アクアコンパス3 続編

アクアコンパス3が容量一杯になったので、こちらで続きを開始します。

働くとは、何か 10

2025-01-26 15:54:05 | 社会

 

 

これから2回に分けて、6冊の本から「働く立場」の異変と問題の端緒を掴みます。


「イーロン・ショック」笹本裕著、文芸春秋、2024年刊。
 著者は元Twitterジャパンの社長で、自身が首を切られるまでの実録。
私は前半しか読んでいませんが、彼は経営者の立場から、これをビジネスの新潮流と見做しているようです。

 テスラのイーロン・マスクが、自分の流儀(検閲破棄)で、いとも簡単に大量の従業員の首を切っているのは周知の事です。
彼は、産業界の寵児であり、超富豪に加えて、世界の政治を牽引することになる。
皆さんは、不安より期待の方が大きいでしょうか?
私は、「働く人」、ひいては社会経済の劣化に拍車が掛かると見ています。

 

「JR冥界ドキュメント 国鉄解体の現場・田町電車区運転士の一日」村山良三著、梨の木舎、2024年刊。
 著者は元国労に所属した国鉄運転士で、国鉄解体時、自身が受けた壮絶な国鉄と動労側からの嫌がらせを活写している。
人はなぜここまで正義をかざして残酷になれるものかと悲しくなる。

 

「国鉄処分 JRの内幕」鎌田慧著、講談社文庫、1989年刊。
 著者は労働問題を主に扱うフリーのジャーナリストで、広く国鉄沿線を足で尋ね、親身になって人々の悲哀と歴史を追っている。

 国鉄数十万の労働者と廃止の憂き目に遭うローカル線に暮らす人々の無念さがよく分かる。
著者は、長期にわたる政府、与党議員、国鉄の身勝手さが、最後に国民と弱者に尻拭いさせる暴挙になったと怒り心頭です。
残念ながら、労組の悪態には触れず、国鉄腐敗の結果を語るに過ぎない。

 


「国鉄に何を学ぶか 巨大組織腐敗の法則」屋山太郎著、文藝春秋、1987刊、
 著者は時事通信社の記者で、国鉄民営化では土光臨調に参画し活躍した人物です。
桜井よしこのシンクタンクの理事に就任しており、保守系と思われる。
彼は当然、民営化必然と見ているが、本の前段に興味深い既述がある。

 国鉄の崩壊の理由に、無能な経営者、社内の権力闘争、労働組合の堕落、監督官庁の無責任を挙げる。しかし膨大な赤字を生んだ最大の理由は、全国に張り巡らした新線建設の巨大な利権であり、群がった与党議員(主に田中角栄)だとする。
そのことが詳細に暴露されているが、これはいまだに止まない日本の公共投資の悪事です。


「国鉄を売った官僚たち」大野 光基著、善本社、1986年刊、
 著者は1970年、国鉄が初めて展開した生産性向上運動の旗手だった。
これは直ぐに大きな勢いを得たが、告発により組合潰しとみなされ、2年後に国鉄は陳謝し、すべてを撤回することになった。
著者は、生産性向上運動の必要性と成功の過程、さらには身内(上層部)から梯子を外された恨みを記している。

 私自身、民間で生産性向上に関わったので、彼の悔しさが理解出来る半面、彼の「働く人」と労働組合攻撃への無神経さが悔やまれる。
無節操な生産性向上への信仰にも似た組織風土は、日本の「働く立場」の劣化を如実に物語っている。
私自身、今頃になって現役時代の生産性向上の後味の悪さが、やはり異常な行為だったと気付かさせられた、遅きに失するが。

以上5冊の本から、見えて来たものは何か?

1.「働く人」にとってより悲惨な状況が、しかも国民が望む形で訪れるだろう。
新自由主義がさらに進み、経済格差は一段と高みに至るだろう。

2.国鉄民営化は、利用する国民にとって有益だったが、それは大きな膿出しと同時に「働く人」の犠牲を伴い、組合の弱体化が全国的に広がることになった。

 そこには私達が知るべき事実が多々あり、今後明らかにして行きます。
日本政府の腐敗の構造、中枢の人々の利権が国鉄に巨大な赤字を背負わせ、最後に、国民がつけを払わさせられ、これが繰り返されている。
国鉄労組が、なぜ堕落し、スケープゴートにされたのか。そこには日本の遅れた権利意識と労働組合法があり、さらに当時、国際的な逆風が吹き始めていた。

これは次回、語ることになります。

次回は1冊のベストセラーから、問題点を読み解きます。

 

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働くとは、何か 9

2025-01-23 07:46:01 | 社会

 

なぜ「働く」を問題にするのか?

