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香港議会、選挙改革案を否決

AFP=時事 6月18日(木)14時4分配信

【AFP=時事】(一部更新)香港(Hong Kong)の立法会(議会)は18日、中国政府が支持する香港行政長官選挙の制度改革案を否決した。

中国寄りの議員は多くが退席し、賛成票を投じたのはわずか8人だった。反対票を投じたのは、
民主派議員27人全員を含む28人。
改革案の可決には、定数70強の議会の3分の2以上の賛成を得る必要があった。

 同改革案は、2017年の次期行政長官選挙で香港市民に1人1票の直接選挙を認めているものの、立候補については中国政府寄りの「指名委員会」が承認する候補者以外は認めない内容で、野党議員や民主派の活動家らは「偽の民主主義だ」などと反発。
市内では大規模な抗議行動が起きていた。
【翻訳編集】 AFPBB News

私心

香港は中国の一部で長く英国が統治下の元、資本主義であった。
そして下記の通り英国から中国に1997年に返還されたが、その後50年間は資本主義・・・・・。

中国本土は共産党の独裁国家、一方香港は資本主義での統治で、一国二制度となっています。

本土の共産党国家は早く統一したいのでしょうが、長く資本主義の制度で生きてきた香港人は簡単に共産党の独裁になじまないですね。

この先香港は?

その前に中国本土で共産党一党支配体制が続いているとも限らないですね。

参考に香港の歴史


1841年
イギリス海軍上陸

アヘン戦争(1840~42年)中、イギリスの香港島に対する統治が始まる。この頃の人口は7450人ぐらいだと いわれている。


1842年南京条約

アヘン戦争の講和条約である南京条約第三条により、清国が香港島をイギリスに割譲して香港は正式に大英帝国の支配下となる。1843年の批准書交換でイギリスは香港の領有を宣言する。


1860年九龍もイギリスの統治下へ

アロー号事件(1865年)によるアロー戦争がきっかけで、イギリスは北京条約によって九龍半島の先端も完全に割譲地とする。


1898年植民地香港の完成

イギリスと中国は租借条約を調印し、1898年7月1日より香港島、九龍、新界の99年間租借を行う。


1941年 香港の日本軍への降伏

太平洋戦争(1941~45)が始まり、香港も直接戦争に巻きこまれる。その後3年8ケ月間、日本の軍政が施行され、日本軍の将官が総督に就任する。


1946年香港、民政に戻る

1945年の日本の降伏で、香港は再びイギリスの統治下となる。


1962年香港への難民流入

中国当局の規制を無視した不法越境者が中国本土から香港に殺到。香港の人口はふくれあがり、香港騒動が起こるまでになる。その後も不法入境者は後を絶たず、文化大革命(60年代後半~70年代初め)の時期などにも大量の流入があった。


1970年代国際金融都市としての発展期

1970年に入って次第に暴動もなくなり、貿易の発展などにより香港経済はめざましく発展をとげる。


1984年イギリスと中国が共同宣言に正式調印

1997年6月30日をもって、香港はイギリスから中国へ返還されることが明確化される。


1997年中国へ返還

1997年7月1日より中華人民共和国香港特別行政区となり、一国二制度のもとで50年間は資本主義体制をとるようになる。


写真を趣味に高齢者の戯言

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