☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
その後というものは、つねづねおそばにおつき申し上げていた女たちが、かぐや姫に比べると、
もうまるで雲泥のちがいで、いままでは人に比べて美しいと思っていた女たちでさえ、今では
かぐや姫と思い比べてみると、てんで問題にならないのである。そして、帝の御心には
かぐや姫のことばかりが、もう幻のようになってしまって、帝はただお1人で欝々として
お暮らしになった。
『国民の文学5 王朝名作集(Ⅰ)』より『竹取物語』川端康成訳(1964)河出書房新社より
光り輝く竹から生まれたかぐや姫が美しく成長して、やがて月に帰ってゆくというお話は、子どもの頃におとぎ話として読んでいたのですが、大人になってからこの話を思い返してみると、不思議に思える点がいくつもあるのです。
まず、この話はいったい何のために書かれたのかということです。
『落窪物語』が、不遇のお姫様がイケメン貴公子と幸せになるというシンデレラストーリーを展開する一方で、かぐや姫には守ってくれる人は登場しません。
かぐや姫の唯一の武器は、「地球生まれではないこと」です。
月の世界の住人なので、地球の人間社会のルールは通用しませんということを徹底して主張するだけで、政治的権力の頂点に位置する帝すら、退けてしまうのです。
これは、女性が何らかの庇護の下になければ生き残ることが難しかった当時の社会への当てつけのようにも思えます。
自分が望もうが望むまいが、親が婿にしたいと思う男と結婚しなければならず、その上、夫となった男は余所の女の所へ通いっぱなしで、自分の方にはまったく見向きもしない。そんな夫婦関係を、いろいろと噂されて、心無いことも言われたりする。
そんな目にあうくらいなら、誰とも結婚なんてしたくないに決まっています。例え、帝の命令であってもです。
『竹取物語』を、当時の女の子たちはどんな気持ちで読んでいたのでしょうか。
また、娘を持つ親たちは、親の言うことも帝の言うことも聞かないかぐや姫のお話を、子どもに読ませたいと思っていたのでしょうか?
当時の上流階級における識字率がどのくらいであったのか、不勉強な私には分からないのですが、少なくとも、読む人が読めばこのお話の奇妙さが分かるはずです。
女性が自ら身を立てる術がなかった時代に、親に逆らい、国家権力に抗い、それでも罰せられなかったのは最終的に、かぐや姫が月に帰ったからだと思います。
かぐや姫は、地球の人間社会に馴染むことができませんでしたし、社会に居場所を作れない者は退場するしかないということになるのです。
この物語は、そのことを女の子たちに教えるためのものだったと考えることもできます。
結婚は決して幸せなゴールではないけれど、だからといって女性としての運命を受け入れられないのならば、この社会で生き残ることはできないのだと。
かぐや姫は月に帰ることができましたが、実際に、地上で暮らす女の子たちには決められた運命から逃げて暮らすことのできる場所はありません。
そういう意味では、彼女たちにとって『竹取物語』は真の夢物語であったかもしれません。
いったい何人の女性が、夫の訪れのない夜に一人、月を眺めて過ごしたことでしょう。
そんなつらい夜の慰みに、『竹取物語』は読まれたのかもしれません。
幸せな結婚生活を夢見る女の子たちにはシンデレラストーリーが人気ですが、結婚の現実を知り、なおかつ現実から逃げることができない女性たちには、まさに現実離れしたSFストーリーが必要だということなのでしょう。
(最近の創作分野で流行りの「異世界もの」も、現代社会の厳しい現実を反映しているのでしょうか、、、)
男性の好き勝手に女性たちが悩み苦しんだように、『竹取物語』に登場する男性たちは、かぐや姫の無茶ぶりとも思える要求を叶えるために散々な目にあいます。
そして、自分の想いが叶わずに悶々とする帝の姿に、多くの女性たちは自らの身の上を重ねて、気持ちを紛らしていたのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.85