 

 現在、日増しに「働く人」の状況は悪化しており、今年から、さらに酷くなるはずです。

これだけ文明が進んでいるのに、なぜ大多数の人が心豊かに暮らせないのか。

大きな潮流が災いしているとはいえ、「働く人」自身が「働く」意味を見失ってしまった事が大きい。

困ったことに、これがさらに経済の悪化を招いている。

 

私は定年後、1週間に一度の仕事と、趣味で充実した日々を送っています。

だが定年前は、まったく異なった。

勤めていた会社の社風もあり、私は完全な仕事中毒で、理不尽な扱いや、過酷さに鬱鬱としながらも、技術者として頑張っていました。

周囲では、一部には出世や金儲けに高揚感を味わい猛進する人はいたが、多くの人は不満を持ちながら、組織に溶け込み、平穏に過ぎるのを祈りながら、なんとか楽しみを見出そうとしているように思えた。

 

私達は、戦後の廃墟からの復興期を経て、やがて高度経済成長、そしてバブル崩壊を経験した。

この頃は、まだ経済復活の可能性を信じられたように思う。

しかし、ブラック企業の横行と非正規雇用(低賃金と首切り放題)が定着すると、幾ら政府が復活のアドバルーンを揚げても、あらゆる指標が日本の長期衰退を示すようになった。

現在、私の周辺や幾つかの公共体の内情に接すると、「人々はこの沈没船に誰よりも長く乗ろうと必死だが、誰も沈没を止めようとはしない」ように見える。

 

「何かが違う」との思いが強くなるばかりです。

 

 私は海外に行く機会に恵まれ、幾度もカルチャーショックを受けて来ましたが、北欧を2回訪れて得た体験は別格でした。

1984年の訪問では、彼らの振る舞いや人生観、日々の暮らし振りが日本とまったく異なる事に驚いた。34年後の2018年では、発展を遂げ、豊かさを享受しながらも人生をゆったりと愉しむ生活スタイルが変わっていなかった。

 

 

 

 それに比べ、相変わらずの長時間労働、機械に使われる事が当たり前の生産現場、家族より組織優先、そして定年になると抜け殻のようになる。

日々精進し、目標と他人との競争に打ち勝ち、それが出来なければ落ちこぼれに甘んじる企業戦士。

組織と協調しない人、自由な人、のんびりしている人には不安と嫌悪さえ覚える会社人間。

それが大方の日本人像でしょう。

 

 そんな日本人が、一丸となって世界第二位の経済大国に押し上げたのは過去の話になった。

今は、数年毎に他国に追い抜かれて行く。

15年の間に、円安で旅行費用が約2倍になり、インフレで賃金が低下し、日本の凋落を実感しているのは私だけではないだろう。

 

一度踏み止まって、振返って欲しい。

 

 働く事は、そんなに卑屈で窮屈で、自分を殺さなければならない事なのか?

働く人の努力が足らないから、会社が儲からず、賃金は抑えられて当然なのか?

人は、もっと自由に生き、愉しんで暮らしてはいけないのか?

 

実は、我々は狭い島国に生き、いつの間にか、押し付けられた観念に囚われてしまっているのです。

 

 

「日本だけが20年かけて実質賃金が10%下がっている」

 

「日本の企業は20年かけて利益を約3倍に増やしている」

 

話は単純です!

 

 現在、日本の実質賃金は低下し続けて景気は良くないが、企業利益は鰻登り。

かつて、賃金が上がりぱっなしで景気も良かった逆転の時代があった。

ここ半世紀、大企業や経営者は益々強くなる一方、個々の「働く立場」は益々弱くなっている。

「働く立場」が弱いのは自然ですが、現在のように「働く立場」の自覚を捨て、個々に分散してしまえば、救いようが無い。

本来、人が弱いわけではない。

 

しかし強くなれる。

 

 一つは、「働く人」の自己主張と共同です、歴史が証明済みです。

自己主張とは、単に労働条件向上だけではなく、どんな生き方を望み、拒否するかも含みます。

今一つは、共同は対立では無く、「働く立場」と「使う立場」が対等に知恵を出し合い、社会の向上を図ることが重要です。

この事は北欧で行われています。

 

二つ注意があります。

 

 今の悪化する「働く立場」は、賃金低下による需要低下で、経済の悪循環を招いています。

トランプとイーロン・マスクの登場は、米国だけでなく世界を巻き込み、「働く立場」を絶望的な状況に追い込むでしょう。

 

 

次回は、幾つかの本を取り上げ、問題点を拾い出します。

 

 

注1.トランプ政権誕生で、経済担当の筆頭イーロン・マスクによる大規模な規制緩和が行われ、労働環境を含む様々な人権軽視が始まるでしょう。これは米国共和党が目指す新自由主義の到達点になるかもしれない。

 

 

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働くとは、何か 8

2025-01-19 08:17:11 | 社会

 

 

今回は、明治から大戦までの日本の悲しい労働運動を見ます。

1.明治(1968~1912年、明治45年まで)

