☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
唯一絶対の神をいただく一神教の民族とは違い、そこかしこに神のいる日本人にとって、唯一絶対の正義という
発想が芽生えにくく、正義をめぐる争いは起きにくかったのである。この結果、他の民族、他の宗教を鷹揚に受け入れる
という、きわめて特殊な体質を培ってゆくのである。(中略)...このような穏やかな宗教観が、今日につづく日本人の
❝あいまいさ❞につながっているとするならば、むしろ我々はこれを誇りとすべきであろう。民族紛争、宗教戦争に
彩られてきたこの世界の歴史に鑑み、これからの地球を思うとき、この❝あいまいな❞発想こそ、最も求められてくる
宝物と思われるからである。
『消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史』関裕二(1998)PHP研究所
日本人は単一の民族であるにもかかわらず、多様な外国文化を受け入れる寛容さを持つと評されることが多いように感じます。
そして、その原因は多神教の国だからと言われがちですが、むしろ宗教にはあまり関心がない人の方が多いのではと首を傾げたくなります。
確かに、亡くなった家族や先祖を家の仏壇に祀って大切にする人は沢山いるでしょうが、例えば神道の神々のために、キリスト教やイスラム教の信者のように定期的にお祈りをしたり、ミサをあげたりしている人は、一般的にほとんどいないのではないでしょうか。
神社の神主さんや、お寺の住職さんは別だとは思いますが。
つまり、宗教が日本人の性質にそれほど影響力を持っていないように、私には感じられるのです。
それに、SNSのような個人が特定されない場では、他人のちょっとした言動についてマナー違反を指摘したり、自分なりの正義を主張する人は沢山いますし、差別的な発言も多く見かけます。
日本人である私からすると、日本人は決して寛容ではありません。
日本では、外国で見られるような集団によるデモや抗議行動があまりないということも、日本人が周囲に寛容だと誤解されている一因かもしれません。
それは、あくまでも外国との比較における話であり、日本人の寛容さを証明するものではないと思うのです。
表立って「正義」を主張せず、「あいまいに」するという性質の出所は、多神教とは別のところにあるのかもしれません。
古事記では、アマテラスが弟スサノオを高天原から追放するエピソードがあり、神話の中でも別に寛容さを説いているわけではなさそうです。
では、日本人が「寛容」であると誤解される「あいまいな」態度をとりがちなのは何故なのでしょうか。
これは、私の推測に過ぎないのですが、態度を「あいまい」にせずに自分の正義を主張すれば、自ずと他者との衝突が起こります。
そして、その態度を曲げることなく貫けば、いずれそれは暴力行為になるかもしれません。
日本人の中には、そういった暴力的行為が自分を不利にすると思っている人が多いのかもしれません。
そのため、多くの日本人は自分の中にある正義を不用意に主張しないのだと、私は考えています。
また、集団行動による威嚇や、何かに抗議するといった暴力では、何も解決しないということを知っている人も多いはずです。
このような考え方は「諦め」と捉えられ、何かと非難されがちですが、事実として、暴力行為が解決することは何一つなく、それどころか新たな恨みやさらなる暴力を生み出してしまう結果になるのを、人類は今までの歴史の中で幾度となく経験しているのです。
それよりも、一人一人が差別をなくすように心がけたり、環境を考えてゴミをきちんと分別したり、無理のない範囲で節電生活をする方が、どれだけ社会を健全にできるだろうと、私は思うのです。
日本人の「あいまいな」態度の根本には他者との衝突を避けるという意図があり、それは同時に、そうすることで自らの利益を守り、無駄な損害を出さないという本能的な知恵でもあると思います。
日本人が何でも受け入れてくれると考えるのは間違いです。日本人は、自分を不利にするような「正義」を堂々と主張しない代わりに、いつでも自分が有利な立場でいられるように様子見しているだけなのです。
日本人の「あいまいさ」とは、そういうものだと40年以上日本の社会で生きてきたオバサンの私は感じています。
なにはともあれ、表面的でも平和に毎日、便利に快適な生活ができる日本は天国だと思いますがね。
ヒトコトリのコトノハ vol.45
