最近自分自身の面白い部分に気づきました。
一言でいうと
ねじれている。
自分は、ひねくれているという印象は
振り返るまでもなく
常々感じていました。
今回は
ねじれが原因で
ねじれた方向に願いが叶っているのかもしれないと思ったのです。
そう思った
現象がこれです。
ものをいい加減に適当に置いてしまう
ちゃんとしていない自分
と長年思い続けていた。
しかし
この記事に書いたように
探していたものが
普段いる部屋の本棚の
いつも座っている場所からよく見える位置に
わざわざその書類だけ飛び出していれてあったという事実。
記憶には全く残っていなかったけど
その書類を本棚に入れた私は
あとですぐに探せるように
一番目立つ場所を選び
わざわざ目立つように
置いておいた!
ふだんの口癖にしていた
ものをいい加減に後先考えず適当に置いてしまう自分
とは真逆の自分なんですよね。
ちゃんとしている自分が存在している。
しかも
最近気づいたのだけど
書類などの持ち物をちゃんと整理できる自分って
目標というか理想の姿なんですよね。
ということは
自分の中にもうすでに
理想の姿が存在している!
ということになるんですよね。
つまり
ちゃんとしている自分は実際にいるのです。
ところが
普段ここには全く目が向いておらず
常々
ちゃんとした自分になりたい
と思い続けてきた。
ある意味願いが叶ったと言ってもいい状況であるにも関わらずに
その状況に全く気づかずに
ひたすら「ちゃんとした自分になりたい」と願い続けている私
なぜ
こんなややこしい状況になっているのか?
すごいねじれがあり
願いもねじれて叶っているように思うのですが
先程ねじれの方向で書き始めたところ
自分の頭の中が
混乱しまくったので
今日はそちらの方向は一旦ストップです。
そしたら
新たな願いが出てきますよね。
ちゃんとした自分として行動している真っ最中の自分自身を感じてみたい
なぜ記憶が残っていないのか不明なのだけど
そうやって動いている自分がいるのは確かなんですよね。
だって
これと似た事例も結構起きているのだから。
ずっとどこかに置きっぱなしになっていた
重要書類などが
いよいよ使うという際になって
そこから消えているということは結構あるんですよね。
多分
ちゃんとした自分が出てきて
ちゃんとした場所に置くんですよね。
ところが
その自分と
今の自分とが
連携がとれていないので
その場所自体が
分からなくて
大騒ぎをする事態になってしまう
というストーリーになっているような気がします。
自分同士でうまく連携をとってくれるといいのだけどね
さっきも書いたけど
ちゃんとしたイメージの自分として行動する感覚を味わってみたいなあ
書類とか片付けとかする際には
ちゃんとしている自分になったつもりのイメージで動いてみよう。
案外
呼び水みたいになって
本当に出てきてくれるかもしれない。
最近は
こうやって書くと
大体
こういうのを試す機会を与えられるので
楽しみです。