 以前から鉱山で、明治からは造船所や製糸場等で多くの労働争議が起きた。
明治17年、活版印刷工が日本発の労働組合を作ろうとし、6年後には一度成功したが、まもなく解散にいたった。
その後も、様々な工場で組合の組織化は起こるが、失敗が続いた。
27年日清戦争の頃には資本主義の基盤がようやく確立し、労働者団結の気運がにわかに高まった。

 明治30年、労働組合期成会の結成によって、組合運動が本格化し、多くの進歩的な学者、経営者、政治家、宗教家の支援を集めた。
これは米国に出稼ぎに行っていた数十人の日本人の呼びかけが契機となった。
彼らは米国で弾圧に立ち向かう鉄道・鉱山労働者や、イギリス・ドイツ労働者の組合運動を見聞きしていた。
期成会は労働者保護法の工場法実現を目指した。
当時の工場労働者の大半は繊維産業に従事し、その大部分を占めた女工は低賃金、劣悪な労働条件下にあり、生糸工場の労働時間は毎日18時間にも達した。
政府は婦女子保護の工場法制定を目指したが、紡績業を中心とする産業界が強く反対し、ついに実らなかった。
この工場法は、やっと大正5年から実施されたが、まだまだ不完全なものだった。
期成会会員の9割は鉄工だったので、まづ東京中心に砲兵工場、ドック会社、鉄道、紡績場等の鉄工組合が結成され、その後、驚くべき勢いで発展していった。

 日鉄矯正会は、火夫、機関士等の約1千人で組織され、ストライキを通じて、当時民営だった日本鉄道会社に「組合員以外とは一緒に働けない」との待遇改善を呑ませ、日本では珍しいクローズド・ショップ制(注1)を確立した。
活版工組合は、資本家と協議し12時間だった「労働時間を1日10時間とし、30分間の休憩時間を取る」を勝ちとった。

 続いて横浜で家具職、神戸で清国労働者、東京で馬車鉄道の車掌、洋服職工、靴工、船大工職などあらゆる分野で組合が作られた。
上記の西洋家具指物職同盟会は、「雇用者が無資格の職工を雇用する場合、組合員はその職に従事しない」と規定し、労働条件を確保した。

 これら組合運動は欧米では当然で、いずれも労働者の地位向上、生活改善や保護法の制定、普通選挙制度の実施要求にすぎず、決して国家を脅かすものではなかった。
しかし、明治33年の治安警察法制定によって組合運動は壊滅させられた。
この反動で労働運動は、大衆の運動から一部の急進革命家の直接行動に変化し、やがて明治43年の大逆事件(注2)によって崩壊してしまう。

 

 

2.大正(1912~1926年、大正15年まで)

 大正元年、15人の同志によって友愛会が創設され、大正時代の労働組合運動が辛うじて再建された。
友愛会はその綱領に、相愛扶助、技術進歩、地位向上などを掲げ、きわめて労使協調的であった。
第一次世界大戦によって増加しながらも、まだ地位の低かった賃金労働者は、友愛会の運動を大歓迎した。
しかし、当初は穏健だった友愛会は、戦中・戦後の数度の恐慌による物価高騰や賃下げ、米騒動、吉野作造の「民本主義」、ロシア革命などの影響を受けて、労資協調路線を捨て、階級闘争をスローガンにするるようになった。
また大正9年には、日本で初めてメーデーと銘打った屋外集会が開かれた。

 一方、政府は普通選挙実施との交換で治安維持法を施行し弾圧を強化したので、全体として組合運動は現実主義へと向かったが、急進派との分裂は深まった。
友愛会から名を変えた日本労働総同盟は日本で最有力であったが、大正14年には分裂し、さらに左派は地下運動的な急進主義に向かい、右派は労資協調主義へと向かった。
これは、さらなる分裂を引き起こし労働組合運動陣営を分解させてしまった。

 

 

3.昭和から第二次世界大戦後まで(1926~1945年)

 昭和に入ると賃金労働者がより増加し、組合運動は発展したように見えたが、左派と右派の相互不信は解消されず、分裂は固定的なものとなった。
左派の組合運動は、昭和3、4年の共産党員等の大規模な検挙事件によって著しく弱体化した。

 一方、大正末期から昭和初期にかけての不況期における大企業を中心に、新しい、そして日本固有の労使関係の第一歩が踏み出された。
すなわち、それ以前の、転職の激しい高賃金の熟練職人工に代わって、若年の学校卒業生を採用し、中途採用を排し、企業内で技能養成をおこない、一定期間の後、技能優秀・身体強健等の若者だけを本雇いするようになった。
採用後は、従業員が定年退職まで転職しないような労務政策がとられたので、勤務年数の長さが賃金や地位を主に規定し、終身雇用と年功賃金が定着することになった。

