☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
グリム兄弟とくらべてギーゼラ=アヒム二世組は、いかにも拙く、その絵入り童話は作品とすらいえないかもしれない。
しかし、この叔母と甥は、私的な世界に終始したおかげで、ヴィルヘルム・グリムが受けたような時代の制約をまぬがれていた。
ここでは男と女の役割が、いたって自由にとりかわる。富が最後の目的ではなく、美しい娘も年とともに美しくなくなり、
勇気ある青年もまたおびえ、こわがり、目を閉じてうずくまる。その夢が奇妙な実現をみたりする。
『ぼくのドイツ文学講義』池内紀(1996)岩波書店より
子どもの時に好きだった童話はアンデルセンの《人魚姫》です。
人魚が人間に変身できることがとても神秘的に思えたからです。
本当は人間じゃないのに、人間のフリをして人間の世界で生活をするのはとてもスリル満点です。
いつ人魚だとバレてしまうか、そして人魚だとバレたらいったいどんな目にあうのか、そのドキドキ感が子供心を十分に楽しませてくれました。
いつも、まるで自分が人間のフリをしている人魚になったつもりで、ああしよう、こうしようと勝手に想像しながらお話を読んでいました。
ただ、このお話の最後で、人魚姫が海の泡になってしまうのは、なんだか残念な気持ちになったのです。
日本の昔話の『鶴の恩返し』では、助けてもらったお礼に人間の姿に化けてやってきた鶴が、正体を見られて飛んで行ってしまいますが、それでも、鶴は鶴として、その後も生きて行くのだと思うことができます。
鳥が空の彼方に飛び去ることを「死ぬこと」の暗示と見ることもできるのですが、表面的にこのお話の最後の部分を読むなら、鶴はただ飛んで行ってしまっただけで、直接的に「息絶えた」などの文言はありません。
ですから、人魚姫も王子様との恋がうまくいかなくても、人魚に戻って海の中で暮らしてもいいんじゃないかと思いましたし、あるいは、そのまま人間として別の男の人と出会って、また恋をすればいいのでは?なんて考えたりもしました。
人魚姫ではなく、別の女性を選んだ王子様も、正直「全然格好良くない!」と面白くない気分になったものです。
自分の姿を変えるという危険を冒してまで好きな人に会いに来たのに、結局海の泡になってしまうなんて、なんだかとても損をしたようにも思えますが、一方では、陸に上がって人間として生きるという、他の人魚たちができない経験をしたのだから、人魚姫としては少しは満足できた人生だったのかしら?
考え方は人によって様々ですね。今の若者のみなさんはどう思うのでしょうか。
そもそも、童話はフィクションです。
昔から言い伝えられているとしてもそれは史実ではなく、あるいは、そのお話が生まれるきっかけとなった出来事が実際にあったとしても、その内容がそっくりそのまま現代まで語り継がれることは、まずありません。
長い年月、沢山の人の口を経るうちに、少しずつ内容が変わっていき、また様々なパターンの結末が生み出され、それぞれ語られているものです。
とはいえ、《桃太郎》も《かちかち山》も《猿蟹合戦》も、現在読まれているものと、私が子供の頃に知った内容が違っていて、驚きを隠せません。
童話はいわば、夢の国の出来事です。現実には人魚姫は存在しませんし、鶴を助けても身の回りの世話をしに人間の姿でやって来ることはありません。
作り話なのだから、お話の中で何が起ころうと、現実世界には何も影響がないはずなのです。
私は人魚姫に、人間社会で幸せに暮らして欲しいとは思いましたが、物語自体が「そういうお話」になって欲しいとは思いませんでした。
世の中のすべてのことが自分の思い通りにはならないということを、子どもながらに分かっていましたし、また、そうしたいとも思っていませんでした。
子どもは、世の中を変えたいなど思いもしないものです。そういうことをしてしまうのは、いつも大人なのです。
「~だったらいいのにな」と思うだけなら、何でもアリなのがメルヘンの世界です。
それを、現実世界では「何でもアリ」ではないということを納得できない大人たちが、メルヘンの世界にズカズカと土足で踏み入って、現実では達成できない自分たちの願望をムリヤリ成就させようとしている。
大人がするべきことは、童話の内容を変えることではなく、空想と現実の違いを子どもに教えることだと思います。
うまくいかない現実社会でのストレスを空想で癒すというのが、本来のフィクションの役割だったはずです。
癒しの現場まで、現実で縛ってしまっては心の逃げ場がなくなってしまうのではないでしょうか。
とはいえ、私の子供時代とは比べ物にならないくらい、ゲームや玩具の種類や機能などが豊富になりましたし、今どき童話が唯一の楽しみなんて子どもはいるはずがありません。
(だったら、なおさら、改変なんてしなくてもいいとは思いませんか?)
