人生四季折々

人生四季折々、人生の彩となる日々の出来事を美しく楽しく有意義に語り伝えることを無上の楽しみとして描いたい。

京都・ゆうゆう・いづみ路読本

2021-06-24 13:26:42 | 観光ガイド

 

 

1.観光客の皆様に、京都の自然・歴史・文化を楽しんで頂ける 細かな心配り。
例えば、印象的な写真、大きめの文字、判りやすい地図、レイアウト。
嵩張らず、持ち歩きに便利な、バッグにも収まりやすい『新書判サイズ(11cm×21cm)』にまとめました。

2.若者から年配者まで、思うまま「悠々自適」に楽しんで頂けるように、色々な 選択ができる京都ならではの観光コースをご提案。
例えば、
■歴史探索コース:時間(半日・1 日・2 日)×内容(初級・中級・上級)
■食文化コース:銘茶・和食・洋食・日本の酒どころなど

3.リピーターの拡大に繋がる工夫。
例えば、アンケート募集とその分析と公表(季刊誌『生涯青春』に掲載)。

◆目的:古来から【いづみ路】と呼ばれる木津川流域に展開する歴史遺産と文化遺産の価値を 広めることを通じて、地域振興に貢献します。
◆内容:皆様が、ゆったり・ゆっくり・思うまま「悠々自適」に 京都を「観る・味わう・学ぶ」ガイドブック。
歴史ある神社仏閣・名所旧跡、石仏、石造美術品など、お茶や食事そして文化を ゆうゆうとお楽み頂けるよう編集しています。


京都ゆうゆう歴史街道いづみ路読本 笠置山寺

2018-12-19 14:28:01 | 観光ガイド

笠置寺(かさぎでら)は、京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。 山号は鹿鷺山(しかさぎさん)。

本尊は弥勒仏。開基は大友皇子または天武天皇と伝える。

歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。

また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。

笠置寺は京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする。

笠置は奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる地であり、地理的にも歴史的にも南都(奈良)との関わりが深い。

また、平城京の宮殿や寺院などの建築用材は木津川の上流から舟で運ばれたとされており、笠置は水陸交通の要地であった。

笠置寺は磨崖仏(自然の岩壁に直接彫り刻んだ仏像)の巨大な弥勒仏を本尊とする寺で、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。

笠置山は、標高は300メートルに満たないが、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地であったと推定されている。

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日本では太古から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えないカミの宿る場所とされていた。

笠置山はこうした巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、次第に仏教寺院としての形を整えていったものと推定されている。

 

 

 


歴史街道いづみ路-大智寺

2018-12-17 15:08:36 | 観光ガイド

歴史街道いづみ路-大智寺 木津川泉大橋のそばに建つ大智寺は、鎌倉時代かつて行基の架けたといわれる泉橋の橋柱をもって文殊菩薩像を刻み、西大寺慈真和尚を開基として橋柱寺と称する一寺を建立されました。

 其の後、寛文9年(1669)、本寂和尚によって再興し、寺名を橋柱山大智寺と改められました。当寺を一名橋柱寺と呼ぶのはこうした由来によります。 本堂、表門、鐘楼、庫裡、書院からなる当寺は、再興に際して東福門院和子{後水尾天皇(法皇)の皇后}により費用が下賜された由来深き寺院です。 建物は京の大工による質の高いもので、これだけの伽藍は当時の建物としては眞に珍しい存在とされています。 本尊 文殊菩薩(重要文化財)

寺伝によると、天平13年(741)行基菩薩が木津川に橋を架けられたが其の後洪水の為、橋が流れ、正應元年(1288)再び橋を架けようとしたところが川の中に半分残った橋柱の一本が時々光を放つので不思議がられていました。 当時、この付近に住んでいた橘次郎大夫守安という大和国西大寺の僧、慈真和尚に不思議な橋柱の話をしました。  それを聞いた慈真和尚はその橋柱に文殊菩薩像を刻むことを勧めました。そこで守安は、仏師の安阿彌にこの像を彫刻させお堂をつくり安置しました。  智恵の文殊菩薩は渡海文殊の一種で、獅子の上の蓮華座に座し、きれいな彩色が施されています。 所在地:〒619-0214 木津川市木津雲村42-1 拝観時間:9 ~ 17時(要予約) 拝観料:300円  TEL:0774-72-2500


幻の都【恭仁京】

2018-12-14 21:26:14 | 観光ガイド

今からおよそ1300年前、木津川右岸 瓶原みかのはら(木津川市加茂町)に 「恭仁宮」くにのみやが造られ、わが国の首都となりました。

往時の数々の遺構はロマンに溢れ、歴史の中心舞台であったことがしのばれます。

まだ謎のベールに包まれた、幻の都【恭仁京】にスポットをあて、様々な情報をこのページからお届けしていきたいと思っています。どうぞお楽しみに!

天平12年(740)10月、聖武天皇は平城京を離れ、伊賀、伊勢、美濃、近江などを行幸して、同年12月、恭仁宮(現、木津川市加茂町)に入り遷都を宣言しました。

その後、天平16年(744)2月に難波宮への遷都が行われ、翌天平17年(745)5月には再び平城の地へ都が戻りました。
恭仁京の都としての期間は足掛け5年と短いものでしたが、その間、天平13年(741)には国分寺・国分尼寺建立の詔、天平15年(743)には大仏造立の詔、墾田永年私財法の発布があり、歴史上極めて重要な時期であったといえます。

昭和32年(1957)7月に国の史跡に指定され、平成19年(2007)2月には史跡名称が「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」となり宮跡全体が守られています

現在は、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、恭仁宮跡周辺では晩夏から秋にかけて、蕎麦の花、彼岸花、コスモスが見頃となります。