 当初、労働者側は欧米のように産業や企業を横断する労働組合を望んだが、組合運動の拡大を嫌悪する政府と産業界の頑強な圧力に屈服し、諦めざるを得なかった。
この圧力は生活協同組合にも及んだ。
これにより労働市場は個々の企業内に制限され、広がる事が出来ず、一方で労働者は、雇われ意識が強くなり、かつ企業内競争に明け暮れるようになった。
これが現在日本の「働く人」だけでなく、産業構造の新陳代謝にも悪影響を与えるようになった。

この手の欧米より周回遅れの障壁(生活協同組合の営業範囲や公労協のスト権剥奪等)は、現在にも通じる根深いものがある。
実は、労働組合法は大正14年に発案され、昭和6年に帝国議会に提案されたが廃案になっており、大戦後のGHQの指令があるまで待たなければならなかった。注3

 既に労働組合は強権の前に合法的存在を得るには戦争協力をうたう以外に道はなかったが、遂に満州事変を契機とするファシズムの台頭は、労働運動の存在を根こそぎ破壊することになる。
日中戦争開始に伴い、昭和15年、残った日本総同盟も含めて総ての労働組合は解散させられた。

この日本の労働運動の不完全燃焼と労働者権利の未発達は、以後も足枷となる。
次回に続きます。


参考文献 :日本労働組合物語(大河内一男、松尾洋 筑摩書房1965年8月)を要約し、補筆しました。

注1: 採用時に特定の労働組合に加入している労働者のみを雇用し、脱退などで組合員資格を失った労働者を解雇する協定です。
クローズド・ショップ制は、18世紀半ばのイギリスの産業革命を背景にヨーロッパ諸国でよく見られましたが、日本ではあまり見られません。これは、日本では企業内組合が多く、採用後に従業員が組合員になるためです。

注2: 1910年(明治43年)に発生した社会主義者や無政府主義者に対する思想弾圧事件です。ジャーナリストで思想家の幸徳秋水ら12名が処刑され、社会主義運動は一時的に弾圧されました。

注3:終戦後の1945年に帝国議会に提出された労働組合法が公布され、翌年施行されました。これにより、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が始めて保障されました。

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働くとは、何か 7

2025-01-15 05:32:18 | 社会

 

 

今回は、明治維新から第二次世界大戦までの日本の変化を見ます。

 

 

 1868年、明治維新は支配層の新旧後退に過ぎなかったが、植民地の悲惨さを知っていたことにより、列強の侵略に対して富国強兵と内乱を拡大させない事で一致し、後の革新を可能にした。
幕藩体制は経済の不適合から農民一揆が多発し、藩は膨大な財政赤字で身動きが取れなかった。
また武士による新旧交代劇は支配層の危機感を和らげた事も幸いし、スムーズに維新が成功した。

 幸いな事に、欧米の産業革命と市民革命の成果(技術、制度、法律)が既に有り、欧米各国は日本への影響力を得ようとして、競うように日本にそれらを与えようとした。
日本は、従来より大陸文化の修得に長けており、思想では西欧のキリスト教を否定し、儒教と天皇制を保持しながら、技術や産業の導入には割り切って積極的になることが出来た。
また日本人は、平和な江戸時代に高い識字率、後の工業化に必要な勤勉さと、時間を貴重と考える意識が育っていた。

 新政府は、旧幕府時代と維新戦争の軍事費の負債、元士族への恩給などの支払いで財政は火の車だった。
当初、有業人口の7割を占める農民の地租(地価の3%)が国家収入の86%を占めていた。
農民は地租を円通貨で納めなければならなかったが、これは江戸時代の収穫米の約4割に相当し、さらに小作料を払うと農民の収入は3割まで減り江戸時代よりも少なかった。注1
困窮に喘ぎ農民一揆がさらに拡大し、また元士族も不満を抱き反乱を起こした。
政府は、全国に徴兵制度を敷き、これらを制圧したが、農家から男子が招集され事で、農家の苦難は増した。

 政府は、明治元年から10年ぐらいで、矢継ぎ早に制度改革(県、郵便、新聞、鉄道)、さらに殖産興業を打ち出す。
殖産新興は軌道に乗り、明治15年頃からは国税収入の地租割合は初期の86%から64%に下がった。
1880年代には、急速に発展した製糸業は輸出の6割を占め、女工が過酷な労働を担った。注2
大戦前の1940年には農林業者2割、鉱工業者8割と産業構造は逆転した。

国民らの強い要望と運動により、1889年大日本帝国憲法発布、次いで帝国議会が開会された。

 

 

 しかし、一方で暗雲が立ち込め始めた。
琉球漂流民に端を発した1874年の台湾出兵は、海外派兵の先鞭となった。
これは征韓論で燻っていた士族の不満を逸らすることも目的だったが、琉球の日本帰属が国際的に認められ、清国や朝鮮との外交に弾みがついた。
これ以降、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て日本は外地に広大な植民地を得た。
これは軍事費の恒常的な増大を招き、国家予算の6~7割を占め、大戦まで増加の一途になった。
こうなると繫栄するのは軍需産業と紡績産業だけだった。
貧富の差が拡大する中で、農民は相次ぐ恐慌と冷害に遭い、経済発展の恩恵を受ける事無く、貧困に喘ぎ、子女を身売りするようにもなっていった。

