アメリカに移住した家族の物語

2000年にアメリカ西海岸アーバイン市に移住しました。

東日本被災地ボランティア体験記

2011年07月19日 | インポート

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午後10時に大田区を出発したチャーターバスは夜通し北上し、仙台を越え、東松島に向かった。今回は50人乗りのバスに25人で乗るのだから充分に余裕のある座り方なのだが、うっすらとしか眠ることができずに朝5時頃になる。高速のサービスエリアで顔を洗い、持参した簡素な朝食をバスの中で食べる。これも現地の方を思うと、まったく充分すぎる待遇であると納得しながら、バスの中でつなぎに着替えると、はやる思いに無口になった。

バスは松島海岸ICで下車。社内は想像していた通り20代から30代の若い方が多いが、40代、50代と思われるシニア層の方や若い女性の方も重装備でバスに揺られている。日本三景の松島が見えてくる。どこにも震災の後がなく、美しくきれいな島影を横目に見ながら海岸線を走る。多くの人がTVで見た風景と現実がどれほど違うのか、それをしかと確かめるように黙って窓の外を見ているうちに、バスはサテライトと呼ばれる場所に到着する。サテライトとは、その地区に全国から集まるボランティアの指示統括を行なう場所だ。何が必要か、どこに行くか、休憩所やトイレなどもここにしかないので、すべてはこのサテライトが中継してボランティア活動が展開されるのだ。ボランティアは現地の人から食事や宿泊に世話にならないというのが原則だから、自然周到な準備が必要になる。だからスコップや箒、ネコと呼ばれる一輪車や水道などもすべてここに用意されている。ここで長靴に履き替え、準備運動をした。誰もが大きな深呼吸をして臨む姿が勇ましい。

ボランティアは5-6人のグループに分けられ、個別に指示された場所に移動する。私たちは線路脇の側溝のヘドロ掃除だ。海側から来た波は、仙石線の線路と共に電車をも飲み込んでいったのだ。線路はみごとに途中から無くなっていた。かわりに線路に敷き詰められていた大量の石とヘドロが側溝に溜まっている。これを取り除くのが午前中の私たちグループの仕事であった。スコップなんて持ったのは何年ぶりだ、と思いながら力いっぱいに入れるのだが、スコップが石に当たってちっとも中に入らない。炎天下の中、長袖で、マスクをしているから息が荒くなり皆が玉のような汗をかいている。日焼けクリームを持ってくればよかったと思いながらも、少しずつ希望の穴を空けていく。20分ごとに10分の休憩が用意されているのだが、皆やる気の塊で、一心腐乱にスコップと格闘している。と、2回目の休憩の合図。ここで30代の男性が動けなくなった。長い時間日陰で休ませ、冷やしたり、水を飲ませたりしたが、一向に動くことができず、病院へ運ぶことになった。熱中症だった。被災地には病院もあるにはあるのだが、ボランティアが掛かるためのものではなく、現地に迷惑が掛かってしまった格好だ。 それでも我々は仕事を続け、すこしづつ側溝の底が見えてくる。最初は自分の担当場所を自分だけで掘り起こしていたが、リーダーの指示で2-3人のチームを組んでやることにした。確かに仕事が速く進んだ。多くの目標をこなしていくためには、チームワークが必要であることをこんな所で学ぶとは思ってもみなかった。それにこの日は相当に暑かった。水は東京から自分の分は自分で持参しているのだが、皆が水を別け合ったり、持ってきた梅干や塩あめを譲り合ったりする。老いも若きも気持ちの良い仲間であった。

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 一通り側溝が終了したので早かったが午前中の仕事を切り上げてサテライトに戻った。ランチにはカツカレー弁当が支給された。特にお腹が空いてはいなかったが、午後からの炎天下の仕事で倒れてしまってはいけないという恐怖もあり、ゆっくりと完食した。

 午後からは場所を変え、家に入り込んだヘドロを出すという仕事が割り振られた。この辺りは約2メートルほどが津波に浸かった。家の中を水で洗い流すようなイメージだが、到底住めるような家に戻るとも思えない。聞くと、この家のおばあさんは独りで住んでいて、幸運にも津波からは逃げることができたが、避難所にいて自分の家がどうなったか見ていないとのことだった。この家は取り壊されることが決まっているが、自分の家を見たときに少しでもショックが少しでもやわらぐようにと、ボランティアセンターに掃除を頼んだということらしかった。なるほど、実にきめの細かい対応をしているのだと感じる。一見意味のないことのように思われるが、長年大切に住んできた家が奪われることには大きな落胆があるだろう。被害というのは同じ地区でも一様ではない。何が必要なのか、何が足りていないかを聞きながら、自分たちのできる範囲で進めていっているのだと感じた。もちろんこの現地のボランティアセンターで働いている若者たちも被災者だ。報道でもほとんど知らされない現地の現状には、衣食住だけではない支援も求められている。これをひとつひとつ解決していくことが大切なのだ。暑くて、長い1日を終えるボランティア皆の汗が光り、充実した笑顔が満ちていた。

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 3日目、少しずつだが仲間の特徴や名前を覚えるようになったが、ボランティアの世界は女性と若い方が多く、働き盛りの男性が少ないのは残念。本日は庭に入ったヘドロを取り除く作業。比較的新しい家だ。だが、新しいほうがある意味で悲惨だ。新しい家にはローンが残っているからだ。大規模な補修が行なわれても、全壊してもローンは残る。ここの家のお母さんは、「命だけは助かった。本当に助かる」と私たちをねぎらった。

 夏草と共に乾いたヘドロを取り除く。と、そこに地震が来る。何ヶ月も経っても余震が続いているようだ。すぐ側は海。小さな震度の地震でも津波の不安が押し寄せる。私たちは、本部の指示に従い作業を一旦中断し、サテライトに戻る。その後地区の消防隊の要請に従って高台に上がる。「震災後も小さな地震がいくつも来ている。その度に大波がこの場所を襲った光景が蘇るので、海をみたくない」と、一緒に高台に上がった地元の方が誰に話すともなく静かに言った。その後、津波の心配がなくなったところで現場に戻り、作業を再開。一通りヘドロを削って石膏を撒いて一連の作業を終了した。

 皆が様々な事情を持って、ボランティアをする。今回私が一緒だったのは、トラックの運転手、車部品の販売業者、学生、主婦、体操のインストラクター、看護士の卵など。3月11日に東北にいなくとも、関東周辺にいた人は少なからずその被害者だ。怪我はしなかったものの、何時間も歩いて帰ったり、その後の物資の不足や計画停電、節電に耐えた経験を持つ。自分たちの経験から被災地に何かをしたい。誰かを助けたいという小さな思いを行動に移したのだ。また、この近くを走る仙石線は津波で寸断され、アメリカからのTOMODACHI作戦で、電車や線路が片付けられたそうだ。

 被災地に何度も何度も足を運ぶベテランのボランティアも数多くいる。そうした中で、何を見つけたかったのか?と聞くと、“人と人とのつながり“と言った方が多くいた。被災地では多くの現場を見て、その現場の人たちと出会い、そこで一緒に汗を流して働くボランティアの仲間たちとの出会い。こういった出会いの喜びが彼等を突き動かしていくのかもしれない。だから、日本は大丈夫。これからも大丈夫。多くの方が一歩づつ再興をしていこうとしているその姿を、宮城県東松島でのボランティア体験で感じることができた。町の復興は、道でも建物でもなく、そこに住む人々の心の復興なのだ。(終)

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