天野健太郎句集 その2

2019年11月07日 13時56分32秒 | 日記

天野健太郎句集を出版する方法を考えています。

製本での出版は、自費出版では意味が無い。この句集はメジャーにしなければいけない。
天野健太郎句集を出版してもらえる出版社をどうさがせばいいのか、さがす方法も分からない。


今日のTwitterに
・・【募集】47歳で早世した翻訳家天野健太郎の残した句集を出版して貰える出版社の方連絡をください


と書き込んだけれど、ネットの時代、さて。


突然ですが、私、以下略は、5,6年前から、本作りが趣味です。
最初は、真ん中をホッチキスで止める小冊子。
そのあと、とじたくんというおもちゃをネットで買い、のり付け製本をやってみたけれど、上手くいかない。
端をホッチキスで留めそれを製本テープでかくす方法も、本らしくない。

手芸用のホットガンを買って、それで斬り面にのり付けし、表紙がみでくるむ。
方法論としてこのやり方が一番でした。

ホットガン方法を広げて、現在、それなりに素人っぽさが残るけれど一応自己満足っぽい製本が出来るようになりました。


本文と遊び紙、レーザープリンタで作製、200ページ・・



表紙と本文・・



20冊分・・



一冊ずつのり付け。ホットガンで糊を貼り付けるのは企業秘密? なんてね。

製本後三面をカット・・



20冊出来上り・・



実はここまでは自己満足で済みなんですが、
ただ、この作り方で、この出来上りで、本として売れる物かどうか。
それが問題なんですよね



天野健太郎句集

2019年11月06日 15時59分19秒 | 日記

天野健太郎の一周忌が間近です。
その間際に、やっと天野健太郎句集全体がまとまりました。そして電子書籍の西崎さん宛に送りました。
今、20年以上前にやめたたばこを吸いたい気分です。
今、一口も飲めないビールジョッキを飲み干したい気分です。
今、ばあさんがダメ出しをするからダメだろうけれど、分厚いステーキを食べたい気分です。

久しく休んでいたBlogに何かいっぱい書き込もうと思って、ページを開けたけれどね。
今は何も書き気になれない。句集の後書きを貼り付けておこう。


    天野健太郎句集あとがき

 私の親の代からの放任主義の子育てで、息子の健太郎は京都の大学を出て数年建設関係の会社に就職し、その時に貯めたお金で台湾に留学。その後東京に居を移し、中国語の通訳や翻訳をしているといった、大雑把なくくりでしか知らない。
 二〇一二年翻訳本「台湾海峡一九四九」を、二〇一四年「日本統治時代の台湾」を翻訳出版。この頃でも頑張ってるなと言う感覚しかなかった。しかし、二〇一五年「歩道橋の魔術師」のあたりから、健太郎とは違う、天野健太郎という別人を知ることになる。

 二〇一六年「台湾少女、洋裁に出会う」の出版によって天野健太郎を追いかけることになる。
 天野健太郎にとってそれは希望の未来の始まりだろうと思った。しかし、知らないところで健太郎を病魔がむしばみはじめていた。
 そして二〇一七年「13・67」本格推理小説の翻訳出版によって、新聞社や週刊誌が、「13・67」を紹介してくれていた。当然親ばかの両親は推理小説「13・67」を友人知人に買ってくれと触れ回った。

手術後一年を過ぎた二〇一八年八月、岡崎大花火大会の夜、健太郎が私に手渡したのは、句集を出すつもりの俳句原稿でした。第一句集は彼自身によるレイアウトまで出来ており、そして第二句集用の俳句でした。
第一句集は、
・・・この句集を九十ン歳の現役俳人うた子おばあさんに捧ぐ・・とある。そして、
・・・第二句集「俳句にならなかった風景は」を数年後刊行予定・・とも。

