☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
私はサラが存在を信じてもいない神に祈ったことを思い出した。
そしていま私は、存在を信じてもいないサラに向かって話しかけている。
君は私を生き返らせるために私たち二人を犠牲にした。
しかし、君がいない人生なんていったいどんな人生なのだろう?
君が神を愛するのはけっこうだ。君は死んでいる。だから、神を自分のものにできる。
だが、僕は人生という病にかかり、健康によって蝕まれている。
神を愛し始めたら、ただ死ぬわけにはいかない。それについて何かをしなければならない。
僕は君を自分の手で触らねばならなかった。舌で君を味わねばならなかった。
人は愛しておいて、何もしないというわけにはいかない。
君が夢のなかでしたように、「心配しないで」と僕に言ったところで、それは役に立たない。
僕があのように愛するとすれば、それはすべての終りになる。
『情事の終り』グレアム・グリーン著/上岡伸雄訳(2014)新潮社より
困ったときの神頼みという言葉がありますが、人は普段、神様なんて頭の片隅にも浮かばないのに、窮地に立たされると咄嗟に「神様!助けて!」と思ってしまうものです。
しかし、その窮地をなんとか脱した後まで「神様」を意識する人は少ないと思います。
もしかしたら、「あの時、助けて下さったから」と言って、どこかの神社にお礼参りする人はいるかもしれませんが、たいていの人は困った時に頼ったことさえ忘れてしまうのではないでしょうか。
グレアム・グリーンの著作『情事の終り』のヒロイン、サラは愛人モーリスが死んでしまったと思い込み、神様に彼を生き返らせて下さいとお願いします。
その代わりに、二度とモーリスに会わないことを約束しました。
結果的にモーリスは生きた姿でサラの前に現れますが、それは彼が神の力によって蘇ったとは断言できない状況でした。
サラはモーリスが完全に絶命していると確認していませんでした。(ただ、「死んでいる」と感じた)
彼女が神に祈らなくても、モーリスは無事に戻ってきたかもしれません。
事実が不確定にもかかわらず、サラは自分がした約束を頑なに守り続けます。
夫がいるのにもかかわらず、愛人と情事を楽しんできた奔放な彼女が、どうしてこんな行動をとったのでしょうか?
この作品を初めて読んだ高校生の時(その時は別の訳者によるものを読みましたが)、私は何故サラが死んでしまったのか、理解できませんでした。
お互い好きならば、サラはヘンリーと離婚して、モーリスと一緒になればいいのに、なんて浅い考えでいました。
しかし、40歳を過ぎた今、私はいくつかの恋を経験して、結婚と離婚を一度づつして、男女関係がそんなに単純なものではないことが分かります。
キリスト教の信者の神への信仰がどういうものなのか、私にはよく分かりませんが、この物語ではそういった宗教のことではなく、一人の人間が自分に対して、自分の行いに対して、どれだけ誠実でいられるか(あるいは、いざるを得ないか)ということが描かれているような気がします。
サラは日常的には信心深くなかったにも関わらず、そんな自分が思わず祈ってしまったという事実に愕然としているようにも思えます。
私がなんとなく考え付くことのできる「神」と、サラが信じたキリスト教における「神」は、別のものだと私は思います。
私の知っている「神」は、キリスト教の「神」のように、人を裁いたり、選別しません。
「罰が当たる」のは「神」によってではなく、その人自身の行いによる「自業自得」や「因果応報」などの巡り合わせで起こることだと思っています。
「地獄に落ちる」というのも、キリスト教の概念では神の裁きによって決まりますが、東洋の概念では生前の自らの行いによって決まるのです。
閻魔様の前で噓をつかなければ、舌を引っこ抜かれることもありません。
サラが信じたものは、自分自身なのだと思います。彼女に自覚はなかったかもしれませんが。
心の底からモーリスを愛し、彼を失いたくないと思い、愛する人に幸せでいて欲しいと願ったのです。
そして、彼の不在―自分が結婚しているため、共に生きることができないことと、いつか彼が自分より先に死ぬかもしれないという不在―に耐えられず、自ずと衰弱して命を落としてしまったのかもしれません。
モーリスに会わなくても彼を愛し続けることができるということは、実在するかどうか分からない神を信じ愛することと変わらないことを意味しています。
こうしたサラの信仰、あるいは誠実さは、亡くなった後に火葬されるか土葬されるかという問題とは全く別の次元のものに思えます。
モーリスが言うように、人は誰かを愛したら、何かをせずにはいられない生き物なのでしょう。
愛していることを伝えたくなる、愛されていることを実感したくなる。
何もせずに、心の中でただ静かに相手を想うだけでは、うまくいかないということを、サラは死をもって証明したようなものです。
サラのような誠実さでもって、自分と向き合い、誰かを愛することができるかと言われると、いまいち自信がありませんが、この歳になって、サラが死んでしまった理由が少し分かるような気がします。
サラの愛し方とモーリスの愛し方は違います。それでも、愛は愛なのです。
かつて私は、こちらに愛情を抱いていない相手と一緒に過ごした期間がありましたが、人は愛情を感じない相手を害することにためらいを覚えないということを学びました。
「自分さえ好きなら、例え好きになってもらえなくても平気。だって、好きなんだもん」なんて子供じみた考えが粉々に砕け散って吹き飛ぶくらいには、目の覚める経験でした。
どんな関係性でも、やはり、そこに愛があるかどうかだけはしっかり考えた方が良さそうですよ。。。
ヒトコトリのコトノハ vol.84
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●本日のコトノハ●
私はサラが存在を信じてもいない神に祈ったことを思い出した。
そしていま私は、存在を信じてもいないサラに向かって話しかけている。
君は私を生き返らせるために私たち二人を犠牲にした。
しかし、君がいない人生なんていったいどんな人生なのだろう?