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●本日のコトノハ●
その後というものは、つねづねおそばにおつき申し上げていた女たちが、かぐや姫に比べると、
もうまるで雲泥のちがいで、いままでは人に比べて美しいと思っていた女たちでさえ、今では
かぐや姫と思い比べてみると、てんで問題にならないのである。そして、帝の御心には
かぐや姫のことばかりが、もう幻のようになってしまって、帝はただお1人で欝々として
お暮らしになった。
『国民の文学5 王朝名作集(Ⅰ)』より『竹取物語』川端康成訳(1964)河出書房新社より
光り輝く竹から生まれたかぐや姫が美しく成長して、やがて月に帰ってゆくというお話は、子どもの頃におとぎ話として読んでいたのですが、大人になってからこの話を思い返してみると、不思議に思える点がいくつもあるのです。
まず、この話はいったい何のために書かれたのかということです。
『落窪物語』が、不遇のお姫様がイケメン貴公子と幸せになるというシンデレラストーリーを展開する一方で、かぐや姫には守ってくれる人は登場しません。
かぐや姫の唯一の武器は、「地球生まれではないこと」です。
月の世界の住人なので、地球の人間社会のルールは通用しませんということを徹底して主張するだけで、政治的権力の頂点に位置する帝すら、退けてしまうのです。
これは、女性が何らかの庇護の下になければ生き残ることが難しかった当時の社会への当てつけのようにも思えます。
自分が望もうが望むまいが、親が婿にしたいと思う男と結婚しなければならず、その上、夫となった男は余所の女の所へ通いっぱなしで、自分の方にはまったく見向きもしない。そんな夫婦関係を、いろいろと噂されて、心無いことも言われたりする。
そんな目にあうくらいなら、誰とも結婚なんてしたくないに決まっています。例え、帝の命令であってもです。
『竹取物語』を、当時の女の子たちはどんな気持ちで読んでいたのでしょうか。
また、娘を持つ親たちは、親の言うことも帝の言うことも聞かないかぐや姫のお話を、子どもに読ませたいと思っていたのでしょうか?
当時の上流階級における識字率がどのくらいであったのか、不勉強な私には分からないのですが、少なくとも、読む人が読めばこのお話の奇妙さが分かるはずです。
女性が自ら身を立てる術がなかった時代に、親に逆らい、国家権力に抗い、それでも罰せられなかったのは最終的に、かぐや姫が月に帰ったからだと思います。
かぐや姫は、地球の人間社会に馴染むことができませんでしたし、社会に居場所を作れない者は退場するしかないということになるのです。
この物語は、そのことを女の子たちに教えるためのものだったと考えることもできます。
結婚は決して幸せなゴールではないけれど、だからといって女性としての運命を受け入れられないのならば、この社会で生き残ることはできないのだと。
かぐや姫は月に帰ることができましたが、実際に、地上で暮らす女の子たちには決められた運命から逃げて暮らすことのできる場所はありません。
そういう意味では、彼女たちにとって『竹取物語』は真の夢物語であったかもしれません。
いったい何人の女性が、夫の訪れのない夜に一人、月を眺めて過ごしたことでしょう。
そんなつらい夜の慰みに、『竹取物語』は読まれたのかもしれません。
幸せな結婚生活を夢見る女の子たちにはシンデレラストーリーが人気ですが、結婚の現実を知り、なおかつ現実から逃げることができない女性たちには、まさに現実離れしたSFストーリーが必要だということなのでしょう。
(最近の創作分野で流行りの「異世界もの」も、現代社会の厳しい現実を反映しているのでしょうか、、、)
男性の好き勝手に女性たちが悩み苦しんだように、『竹取物語』に登場する男性たちは、かぐや姫の無茶ぶりとも思える要求を叶えるために散々な目にあいます。
そして、自分の想いが叶わずに悶々とする帝の姿に、多くの女性たちは自らの身の上を重ねて、気持ちを紛らしていたのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.85
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