☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
第二次大戦で我々が学んだことの一つは、いかなる正義の名目もそれが限界をこすと悪になるという
事実だった。それは正義の名のもとに落とされた原子爆弾や極東裁判の欺瞞性にもあらわれていた。
にもかかわらず多くの日本人は今日でも正義の主張が絶対的だと錯覚している、少なくとも
それが限界をこえれば悪になるものだとは考えていない。
『人間のなかのX』遠藤周作(1981)中央公論社より
ずっと正しいと思っていたことが、ある日突然そうではないと気づかされたことはありますか?
人は自分が慣れ親しんでいる慣習や価値観を否定されると、反射的に自分の中に反発を覚えるものです。
瞬時に新しい価値観や考えを受け入れることができる人はごくわずかですし、余程の思慮深さと寛容さを備えていなければ、自分の中の正義を抑制することは難しいのではないかと思われます。
私が小学校へ通っていた頃、筆記用具は必ず携帯することを徹底して言われていた記憶があります。
ですので、私は今でも外出する時は、自分のペンケースをカバンに入れて行きます。
音楽教室の仕事の時に、楽譜に書き込みをしたり、連絡事項をメモしたりするのに必要だからです。
しかし、教室に来る生徒さんはほぼ全員、自分の筆記用具を持って来ません。
メモしなければいけない時には、私のペンや鉛筆を使うのです。
子どもの頃、私が筆記用具を持っていないと、「勉強しに来ているのに、筆記用具を持っていないのは不謹慎だ」とか、「他人のペンを使うのは恥ずかしいことだ」とよく怒られたのを覚えています。
(もしかしたら、こんな体験をしたのは私だけだったのかもしれません…)
いずれにしろ、筆記用具を持ち歩くのは常識だと、周りの大人たちは言っていました。なので、私は自分のペンや鉛筆を他人が使うことに対して、少なからず抵抗があります。
コロナ禍では、接触によって感染が拡大するという理由で、物の貸し借りが少なくなったとはいえ、だいぶ収束してきた今では、感染に対する意識が薄れ、再び他人の持ち物に触れることをためらわなくなっているようです。
昔よりも今、あまり筆記用具の携帯について厳しく言われなくなっているのは、いくつか理由がありそうです。
1つに、携帯電話やスマートフォンなどのメモアプリが開発されたことがあげられます。
2つに、生徒が学校に持っていく筆記用具の種類やデザインが昔に比べて豊富になり、半ばオモチャとも思えるような物まであること。
これによって、勉強の場にふさわしくないとか、持っていない子が欲しがって困るなどの苦情が寄せられたとのことです。
そして3つには、タブレット端末などの電子機器を使った授業が採用され、かつてのように「ノートと鉛筆」が必須ではなくなったということが考えられます。
科学技術が発達し、「字を書くこと」に対する新しい考え方が生まれてきたこと自体は悪くないことだと思います。
しかし、だからといって、それまで続いていた従来のやり方が淘汰されなければいけない理由にはならないと思うのです。
新しいものが正義なのならば、その正義はいずれ来るさらに新しいものに取って代わられるということなのです。
人の数だけ正義は存在します。社会が多様性を叫ぶということは、正義も多様化するということです。
それらのうち、どれが絶対的に正しいか決めることはできるでしょうか?
時代の流れと共に、いずれは正しいと主張できなくなってしまうことが分かっているのに、その正義を振りかざす意味はあるのでしょうか?
自分のうちにある正義を蔑ろにする必要はないと思います。
ただ、それを声に出すことには慎重になるべきではないでしょうか。
私は筆記用具を持って来ない生徒たちを叱ったりはしません。
彼らが無造作に私の鉛筆や消しゴムやペンを使うのを、黙って見ているだけです。
(内心では、なんともいえない嫌悪にまみれながら。)
それは、ペンケースを持ち歩くことが正義なのではないと分かっているからです。
私はペンケースを持ち歩く人間ではあるけれど、それが絶対的な正義ではないと理解しています。
だから、他人の筆記用具を平気で使う人を心の中では残念だと思っても、実際には使用禁止にしたり、自分のペンケースを持ってないことを注意したりはしないのです。
「たかが筆記用具をで…」と、ケチな人間だと思われたくないだけかもしれませんがね!
(今回は、例として筆記用具をあげましたが、他人が使っても許せる自分の持ち物についての考えも個人差がありそうです。例えば、スマートフォン、ハンドタオル、メイクアイテムとか。みなさんはどうですか?)
