ける、どこか諦めたような、それでいて細々とした希望を探しているような視線を感じます。
「人生なんてこんなものさ。君だってそう思うだろう?」と皮肉な問いを投げかけながら、それでいて、それを否定してもらいたがっているようにも思えます。
有無を言わせずに切り捨てるニヒルさの中にも、人の善意を切望しているような、そんな感じのするこの作品が好きです。
何にしろ、期待のし過ぎは良くないですね。
例えば、隣の家に庭なんかなかったけど、殺風景な玄関の片隅に小さな鉢植えがあって、可愛らしい花が一輪咲いていた…くらいのセンチメンタルだったら許されはしないかしら?
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