普通ならこういう記事書かれたら文句言うと思うんですが、どうするんでしょうか。
黙っているなら、確かにJASRACだ金勘定以外は守備範囲外だとブレ無さ加減に多少は感心するかも知れません。侮蔑の感は変わりませんが。
■JASRACは「放送通信融合」の敵か味方か--菅原常任理事に聞く (CNET Japan)
12/28 23:00現在ファイルが壊れているのかマトモに読めないんですが(ウチのPCだけか?)、取り合えず全部読めなくてもいいように、今回は言いたい点を1点だけに絞らせてもらいます。
> “切り貼り”は創造にあらず
この一言に、作品の価値に対する見識の浅さが見えたので、そこだけ反論しておきます。
確かに「創造」という言葉の意味を問うなら「新しいものを生み出すこと」という意味もありますねぇと答えるしかないのですが、純粋な創造物だけが社会的に価値のある芸術作品であるかと言うと非常に問題があります。
「写真」というものの芸術性に疑問を投げる事になるからです。
写真は誰でも分かるように、被写体が居なければ何も写りません。その時点で現実の模倣です。
その現実とやらも、ジオラマだったりモデルだったりするなら色々権利もありますが、道端の草だったり山や雲だったり星だったり、ましてや街の落書きだったりすると、そんな権利すらありません。見ようと思えば誰でも見られるものを、ただ写したに過ぎません。事実この観点から写真の芸術性を否定する人もいます。
しかし、その場に立ち、その情景を見て、そのタイミングで絵に収めたのはその人のセンスであり、その人の前にそういう情景をくみ上げたのは小さな偶然の山なんです。だからこそ同じ写真は2度撮れないし、ときには実際の風景以上の情景を閉じ込める事ができるのです。
写真以外でも、書、書道なんかはこれに当てはまりますよね。字を模して書いているだけですけど、そこに乗る個性にこそ価値があるわけです。あれを単なる文字の模倣だとは誰も言わないでしょう。(笑)
恐らく「切り貼り」と呼んだのは音楽や映像のMAD作品の事を指していたのだと思いますが、そんなMAD作品にも写真や書と同じ事が言えると思います。
その人のセンスと偶然が無ければ、良いMAD作品は出てきません。ただの切り貼りじゃ誰も喜んだりしませんって。そもそも山のような素材のストックとそれを管理する記憶力が無ければ、切り貼りすることすら出来ません。そこに働く個性と努力と偶然は、写真や書道とも近いベクトルではないかと思っています。
模倣なくして創造なし、という意味もあります。それも真理ですが、それとは別の話として、写真のように一件模倣と思えるものであっても、模倣を超えた価値を持つこともあるということです。創造とは違う方向であっても、同じような価値を持つ模倣があるのです。
音楽は盗作という問題が昔から付きまとうため、切り貼りにナーバスなのかも知れません。しかしそれが私見であっても、切り貼り自体を低く見下す事には、作品の価値というものについて、立場に見合った見識が無いのではないかと疑問を感じざるを得ません。
写真なんかに価値は無いという人なのであれば仕方ないですが、違うのであれば早く分かって欲しいものです。
黙っているなら、確かにJASRACだ金勘定以外は守備範囲外だとブレ無さ加減に多少は感心するかも知れません。侮蔑の感は変わりませんが。
■JASRACは「放送通信融合」の敵か味方か--菅原常任理事に聞く (CNET Japan)
12/28 23:00現在ファイルが壊れているのかマトモに読めないんですが(ウチのPCだけか?)、取り合えず全部読めなくてもいいように、今回は言いたい点を1点だけに絞らせてもらいます。
> “切り貼り”は創造にあらず
この一言に、作品の価値に対する見識の浅さが見えたので、そこだけ反論しておきます。
確かに「創造」という言葉の意味を問うなら「新しいものを生み出すこと」という意味もありますねぇと答えるしかないのですが、純粋な創造物だけが社会的に価値のある芸術作品であるかと言うと非常に問題があります。
「写真」というものの芸術性に疑問を投げる事になるからです。
写真は誰でも分かるように、被写体が居なければ何も写りません。その時点で現実の模倣です。
その現実とやらも、ジオラマだったりモデルだったりするなら色々権利もありますが、道端の草だったり山や雲だったり星だったり、ましてや街の落書きだったりすると、そんな権利すらありません。見ようと思えば誰でも見られるものを、ただ写したに過ぎません。事実この観点から写真の芸術性を否定する人もいます。
しかし、その場に立ち、その情景を見て、そのタイミングで絵に収めたのはその人のセンスであり、その人の前にそういう情景をくみ上げたのは小さな偶然の山なんです。だからこそ同じ写真は2度撮れないし、ときには実際の風景以上の情景を閉じ込める事ができるのです。
写真以外でも、書、書道なんかはこれに当てはまりますよね。字を模して書いているだけですけど、そこに乗る個性にこそ価値があるわけです。あれを単なる文字の模倣だとは誰も言わないでしょう。(笑)
恐らく「切り貼り」と呼んだのは音楽や映像のMAD作品の事を指していたのだと思いますが、そんなMAD作品にも写真や書と同じ事が言えると思います。
その人のセンスと偶然が無ければ、良いMAD作品は出てきません。ただの切り貼りじゃ誰も喜んだりしませんって。そもそも山のような素材のストックとそれを管理する記憶力が無ければ、切り貼りすることすら出来ません。そこに働く個性と努力と偶然は、写真や書道とも近いベクトルではないかと思っています。
模倣なくして創造なし、という意味もあります。それも真理ですが、それとは別の話として、写真のように一件模倣と思えるものであっても、模倣を超えた価値を持つこともあるということです。創造とは違う方向であっても、同じような価値を持つ模倣があるのです。
音楽は盗作という問題が昔から付きまとうため、切り貼りにナーバスなのかも知れません。しかしそれが私見であっても、切り貼り自体を低く見下す事には、作品の価値というものについて、立場に見合った見識が無いのではないかと疑問を感じざるを得ません。
写真なんかに価値は無いという人なのであれば仕方ないですが、違うのであれば早く分かって欲しいものです。