二〇一九年一月十三日に、野嶋剛さんを始め多くの方々のご尽力により東京で『天野健太郎を偲ぶ会』が開催されました。
その会で、川本三郎さんが講演してくださった。その中に、「天野健太郎さんの翻訳した文章が綺麗だ」というようなこと、「そんな文章を書く健太郎さんの俳句を見てみたい」と言われたことが、記憶の中にずっと残っている。
その『偲ぶ会』が終ったあと、会場で、ある方が「健太郎さんから句集の電子書籍出版を打診されているものです」と言って名刺を渡された。西崎憲さんとありました。
同じ時、俳句原稿を健太郎のお世話になった出版社の方に預けました。後日「関係者の多くは、俳句に関しては高い評価をしていた」という、うれしい手紙を頂きました。と同時に句集の出版の現状を教えていただき、自費出版をして出版社が販売を受け持つという話で金額を提示されました。残念ながら情けない親で「お願いします」という金銭的な余裕がなかった。
私は、十八才から二十五才までは俳句熱中少年でした。私の俳句経験はその八年間だけしかないし、句集作りは未経験。その上、健太郎の俳句の師匠は二〇一七年の三月脳梗塞で入院し現在もリハビリ中。さてどうしたものかと健太郎句集は手つかずのまま時間が過ぎました。
川本さんの言葉と、西崎さんの電子書籍と、出版社のYさんの手紙、このお三方の言葉をかみしめる毎日でした。

なんにしても健太郎句集をまとめなくてはならない。

 健太郎の祖父は村松一平といい、西三河では名の知れたホトトギス俳人で、その祖父と小学生のころの健太郎の話が残っている。
・・・小学生のころ、祖父に「俳句やれ」と言われて、多分「夏休み楽しいな」的な俳句を持っていったら、「つまらん」という顔で無視された記憶があり、幼心の傷のせいで三十年以上俳句には寄りつかなかった。・・
そしてこの句集の冒頭に、
・・・二〇〇九年に絶妙のタイミングで「俳句をやれ」と言ってくれた、伯父であり師匠でもある、五灰子先生に感謝。・・とある。
 こうして今はいない健太郎と俳句の話が出来るのも、健太郎に俳句を作れと勧めてくれた、兄村松五灰子のおかげと心から感謝している。

 その句集。
まずやることは健太郎の手で仕上げてあった第一句集と第二句集の原稿以後の俳句を第三句集にまとめることだ。しかし、健太郎がいない現在、三冊に分けて作るより、天野健太郎句集「風景と自由」として一冊にまとめることにした。けれど、第一と第二句集の原稿と、健太郎のTwitterの俳句と「茅花」の入選句を集めてみたら、三千を越える膨大な俳句の数に押しつぶされることとなる。
しかも健太郎は、自分の俳句を
・・・俳句は翻訳と似ている。何かを創造する(想像する)のではなく、ただそこにあるものを別の言葉に写し換える作業であるから。
・・・あくまで写生、無季語可、五七五はともかくリズム重視。ていうか風景を見せよ。・・無季語可などといろいろおっしゃってるし。
そして、
・・・俺は内面を吐露するような俳句が大嫌いなんだけど、最近多いね(しょうがない・・(二〇一七年十一月)
押しつぶされて中断し、また押し返しての繰り返しながらやっと句集がまとまった。

まずはこの句集を、電子書籍として西崎さんに出版をお願いしたい。そして難しいと分かっていても句集製本出版に持って行かなくてはならないと、思っている。
その句集は、健太郎の死の二十日ほどして、健太郎を追うように亡くなった、健太郎最愛の九十ン歳のおばあちゃんに見せなくてはならないから。

Twitterの中の俳句を集めるうちに、Twitterの健太郎のつぶやきに興味が湧いてきて、この句集とTwitter本の二つ平行して進めてきました。
天野健太郎Twitter本の内容は仮題「俳句と音楽と映画と食い物そして癌」そのまんまです。まとめた結果、七百五十ページに及ぶ厚さになってしまった。これから五百ページくらいに削っていくという、大仕事がまだ残っている。

   一周忌を前にして