☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
オイレンシュピーゲルは缶をあけて「ほら司祭様、缶はお金でいっぱいです。
手を入れてひとつかみとり出しなさい。けれども決して深く手をつっこんではいけませんよ」といったのです。
司祭はわかったよと答えたもののあまりに緊張して欲望につき動かされていましたので、手を缶のなかにつっこみ、
たっぷり金をつかんでやろうとしたのです。
司祭が手をぐっと缶のなかにつっこむと金の下がじっとりとしめっていてやわらかいのに気が付きました。
すぐに手をひきぬいてみると指は糞まみれになっていたのです。司祭はオイレンシュピーゲルに
「ああお前は何といういかさまなやくざなんだろう。死の床に横になっていながら最後の瞬間にも
私を欺こうというのか。お前が若い頃に騙した者でも、これほどの恨みはもつまい」
といったのですが、オイレンシュピーゲルは「司祭様、あっしは前もって深く手をつっこんではいけないと
いっておきましたぜ。あっしが警告しておいたのに、お前様は欲望に迷わされたんでさあ。
あっしのせいではないですぜ」といったのです。
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』阿部謹也訳(1990)岩波書店より
突然ですが、私はトイレで便器に腰かけていると、ティル・オイレンシュピーゲルのことを思い出します。
そのくらい、この物語集には大便にまつわるエピソードが多く登場します。
昔から、下ネタというものは人々の心をつかんで放さないものなのでしょう。
日本の古典作品でも、それは例外ではありません。
『落窪物語』では、年甲斐もなく若い姫君に懸想した老人が一晩中、屋外で過ごしたせいで腹を下し、盛大に粗相をするエピソードがありますし、『平中物語』では、ストーカー男に自分の排せつ物を狙われていると察知した姫君が咄嗟に、別のものとすり替える話などが見られます。
現在でも、小学生の好きな物トップ3に必ずランクインする「うんち」の人気は、どこからくるのでしょうか?
まるで、全人類のDNAの中に排せつ物への愛着が組み込まれでもしているようです。
そもそも、「うんち」は自分の体内で製造された物であり、いわば自分の身体の一部でもあった物です。
それゆえに、人は自分が生み出した自分自身の分身として「うんち」を愛するのでしょうか?
(こんなことを書いている私って、いったい何なんだろう…笑)
人と「うんち」との関係について真面目に考えるのであれば、心理学的に分析することが可能でしょう。
けれども、私にはどうしても、それらの学問的見解は苦し紛れの言い訳にしか思えないのです。
まるで、「私たちは全くうんちには興味などありませんよ」という取り繕いをしたいがために、捻り出した建前のような気がしてならないのです。
いいじゃないですか。「うんち」が好きでも。
確かな理由など分からないけれども、私たち人類は本能的に「うんち」を魅力的な物だと認識してしまうものなのです。
そうでなければ、いまだに下ネタが世界共通、老若男女に愛されているハズがないではありませんか。
ちなみに、よくある質問として挙げられる「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ問題」ですが、私はうんこを食べたことがないので、うんこ味と言われてもピンときませんし、もちろん、排せつ物を食べたい欲求を感じたことはまだありません。(まだ?)
みなさんは、どうですか?
ヒトコトリのコトノハ vol.77
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
オイレンシュピーゲルは缶をあけて「ほら司祭様、缶はお金でいっぱいです。
手を入れてひとつかみとり出しなさい。けれども決して深く手をつっこんではいけませんよ」といったのです。
司祭はわかったよと答えたもののあまりに緊張して欲望につき動かされていましたので、手を缶のなかにつっこみ、
たっぷり金をつかんでやろうとしたのです。
司祭が手をぐっと缶のなかにつっこむと金の下がじっとりとしめっていてやわらかいのに気が付きました。
すぐに手をひきぬいてみると指は糞まみれになっていたのです。司祭はオイレンシュピーゲルに
「ああお前は何といういかさまなやくざなんだろう。死の床に横になっていながら最後の瞬間にも
私を欺こうというのか。お前が若い頃に騙した者でも、これほどの恨みはもつまい」
といったのですが、オイレンシュピーゲルは「司祭様、あっしは前もって深く手をつっこんではいけないと
いっておきましたぜ。あっしが警告しておいたのに、お前様は欲望に迷わされたんでさあ。
あっしのせいではないですぜ」といったのです。
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』阿部謹也訳(1990)岩波書店より
突然ですが、私はトイレで便器に腰かけていると、ティル・オイレンシュピーゲルのことを思い出します。
そのくらい、この物語集には大便にまつわるエピソードが多く登場します。
昔から、下ネタというものは人々の心をつかんで放さないものなのでしょう。
日本の古典作品でも、それは例外ではありません。
『落窪物語』では、年甲斐もなく若い姫君に懸想した老人が一晩中、屋外で過ごしたせいで腹を下し、盛大に粗相をするエピソードがありますし、『平中物語』では、ストーカー男に自分の排せつ物を狙われていると察知した姫君が咄嗟に、別のものとすり替える話などが見られます。
現在でも、小学生の好きな物トップ3に必ずランクインする「うんち」の人気は、どこからくるのでしょうか?
まるで、全人類のDNAの中に排せつ物への愛着が組み込まれでもしているようです。
そもそも、「うんち」は自分の体内で製造された物であり、いわば自分の身体の一部でもあった物です。
それゆえに、人は自分が生み出した自分自身の分身として「うんち」を愛するのでしょうか?
(こんなことを書いている私って、いったい何なんだろう…笑)
人と「うんち」との関係について真面目に考えるのであれば、心理学的に分析することが可能でしょう。
けれども、私にはどうしても、それらの学問的見解は苦し紛れの言い訳にしか思えないのです。
まるで、「私たちは全くうんちには興味などありませんよ」という取り繕いをしたいがために、捻り出した建前のような気がしてならないのです。
いいじゃないですか。「うんち」が好きでも。
確かな理由など分からないけれども、私たち人類は本能的に「うんち」を魅力的な物だと認識してしまうものなのです。
そうでなければ、いまだに下ネタが世界共通、老若男女に愛されているハズがないではありませんか。
ちなみに、よくある質問として挙げられる「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ問題」ですが、私はうんこを食べたことがないので、うんこ味と言われてもピンときませんし、もちろん、排せつ物を食べたい欲求を感じたことはまだありません。(まだ?)
みなさんは、どうですか?
ヒトコトリのコトノハ vol.77
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