ヒトコトリのコトノハ vol.81
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
第二次大戦で我々が学んだことの一つは、いかなる正義の名目もそれが限界をこすと悪になるという
事実だった。それは正義の名のもとに落とされた原子爆弾や極東裁判の欺瞞性にもあらわれていた。
にもかかわらず多くの日本人は今日でも正義の主張が絶対的だと錯覚している、少なくとも
それが限界をこえれば悪になるものだとは考えていない。
『人間のなかのX』遠藤周作(1981)中央公論社より
ずっと正しいと思っていたことが、ある日突然そうではないと気づかされたことはありますか?
人は自分が慣れ親しんでいる慣習や価値観を否定されると、反射的に自分の中に反発を覚えるものです。
瞬時に新しい価値観や考えを受け入れることができる人はごくわずかですし、余程の思慮深さと寛容さを備えていなければ、自分の中の正義を抑制することは難しいのではないかと思われます。
私が小学校へ通っていた頃、筆記用具は必ず携帯することを徹底して言われていた記憶があります。
ですので、私は今でも外出する時は、自分のペンケースをカバンに入れて行きます。
音楽教室の仕事の時に、楽譜に書き込みをしたり、連絡事項をメモしたりするのに必要だからです。
しかし、教室に来る生徒さんはほぼ全員、自分の筆記用具を持って来ません。
メモしなければいけない時には、私のペンや鉛筆を使うのです。
子どもの頃、私が筆記用具を持っていないと、「勉強しに来ているのに、筆記用具を持っていないのは不謹慎だ」とか、「他人のペンを使うのは恥ずかしいことだ」とよく怒られたのを覚えています。
(もしかしたら、こんな体験をしたのは私だけだったのかもしれません…)
いずれにしろ、筆記用具を持ち歩くのは常識だと、周りの大人たちは言っていました。なので、私は自分のペンや鉛筆を他人が使うことに対して、少なからず抵抗があります。
コロナ禍では、接触によって感染が拡大するという理由で、物の貸し借りが少なくなったとはいえ、だいぶ収束してきた今では、感染に対する意識が薄れ、再び他人の持ち物に触れることをためらわなくなっているようです。
昔よりも今、あまり筆記用具の携帯について厳しく言われなくなっているのは、いくつか理由がありそうです。
1つに、携帯電話やスマートフォンなどのメモアプリが開発されたことがあげられます。
2つに、生徒が学校に持っていく筆記用具の種類やデザインが昔に比べて豊富になり、半ばオモチャとも思えるような物まであること。
これによって、勉強の場にふさわしくないとか、持っていない子が欲しがって困るなどの苦情が寄せられたとのことです。
そして3つには、タブレット端末などの電子機器を使った授業が採用され、かつてのように「ノートと鉛筆」が必須ではなくなったということが考えられます。
科学技術が発達し、「字を書くこと」に対する新しい考え方が生まれてきたこと自体は悪くないことだと思います。
しかし、だからといって、それまで続いていた従来のやり方が淘汰されなければいけない理由にはならないと思うのです。
新しいものが正義なのならば、その正義はいずれ来るさらに新しいものに取って代わられるということなのです。
人の数だけ正義は存在します。社会が多様性を叫ぶということは、正義も多様化するということです。
それらのうち、どれが絶対的に正しいか決めることはできるでしょうか?
時代の流れと共に、いずれは正しいと主張できなくなってしまうことが分かっているのに、その正義を振りかざす意味はあるのでしょうか?
自分のうちにある正義を蔑ろにする必要はないと思います。
ただ、それを声に出すことには慎重になるべきではないでしょうか。
私は筆記用具を持って来ない生徒たちを叱ったりはしません。
彼らが無造作に私の鉛筆や消しゴムやペンを使うのを、黙って見ているだけです。
(内心では、なんともいえない嫌悪にまみれながら。)
それは、ペンケースを持ち歩くことが正義なのではないと分かっているからです。
私はペンケースを持ち歩く人間ではあるけれど、それが絶対的な正義ではないと理解しています。
だから、他人の筆記用具を平気で使う人を心の中では残念だと思っても、実際には使用禁止にしたり、自分のペンケースを持ってないことを注意したりはしないのです。
「たかが筆記用具をで…」と、ケチな人間だと思われたくないだけかもしれませんがね!
(今回は、例として筆記用具をあげましたが、他人が使っても許せる自分の持ち物についての考えも個人差がありそうです。例えば、スマートフォン、ハンドタオル、メイクアイテムとか。みなさんはどうですか?)
ヒトコトリのコトノハ vol.81
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