時には目食耳視も悪くない。

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愛情の深さ、東西対決。

2017年06月30日 | 文学
 「初めて彼に会った時、目がつぶれたかと思ったの(はあと)」

 ある日突然、あなたの友だちがこんなことを言い出したらどうしますか?
 私なら、医者に行くようにすすめます(冗談です…)

 恋は盲目と言いますが、まさにこんな恋するオトメ心のサクラが満開の告白で始まる詩を書いた男性がいます。
 シャミッソーAdelbert von Chamisso(1781-1838)さんです。

 《女の愛と生涯Frauenliebe und -leben》(1830)は、シャミッソーさんが49歳くらいに書いた全9篇の連作詩(幾つかの詩で構成される詩集の一種)で、タイトルの通り主人公の女性が一人の男性と出会い、恋をして結婚し、妊娠、出産、子育てを経験し、最後は夫に先立たれるも、孫たちに囲まれて幸せに暮らすという内容になっています。

 ロマン派の作曲家、シューマンRobert Schumann(1810-1856)さんやレーヴェCarl Loewe(1796-1869)さんがこの詩集に曲をつけていることでも有名です。

 もう一度言いますが、この詩の作者は男性です。そして、詩の一人称は女性です。
 つまり、男性のシャミッソーさんが女性の立場にたって書いた詩なのです。

 え?何か聞いたことがあるシチュエーションですって?
 はい、そうです。日本にもそんなことをした男性文学者がいましたね。
 紀貫之(生没年不詳、平安前期)さんです。

 「男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり。」の書き出しが超有名なアレです。

 何故、貫之さんが女性の立場で《土佐日記》を書いたのかは、仮名文字を広く親しんでもらうためとか、女性に読んでもらうためとか、子供の和歌教育的読み物だとか、様々に推測されていますが、女装願望があったわけではないのは確かです。

 今となっては貫之さんの真意は確かめようがありませんが、なかなか出世できないので、やけっぱちになって書いたくらいの真相だと面白いんですけどね。

 慣れない土地での生活の中で、亡くなった子供への母親の愛情を細やかに書き記してあるのを読むと、貫之さん自身も優しい心の持ち主だったのではないかと思われます。

 一方のシャミッソーさんですが、彼はもともとフランスで生まれました。フランス革命の影響でプロイセンに亡命し、その後ベルリンで生活しました。
 対フランスとの解放戦争の間は、ドイツの友人たちと母国フランスとの板挟みになり、苦しんだといいます。

 1813年、彼は友人の子供たちのためにメルヘン《影をなくした男Peter Schlemihls wundersame Geshichte》を執筆しました。
このお話、ハッピーエンドではないのですが、鼻持ちならない悪魔に人間社会で生きる術を奪われても、決して屈せずに自負を持って生きてゆく主人公に好感が持てます。
 きっと、シャミッソーさんもそんなふうに、激動のヨーロッパを生き抜いたのでしょうね。

 また、植物学の研究者としての実績をなかなか評価されずに悩んだそうで、なんだか貫之さんと通じる所があります。
 (シャミッソーさんの名前にちなんで名づけられた植物(Chamissonia)があり、貫之さんも《古今和歌集》の選者の一人として後世に名を残しています。)

 さて、そんなシャミッソーさん、39歳の時に年の離れた若い女の子と結婚することになりました。
 《女の愛と生涯》は、この奥さんとの結婚生活にインスピレーションを得て書かれたようです。
 おそらく、「こんな奥さんになってね」というシャミッソーさんの願いがこめられているのでしょう。

 女性の立場からしたら、一方的に生き方を押し付けられているようで、少なからず反発を覚える人もいるかもしれませんが、シャミッソーさんに悪気はないと思います。
 むしろ、自分のような苦しい体験をせずに、どうか平凡ながらも幸せな人生を送って欲しいと願ったものと思われます。

 今の日本は既婚女性が働きづらい社会と言われていますが、旦那さんがこんな思いやりのある人だと、少しは奥さんの苦労が軽くなるかしら?

 歌人としての才能がありながら、なかなか出世できなかった紀貫之さんと、出生の事情から悩み多き人生を歩んだシャミッソーさん。
 お二人とも愛情深い男性だったことは間違いありません。


 


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