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●本日のコトノハ●
唯一絶対の神をいただく一神教の民族とは違い、そこかしこに神のいる日本人にとって、唯一絶対の正義という
発想が芽生えにくく、正義をめぐる争いは起きにくかったのである。この結果、他の民族、他の宗教を鷹揚に受け入れる
という、きわめて特殊な体質を培ってゆくのである。(中略)...このような穏やかな宗教観が、今日につづく日本人の
❝あいまいさ❞につながっているとするならば、むしろ我々はこれを誇りとすべきであろう。民族紛争、宗教戦争に
彩られてきたこの世界の歴史に鑑み、これからの地球を思うとき、この❝あいまいな❞発想こそ、最も求められてくる
宝物と思われるからである。
『消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史』関裕二(1998)PHP研究所
日本人は単一の民族であるにもかかわらず、多様な外国文化を受け入れる寛容さを持つと評されることが多いように感じます。
そして、その原因は多神教の国だからと言われがちですが、むしろ宗教にはあまり関心がない人の方が多いのではと首を傾げたくなります。
確かに、亡くなった家族や先祖を家の仏壇に祀って大切にする人は沢山いるでしょうが、例えば神道の神々のために、キリスト教やイスラム教の信者のように定期的にお祈りをしたり、ミサをあげたりしている人は、一般的にほとんどいないのではないでしょうか。
神社の神主さんや、お寺の住職さんは別だとは思いますが。
つまり、宗教が日本人の性質にそれほど影響力を持っていないように、私には感じられるのです。
それに、SNSのような個人が特定されない場では、他人のちょっとした言動についてマナー違反を指摘したり、自分なりの正義を主張する人は沢山いますし、差別的な発言も多く見かけます。
日本人である私からすると、日本人は決して寛容ではありません。
日本では、外国で見られるような集団によるデモや抗議行動があまりないということも、日本人が周囲に寛容だと誤解されている一因かもしれません。
それは、あくまでも外国との比較における話であり、日本人の寛容さを証明するものではないと思うのです。
表立って「正義」を主張せず、「あいまいに」するという性質の出所は、多神教とは別のところにあるのかもしれません。
古事記では、アマテラスが弟スサノオを高天原から追放するエピソードがあり、神話の中でも別に寛容さを説いているわけではなさそうです。
では、日本人が「寛容」であると誤解される「あいまいな」態度をとりがちなのは何故なのでしょうか。
これは、私の推測に過ぎないのですが、態度を「あいまい」にせずに自分の正義を主張すれば、自ずと他者との衝突が起こります。
そして、その態度を曲げることなく貫けば、いずれそれは暴力行為になるかもしれません。
日本人の中には、そういった暴力的行為が自分を不利にすると思っている人が多いのかもしれません。
そのため、多くの日本人は自分の中にある正義を不用意に主張しないのだと、私は考えています。
また、集団行動による威嚇や、何かに抗議するといった暴力では、何も解決しないということを知っている人も多いはずです。
このような考え方は「諦め」と捉えられ、何かと非難されがちですが、事実として、暴力行為が解決することは何一つなく、それどころか新たな恨みやさらなる暴力を生み出してしまう結果になるのを、人類は今までの歴史の中で幾度となく経験しているのです。
それよりも、一人一人が差別をなくすように心がけたり、環境を考えてゴミをきちんと分別したり、無理のない範囲で節電生活をする方が、どれだけ社会を健全にできるだろうと、私は思うのです。
日本人の「あいまいな」態度の根本には他者との衝突を避けるという意図があり、それは同時に、そうすることで自らの利益を守り、無駄な損害を出さないという本能的な知恵でもあると思います。
日本人が何でも受け入れてくれると考えるのは間違いです。日本人は、自分を不利にするような「正義」を堂々と主張しない代わりに、いつでも自分が有利な立場でいられるように様子見しているだけなのです。
日本人の「あいまいさ」とは、そういうものだと40年以上日本の社会で生きてきたオバサンの私は感じています。
なにはともあれ、表面的でも平和に毎日、便利に快適な生活ができる日本は天国だと思いますがね。
ヒトコトリのコトノハ vol.45
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