 

「明治から現在までの日本の所得格差の推移」<社会実情データー図録>から
縦軸のジニ係数は数値の多い方が格差が大きく、赤枠は第二次世界大戦を示す。

 グラフは、明治から大戦前まで、格差が拡大していた事を示し、大戦前の格差は、現在、世界で最も格差が酷い南アフリカに近かったようだ。注3

 このことは農家出身の下級軍人が度々がクーデターを起こす背景になり、日本は軍事独裁に向かっていくことになる。
正にこの時、農民の救済を前面に出す満州開拓が脚光を浴び、軍部の拡大政策とが一致し、満州事変が勃発、引くに引けず日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだ。

政府は続く、戦時下体制を強化する為に、治安維持法の成立、情報統制と警察力による不平分子の検挙に力を注ぎ、ファシズムは完成し、破滅へと突き進んだ。

次回に続きます。


注1: 新政府は江戸時代と同等の税収を農民に課し、かつ高率の小作料収入を地主に保証したので、貧農は不況の度に土地を売り、寄生地主は増大していった。明治初頭の総耕作地に対する小作地の割合は約3割だったが、明治41年には自小作と小作を合わせた小農の数は農家総戸数の7割近くまでになった。こうして小作農民は農業だけでは生活できず、婦女子や二、三男を製糸・紡績業などに大量に出稼ぎに出さざるを得ず、折からの殖産興業を支える事になった。ある学者は、政治的に大きな力を持つことになったこの地主階級が日本をファシズムに向かわせる背景になったと説く。この地主制の解体は、大戦後のGHQまで待たなければならなかった。

注2: 日本の国家資本は、殖産興業等により膨大になり、明治30年で3割弱、明治40年には鉄道国有化も入れると5割を越えるまでになっていた。一方で、明治17年頃から官営の工場や鉱山が民間に払い下げられ、多くは財閥が取得することになった。維新当初から、政商(財閥)が政府と癒着し、巨大化していたが、さらに拍車を掛けることになった。

注3: ちなみに世界で最もジニ係数が高い国は南アフリカで0.63です。最も格差が少ないデンマークは0.23です。折れ線上の名前は、推計した学者名。

 

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働くとは、何か 6

2025-01-11 10:15:35 | 社会

 

 

前回、英国の変化を見ましたが、今回はヨーロッパを見ます。

19世紀、ヨーロッパには、英国の自由主義と民主主義の奔流に加えて、ナショナリズムの嵐が吹き荒れていました。
その切っ掛けは、フランス革命に端を発したナポレオンの帝国拡大戦争でした。
これは抵抗する周辺各国に団結力(ナショナリズム)と軍備をもたらし、ほぼ1世紀間、ヨーロッパでは軍事力による民族国家の統合と同盟結成で境界線の変更が続きました。

 

一方、フランス革命は失敗していたが、ヨーロッパ各国に市民革命の種を撒くことになりました。
残念ながら、19世紀のほとんどの革命は、各国の強力な軍隊によって短命に終わることになった。

英国発の産業革命による資本主義経済と工業化はヨーロッパに浸透し、遂に恐慌がヨーロッパ全体まで繰返し襲うようになりました。

こうした状況を受けて、ドイツで大きな思想潮流が誕生し、やがて世界を巻き込むことになりました。

当時の思想家は、神などの権威を否定し、個人や平等の重視に向かってはいたが、まだ人の意識や観念論から抜け出せていなかった。
一方、現実を注視する思想家は、新しく誕生した工場の賃金労働者を疎外された者と見做し、それは工業化による仕事の分業化、恐慌、悲惨な都市生活を強いられたからであり、元凶は資本家にあると考えた。
彼らは産業資本主義を打破し、平等社会を作るべしと唱え、社会主義を提唱していました。

英国では、実業家オウエンが早くも1817年に協同社会主義を唱え、私財を投げ打って労働者解放を目指した。
彼の試みは失敗したが、英国では啓蒙主義が根付いていた事とナポレオン戦争の被害が少なかった事が幸いし、漸進的な改革が進んだ。

マルクスは、このオウエンを空想社会主義者と揶揄し、人類史を経済発展史と見なし、現在は経済構造変化の過渡期にあり、これは矛盾を内包しているので労働者による革命が必然的に起きるとした。

 


彼の唯物史観に基づく著作は斬新で、労働者にとって正義と愛に満ち溢れ、遠大な人類発展史の中で、労働者が主体の世界が必ず来るとした。
これには宗教的な救いの響きがあった。
彼の「共産党宣言」が発表された1848年、市民と農民による初の民主主義革命を目指したフランスの2月革命が起こった(フランスの革命は幾度も繰り返されて成った)。
さらに1871年、マルクスも関わった史上初の労働者自治政府(パリ・コミューン)が誕生したが短命に終わった(フランスの革命は幾度も繰り返されて成った)。
この後、自由主義者に代わって社会主義者が革命の推進者となっていった。


