【東学農民戦争】
「日本は朝鮮を軍事的に侵略したことはない」と主張する人がいます。
でもこれは誤り。
日本軍は日清戦争の緒戦、数万人規模の朝鮮人を殺害しています。
以下、長くなりますがお付き合いください。
【東学農民戦争】
1894~1895年にかけて朝鮮で起こった農民の組織的武力蜂起。これまで日本では東学農民戦争も含めて、日清戦争開戦は以下のように説明されてきた。
①1894年春、朝鮮で政府の専制政治反対して広範な武装農民が蜂起。これが第1次東学農民戦争。
②清国は、属邦朝鮮を東学農民軍から保護することを名目として朝鮮に出兵。
③第2次伊藤内閣は清国の出兵に対抗して朝鮮に派兵。
④日本は英国と条約改正を行い、日清間の戦争に対して英国干渉しないことを確認。
⑤日本は清国に対する圧力を強め、同年7月末両国が衝突。
⑥8月日本は清国に宣戦布告し、日清開戦。
実際には、日本で歴史から葬り去られた第2次東学農民戦争が存在し、日清開戦に直接かかわっていた。実際には何があったのか。⑤以下が異なってくる。
⑤日本は清国と戦争を始めるために大義名分を必要としていた。
⑥日本は、朝鮮から「清国兵を駆逐して欲しい」と要請されることを大義名分としたかった。
⑦日本政府は、その要請を軍事的・強制的に作り出すことに決定。
⑧7月23日、日本軍は朝鮮王宮を占拠。ソウル城内の軍事拠点を制圧し、朝鮮軍を武装解除。朝鮮政府・軍は日本軍の支配下に置かれた。
⑨8月20日、日朝暫定合同条款を結び、7月23日の日本軍の行動を両国で秘密扱いとした。
⑩8月26日、日本政府は日朝が協同して対清国戦争を行うための条約、「大日本大朝鮮盟約」を強制的に締結
⑪⑩に先立つ7月29日、日清が衝突。日清戦争開戦。
ここで問題なのは、朝鮮王宮・ソウル城内を武力制圧することで、日清開戦の大義名分を得るきっかけを無理やり作り出したこと。日清戦争における日本軍の最初の戦闘は清国軍ではなく朝鮮に対して行われたのだ。この軍事行動については、当時の日本軍をはじめ日朝の正規の記録・歴史からは削除されている。これが明らかになれば、日清開戦の大義名分が成り立たなくなるからである。
朝鮮王宮への武力攻撃は、朝鮮国民に激しい怒りをもたらし、一時動きを止めていた東学農民軍も抗日のために再び決起。第2次東学農民戦争が勃発。
⑫日本軍は歩兵4000名を出動させ、東学農民軍の鎮圧に向け行動を開始。
⑬日本軍に対して大本営が出した命令は「悉く殲滅せよ」。
⑭東学農民軍の装備は、竹やり・クワ・火縄銃、程度で、戦闘の練度も低かった。
⑮日本軍は、最新式のライフル銃を装備し、練度も高かった。
⑯装備・練度の違いから、日本軍は圧倒的に有利。
⑰大本営の命令通り日本軍は「殲滅」作戦を遂行。
⑱東学農民軍は全羅道の南西部に追い詰められ殲滅された。捕虜は全員殺害。拷問後火あぶりにされた例もあった。
⑲1895年1月24日、全羅同(当時)北端の大芚山で東学農民軍最後の戦いがあり農民軍は全滅。第2次東学農民戦争が終結。
⑳東学農民軍の死傷者は30~40万人
㉑そのうち死者は3~5万名。調査が進めば10万人に達するとの見方もある。
㉒日本軍の戦死者はわずかに1名、他病死者36名。この戦死者1名については、東学農民軍掃討作戦を公にしないために、清国との戦いで戦死したことに記録がねつ造されている。
文字通り一方的な「殲滅」作戦だった。作戦のむごさから、将校2名が作戦終了後に自殺している。日清戦争の戦死者については、日本人:2万人、清国人:3万人とされている。朝鮮人(東学農民軍)の戦死者3~5万人(10万人)を合わせて考えると、日清戦争で最も多くの戦死者を出した国は、日本でも清国でもなく朝鮮だったことがわかる。
正規軍同士の戦闘ではなかったが、多く見積もれば10万人に達する死傷者をだしたことは、朝鮮の民衆の心に大きな傷を残したに違いない。少し時期がずれるが1864年の朝鮮の人口は680万人。死者を最多の10万人とした場合は、人口の1.47%が日本軍によって殺されたことになる。例えば日本の人口を1億人として1.47%を当てはめれば、147万人が殺されたことになる。第二次世界大戦の日本軍の戦死者に匹敵する数である。
東学農民戦争殲滅作戦は、現代に生きる我々には責任は無い。しかし決して忘れるべきではない。事実を正しく見ることが、日韓両国の関係を改善することにつながると考える。
李氏朝鮮は、その為の謀略工作を周到に進めたから皇室に潜り込む事が出来、更に朝鮮に莫大な投資を呼び込む事が出来た。