君が神を愛するのはけっこうだ。君は死んでいる。だから、神を自分のものにできる。
だが、僕は人生という病にかかり、健康によって蝕まれている。
神を愛し始めたら、ただ死ぬわけにはいかない。それについて何かをしなければならない。
僕は君を自分の手で触らねばならなかった。舌で君を味わねばならなかった。
人は愛しておいて、何もしないというわけにはいかない。
君が夢のなかでしたように、「心配しないで」と僕に言ったところで、それは役に立たない。
僕があのように愛するとすれば、それはすべての終りになる。
『情事の終り』グレアム・グリーン著/上岡伸雄訳(2014)新潮社より
困ったときの神頼みという言葉がありますが、人は普段、神様なんて頭の片隅にも浮かばないのに、窮地に立たされると咄嗟に「神様!助けて!」と思ってしまうものです。
しかし、その窮地をなんとか脱した後まで「神様」を意識する人は少ないと思います。
もしかしたら、「あの時、助けて下さったから」と言って、どこかの神社にお礼参りする人はいるかもしれませんが、たいていの人は困った時に頼ったことさえ忘れてしまうのではないでしょうか。
グレアム・グリーンの著作『情事の終り』のヒロイン、サラは愛人モーリスが死んでしまったと思い込み、神様に彼を生き返らせて下さいとお願いします。
その代わりに、二度とモーリスに会わないことを約束しました。
結果的にモーリスは生きた姿でサラの前に現れますが、それは彼が神の力によって蘇ったとは断言できない状況でした。
サラはモーリスが完全に絶命していると確認していませんでした。(ただ、「死んでいる」と感じた)
彼女が神に祈らなくても、モーリスは無事に戻ってきたかもしれません。
事実が不確定にもかかわらず、サラは自分がした約束を頑なに守り続けます。
夫がいるのにもかかわらず、愛人と情事を楽しんできた奔放な彼女が、どうしてこんな行動をとったのでしょうか?
この作品を初めて読んだ高校生の時(その時は別の訳者によるものを読みましたが)、私は何故サラが死んでしまったのか、理解できませんでした。
お互い好きならば、サラはヘンリーと離婚して、モーリスと一緒になればいいのに、なんて浅い考えでいました。
しかし、40歳を過ぎた今、私はいくつかの恋を経験して、結婚と離婚を一度づつして、男女関係がそんなに単純なものではないことが分かります。
キリスト教の信者の神への信仰がどういうものなのか、私にはよく分かりませんが、この物語ではそういった宗教のことではなく、一人の人間が自分に対して、自分の行いに対して、どれだけ誠実でいられるか(あるいは、いざるを得ないか)ということが描かれているような気がします。
サラは日常的には信心深くなかったにも関わらず、そんな自分が思わず祈ってしまったという事実に愕然としているようにも思えます。
私がなんとなく考え付くことのできる「神」と、サラが信じたキリスト教における「神」は、別のものだと私は思います。
私の知っている「神」は、キリスト教の「神」のように、人を裁いたり、選別しません。
「罰が当たる」のは「神」によってではなく、その人自身の行いによる「自業自得」や「因果応報」などの巡り合わせで起こることだと思っています。
「地獄に落ちる」というのも、キリスト教の概念では神の裁きによって決まりますが、東洋の概念では生前の自らの行いによって決まるのです。
閻魔様の前で噓をつかなければ、舌を引っこ抜かれることもありません。
サラが信じたものは、自分自身なのだと思います。彼女に自覚はなかったかもしれませんが。
心の底からモーリスを愛し、彼を失いたくないと思い、愛する人に幸せでいて欲しいと願ったのです。
そして、彼の不在―自分が結婚しているため、共に生きることができないことと、いつか彼が自分より先に死ぬかもしれないという不在―に耐えられず、自ずと衰弱して命を落としてしまったのかもしれません。
モーリスに会わなくても彼を愛し続けることができるということは、実在するかどうか分からない神を信じ愛することと変わらないことを意味しています。
こうしたサラの信仰、あるいは誠実さは、亡くなった後に火葬されるか土葬されるかという問題とは全く別の次元のものに思えます。
モーリスが言うように、人は誰かを愛したら、何かをせずにはいられない生き物なのでしょう。
愛していることを伝えたくなる、愛されていることを実感したくなる。
何もせずに、心の中でただ静かに相手を想うだけでは、うまくいかないということを、サラは死をもって証明したようなものです。
サラのような誠実さでもって、自分と向き合い、誰かを愛することができるかと言われると、いまいち自信がありませんが、この歳になって、サラが死んでしまった理由が少し分かるような気がします。
サラの愛し方とモーリスの愛し方は違います。それでも、愛は愛なのです。
かつて私は、こちらに愛情を抱いていない相手と一緒に過ごした期間がありましたが、人は愛情を感じない相手を害することにためらいを覚えないということを学びました。
「自分さえ好きなら、例え好きになってもらえなくても平気。だって、好きなんだもん」なんて子供じみた考えが粉々に砕け散って吹き飛ぶくらいには、目の覚める経験でした。
どんな関係性でも、やはり、そこに愛があるかどうかだけはしっかり考えた方が良さそうですよ。。。
ヒトコトリのコトノハ vol.84
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