だが共産主義思想には問題があった。
マルクスはユダヤ系豪商の家柄で迫害に遭い、改宗を余儀なくされており、彼はユダヤ人が虐げられた理由を私利追及の経済行為にあると考えていた。注意1.
おそらく、この事と平等を絶対視するあまり、資本からの利得・利子取得の否定、旺盛な創意工夫を生み出す私欲(財産の私有制)の敵視し、単純な原始共産社会を唱えることになった。
これは明らかに失敗の原因となった。
もう一つ、暴力革命容認に大きな落とし穴がある。
歴史的に明らかですが、共産主義革命に関わらず、武力による政権奪取は、ほとんどの場合、軍事力を独占する人々が国の支配することになります。
また急遽議会を設立しても、民主主義が育たない社会や腐敗した社会では、早晩、独裁が蔓延ることになる。

次回に続きます。


注意1: ユダヤ人迫害は、古代ローマ時代のユダヤ教とキリスト教の対立から始まり、キリスト教がローマ帝国の国教に指定された後は、一方的にユダヤ教が邪教として貶められ続けた事が最大の理由と考えらる。

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働くとは、何か 5

2025-01-07 07:13:22 | 社会

 

今回は、英国の産業革命が労働者にもたらした変化を見ます。

19世紀半ばに英国経済は絶頂期を迎えたが、労働者には光と影があった。

国富は増大し、便利な生活用品も増えていったので、農民と工場労働者の暮らし向きは良くなったはずです。
だが急激な都市人口の膨張は、粗末な住宅も災いし、都市は不衛生の極致に達していた。
また作業に腕力が不要になり企業は子女の労働を増やした事もあり、国民の平均寿命は低下した。
この背景に、英国経済を発展させて来た自由放任主義があり、企業家や住宅施行業者は規制が無い中、欲望のままに振る舞ったことが大きい。

もう一つ、以前まで無かった悲惨な状況が頻発するようになった。
19世紀半ばに初めて起きた恐慌が、それ以降10年毎に繰り返すようになった。
投機によるバブル崩壊は以前にも稀にあったが、恐慌はヨーロッパ全体を極端な不況に陥れた。
一言で言うと、恐慌は、過剰な生産と流通資金が一気に収縮することで企業と銀行が倒産し失業者が溢れ、経済活動がストップしてしまう事です。

これにやや遅れて、英国は帝国主義(インドやアフリカの植民地支配)に邁進し始めます。
これらの背景に、資本の集中と資本家の躍進、輸出入の拡大がありました。
産業革命は国を富ましたが、労働者にとって影の部分も多かった。

この中、英国の市民革命で定着した啓蒙主義(権威に反抗し人間性を尊重)が、再び燃え上がりました。
当時の議会勢力は、初期の貴族(大地主)に産業資本家が加わっていたが、工場労働者の意見はまだ反映されていなかった。
工場労働者は、改善の第一歩として普通選挙を訴え、暴力事件もあったが、平和的な運動で、これを実現した。
並行して、国や上流階級も労働者の為に様々な規制、貧困者の救済、公衆衛生の整備を進め始めた。

この時期に、もう一つの画期、労働組合の結成が紆余曲折を経て、社会に広がっていった。
労働者達が自ら様々な待遇改善を企業側に飲ませて行くことになった。
当初は、過激になったり、高級職人だけの職業別組合に留まったが、やがて地方に結成された様々な職業組合が、全国的に団結するようになった。
組合は、警察による排除、ストライキによる失業者への賃金援助、ストライキ潰しの御用組合などの障壁を乗り越え、全国的な団体交渉を行えるまでになった。
そしてストライキ権の確立、労働時間短縮などの労働条件向上や賃金アップを勝ち取っていった。
20世紀初め、遂に労働者を代表する政党を議会に送り、1923年には最初の労働党内閣を組閣するまでになった。

この英国の経済変化と労働者運動はヨーロッパに波及し、大きなうねりとなっていった。


次回に続きます。

 

 

 

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働くとは、何か 4

2025-01-03 18:43:23 | 社会

今回は、国民の働き方が大きく変化した様子を見ます。

 

18世紀後半に、英国の綿工業の隆盛から産業革命が始まりました。

 紡績機の動力に蒸気機関が使われ始め、人力に頼る必要が無くなり、様々な工夫発明が機械による大量生産を可能にしました。

生産増は物流の発展を促し、運河・鉄道の建設、蒸気機関車や蒸気船などの開発により交通網が発達した。

また、コークスの発明により大量生産が可能になった製鉄や相次いで発明された化学薬品が、産業と生活をより向上させて行きました。

英国の貿易額は世界の1/3を占めるまでになり、1820年、一人当たり実質GDPは主要56ヵ国でトップになり、日本の2.5倍になっていました。

 

なぜ英国で起きたのか?