大人たちに踏み荒らされたメルヘンではなく、安心して心を預けられるおとぎの世界がどこかに残ってはいないか、探し続ける今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.75
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
グリム兄弟とくらべてギーゼラ=アヒム二世組は、いかにも拙く、その絵入り童話は作品とすらいえないかもしれない。
しかし、この叔母と甥は、私的な世界に終始したおかげで、ヴィルヘルム・グリムが受けたような時代の制約をまぬがれていた。
ここでは男と女の役割が、いたって自由にとりかわる。富が最後の目的ではなく、美しい娘も年とともに美しくなくなり、
勇気ある青年もまたおびえ、こわがり、目を閉じてうずくまる。その夢が奇妙な実現をみたりする。
『ぼくのドイツ文学講義』池内紀(1996)岩波書店より
子どもの時に好きだった童話はアンデルセンの《人魚姫》です。
人魚が人間に変身できることがとても神秘的に思えたからです。
本当は人間じゃないのに、人間のフリをして人間の世界で生活をするのはとてもスリル満点です。
いつ人魚だとバレてしまうか、そして人魚だとバレたらいったいどんな目にあうのか、そのドキドキ感が子供心を十分に楽しませてくれました。
いつも、まるで自分が人間のフリをしている人魚になったつもりで、ああしよう、こうしようと勝手に想像しながらお話を読んでいました。
ただ、このお話の最後で、人魚姫が海の泡になってしまうのは、なんだか残念な気持ちになったのです。
日本の昔話の『鶴の恩返し』では、助けてもらったお礼に人間の姿に化けてやってきた鶴が、正体を見られて飛んで行ってしまいますが、それでも、鶴は鶴として、その後も生きて行くのだと思うことができます。
鳥が空の彼方に飛び去ることを「死ぬこと」の暗示と見ることもできるのですが、表面的にこのお話の最後の部分を読むなら、鶴はただ飛んで行ってしまっただけで、直接的に「息絶えた」などの文言はありません。
ですから、人魚姫も王子様との恋がうまくいかなくても、人魚に戻って海の中で暮らしてもいいんじゃないかと思いましたし、あるいは、そのまま人間として別の男の人と出会って、また恋をすればいいのでは?なんて考えたりもしました。
人魚姫ではなく、別の女性を選んだ王子様も、正直「全然格好良くない!」と面白くない気分になったものです。
自分の姿を変えるという危険を冒してまで好きな人に会いに来たのに、結局海の泡になってしまうなんて、なんだかとても損をしたようにも思えますが、一方では、陸に上がって人間として生きるという、他の人魚たちができない経験をしたのだから、人魚姫としては少しは満足できた人生だったのかしら?
考え方は人によって様々ですね。今の若者のみなさんはどう思うのでしょうか。
そもそも、童話はフィクションです。
昔から言い伝えられているとしてもそれは史実ではなく、あるいは、そのお話が生まれるきっかけとなった出来事が実際にあったとしても、その内容がそっくりそのまま現代まで語り継がれることは、まずありません。
長い年月、沢山の人の口を経るうちに、少しずつ内容が変わっていき、また様々なパターンの結末が生み出され、それぞれ語られているものです。
とはいえ、《桃太郎》も《かちかち山》も《猿蟹合戦》も、現在読まれているものと、私が子供の頃に知った内容が違っていて、驚きを隠せません。
童話はいわば、夢の国の出来事です。現実には人魚姫は存在しませんし、鶴を助けても身の回りの世話をしに人間の姿でやって来ることはありません。
作り話なのだから、お話の中で何が起ころうと、現実世界には何も影響がないはずなのです。
私は人魚姫に、人間社会で幸せに暮らして欲しいとは思いましたが、物語自体が「そういうお話」になって欲しいとは思いませんでした。
世の中のすべてのことが自分の思い通りにはならないということを、子どもながらに分かっていましたし、また、そうしたいとも思っていませんでした。
子どもは、世の中を変えたいなど思いもしないものです。そういうことをしてしまうのは、いつも大人なのです。
「~だったらいいのにな」と思うだけなら、何でもアリなのがメルヘンの世界です。
それを、現実世界では「何でもアリ」ではないということを納得できない大人たちが、メルヘンの世界にズカズカと土足で踏み入って、現実では達成できない自分たちの願望をムリヤリ成就させようとしている。
大人がするべきことは、童話の内容を変えることではなく、空想と現実の違いを子どもに教えることだと思います。
うまくいかない現実社会でのストレスを空想で癒すというのが、本来のフィクションの役割だったはずです。
癒しの現場まで、現実で縛ってしまっては心の逃げ場がなくなってしまうのではないでしょうか。
とはいえ、私の子供時代とは比べ物にならないくらい、ゲームや玩具の種類や機能などが豊富になりましたし、今どき童話が唯一の楽しみなんて子どもはいるはずがありません。
(だったら、なおさら、改変なんてしなくてもいいとは思いませんか?)
大人たちに踏み荒らされたメルヘンではなく、安心して心を預けられるおとぎの世界がどこかに残ってはいないか、探し続ける今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.75
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