 英国議会は、17世紀末に権利の章典で、議会の議決が王の権利を制限することに成功していた。

議会は、産業や商業の発展を促すことになる土地の私有や特許権などを相次いで定めた。

これらは富裕層に有利ではあったが、囲い込みによる農地の大規模化と農業改革、次いで産業革命へと向かう起爆剤となった。

この間に、農業の生産性が上がり、弾き出された人々は都市部に吸収され、工業やサービス業が興隆し、資本家の役割が増大した。

 

しかし百年もすると隆盛に陰りが見え、19世紀末には生産高で資源国の米国に抜かれた。

 一番大きな理由は、二世企業家らが新技術の採用や投資への意欲を失くした事でした。

また国内で増大した資金が米国等の海外投資に向かうようになったことも一因でした。

 

「濃い灰色の部分が『その他の国内資本』を示す」<ピケティ21世紀の資本論>より

赤枠が産業革命期、茶枠が二つの大戦期を示す。

産業革命期に年間所得に比べ農地の価値が急激に減少し、その他の国内資本(設備や資金か)が増えていった。

この国内資本は年平均4~5%の所得(利子など)をもたらすので、事故でも無い限り増え続ける。

二つの大戦期の破壊で激減し、復興によりまた拡大している。

 

 

「富裕層の上位から1%と10%の人々が所有する英国総ての富の割合を示す」

<ピケティ21世紀の資本論>より

産業革命以前から、大戦が始まる前まで、富裕層の富は増え続け、経済格差は広がり、1%の人が70%の富を所有するようになった。(初期の富裕者は大規模農地所有者か)

 

労働者に何が起きたのか?

 農業人口は減り、工業人口が増え、都市部に人口が集中するようになった。

産業技術や設備、金融資本が労働の種類と対価を左右するようになり、これらを所有する人々が新たな富裕層になり、経済格差が拡大した。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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働くとは、何か 3

2024-12-30 08:36:58 | 社会

 

今回は、日本人は古代から如何に働いて来たかを振り返ります。

 奈良時代、平城京の天皇が倭の国を津々浦々まで支配していた。列島の5百万人ほどの農民は、土地を与えられた見返りに、数百人の天皇と貴族の為に、身を粉にして働いた。農民は国と地方から二重に、税として収穫した稲や布、さらに労役と兵役を課せられた。自身の小さな田畑からの収穫だけでは自給出来ず、他でも働き、かつ税を払わなけらばならなかった。また洪水や旱魃が起これば、彼らは生きることが難しかった。税はほとんど猶予されなかったから、座して死ぬを待つか、逃げるしか道はなかった。

 

 平安時代になると私有が認められ、裕福な者が貧農の借金を方に田畑を取得、拡大させた。彼らはその土地を天皇家、摂関家、大寺社に寄進した形にし、それら最高位のお墨付きを背景に、国と地方に支払う税を減らし、農民を自由に酷使した。最高位の人々は、何もせずに潤うので、あるがままに任せた。こうして巨大な荘園が各地に広がっていき、農民はさらに喘ぐことになった。

 鎌倉幕府、室町幕府、応仁の乱へと天皇から将軍支配の時代に変わった。しかし頻発する戦乱により、農民は破壊と殺戮に苛まれた。農業技術が発展し、一部には灌漑も進んだが、収穫量が上がれば税が増えただけだった。発展し始めた商業からも税が徴収された。

 

 戦国時代になると人々に新しい動きが生まれた。国の権力層が混乱するに連れ、農民や地侍らによる自治が村から村同士、さらに小国へと広がった。これは惣一揆と呼ばれた。彼らは、皆で拠出した資金を使い、また全員の武力蜂起や農作放棄を盾に中央の公家や守護大名、大寺社に歎願や抗議を行い、要求をしばしば通す事に成功した。しかし戦国時代が終わる頃には、全国統一を図る覇者が彼らを粉砕した。

やがて平和が続く江戸時代になれば、庶民は楽になったのだろうか? 
 2400万人の農民は収穫の40%以上の年貢と労役が課せられ土地に縛られた。年貢は豊臣時代の石高2/3よりは減っていた。この年貢は180万の武士が消費し、飢饉時の放出以外ほとんど農民への見返りはなかった。しかも武士は一握りの将軍や大名の生活を支える役目に過ぎなかった。

 結局、江戸時代が終わる迄の1200年近く、日本の民は0.01%ほどの支配者(将軍と大名)に労働の5~7割を税として貢、ほとんど還元されない生活を続けていた。
皆さんは、この状況と今との違いが分かりますか?

 一方、江戸時代の半ばまでに、英国では貴族が国王の権力乱用を制限し、やや遅れてフランスでは市民革命をが起き、国王を断罪した。英仏米の市民は自由獲得に動き始めていた。

次回に続きます。

 

 

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働くとは、何か 2

2024-12-28 07:35:29 | 社会
今回は、世界の「働く姿」を見ます。


 アフリカ、カラハリ砂漠に暮らす先住民の男性は、時に動物を追って数日間の狩りの旅に出ることがあった。女性は採集が中心で、村の周辺で植物を採集したり、木の棒で根茎を掘り起こしたりした。しかし、現代人のように四六時中働きはしない。彼らは日長、談話を楽しんでいる。


 コンゴのジャングルに暮らすピグミー族のような狩猟民族において、多くの場合、獲物は仲間に分配される。狩りの中心人物が良い部分を取ることにはなるが。これはチンパンジーの群れでも同じで、一丸となって樹上のサルを飼った後はボスが良い所を取り、残りは分ける。


 ニューギニア高地の先住民の多くは畑作を行っていた。それぞれの家族が畑を持ち、作物づくりに精を出す。だが畑は彼らの私有地ではなく村の共有で、またその広さに差は無い。


 上記、先住民の暮らしぶりは、ジャングルや砂漠の僻地で、文明化される百年以上前に見られた。これら生活は、おそらく狩猟生活で数十万年前から、農耕生活は1万年前から継続していたでしょう。そこには必要な物を得る手段が労働であり、かなり平等と協働が維持されていた。そして、それ以外の時間は、のんびり暮らしていたと考えられる。






 紀元前5世紀頃、労働について明確なメッセージを遺した人物がいました。彼は仏教の創始者釈迦で、当時、王侯やバラモンが支配するインドの階級社会を否定し、人々に救いをもたらす宗教改革を目指した。彼は引き連れている弟子の集団に多くの戒律を定めたが、その中で労働を禁じている。この意図を私なりに解釈すると、人が労働による報酬(物資)を求めるあまり、強欲になってしまうことを諫めたかったからでしょう。釈迦は弟子に乞食(物を乞う)を勧めた。これを現代に照らしてみれば、金銭的な豊かさを求めるあまり、家族や自分の暮らしを犠牲にする愚を諫めているように取れる。






翻って日本人の働き方はどうだろうか? 豊かになったのだろうか?
 かつて日本人は働きバチと海外から揶揄されたことがあった。それは、1960年代の高度経済成長を担った世代、帰還兵と団塊の世代でした。それにも関わらず各国と比べると、現在も先進国の中で、最も長時間働き、その割に所得が低い国に列している。昔も今も、変わらない。


次回に続きます。








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働くとは、何か 1.

2024-12-24 11:09:24 | 社会

これから「人が働く」ことについて、様々側面から考察したいと思います。

 

切っ掛けは1冊の本でした。

それは2024年刊の、元国鉄職員が書いた村山良三著「JR冥界ドキュメント」でした。

そこには国鉄の民営・分社化の過程で起きた、凄惨な虐めが書かれていた。

読んでいて国鉄当局への憤りを感じ、元組合員労働者の悲哀を知った。

しかし、そこには改革の必然性と身勝手な組合活動には触れられていなかった。

 

 

一方、私は定年退職から15年以上が経つが、従業員200名ほどの経営姿勢が真逆の二つの金属加工メーカーに技術者として働いた。

それとは別に、国定公園と地方自治体の教育課、実業高校の一部門に関わった。

私は二つの民間会社と三つの公的機関を通じて「働く現場」をつぶさに見て来た。

 

また日本の高度経済成長と、その頂点からまさに衰退せんとする今を体験している。

それで居ても立っても居られず、北欧、中国、カナダ、米国を見て来た。

そこには日本と掛け離れた人生観と社会観があり、私は日本の孤立化と停滞感を強く意識するようになった。

さらにワールドクルーズに参加したことで、その想いはより強くなった。

 

様々な問題が日本と世界を覆っているように思えるが、一つの切り口は「人が働く」ことを見直すことだと思う。

これから「働くこと」「国民の大半を占める労働者」「労働者の立場」について、

労働に纏わる事を日本と世界の社会・経済・歴史、また私の経験を通じて見て行きます。

 

私は、多くの先進国における労働者の現状の立場に違和感を覚えています。

確かに地球規模の経済発展を受けて、私達の生活水準は向上し、暮らし向きは良くなっている。

しかし、多くの国で右翼化・独裁化が進行し、トランプ現象を生み出したように社会の分断化が進んでいる。

これらの背景の一つに、労働問題があるように思える。

 

おそらく、この状況を放置しておくと、経済と社会はいずれ取返しのつかない状況に陥るだろう。

今は、おぼろげにしか見えないが、糸口が見つかるような気もする。

なぜなら、今の状況はかつて社会と経済の潮流が反転し始めたからです。

その反転は、それほど古くはなく半世紀ほど前に起こったからだ。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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