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熊本から気ままに山と自転車のブログ

法泉寺六地蔵・引ノ花六地蔵・網田焼窯跡

法泉寺六地蔵・引ノ花六地蔵・網田焼窯跡
2022/3/27(日) 晴

今日の最高気温予想21°天候は晴。今日は大相撲が面白そうだから16~17の帰宅予定で、目的地を宇土市法泉寺の六地蔵、網田引の花の六地蔵として10時前からポタリングに出る。

熊鹿ロードを南に走り井芹川沿いを下り、熊本西大橋で白川を渡り平木橋で緑川を渡り、走潟で六地蔵を探索する。が、情報が乏しく訪ね当てることが出来ず、西岡神宮を目印に法泉寺(写真1参照)に移動する。


法泉寺山門右側に鎮座する六地蔵(写真2・3参照)は幢身がなく、中台・龕部・笠・宝珠が存在している。


法泉寺六地蔵を後にして近世宇土城跡公園の桜花を観て、網田に移動して網田川に沿って遡る。網田川には菜の花、土手には桜花(写真6参照)が咲いている。


引の花の六地蔵(写真7・8参照)は、川沿いの道を詰めてY字に分岐する道の中央に鎮座する。
台石には、石粉を取るための穿った穴がある。幢身には、「平成十五年八月吉日 改修引ノ花地区」の文字がある。龕部・笠・宝珠は元来のものようである。


龕部(写真9参照)の仏像には、光背があり立派である。


六地蔵から道を右に少し行くと「宇土市網田焼の里資料館」(写真10参照)がある。宇土市指定有形文化財「中園邸」である。が、今日は寄らない。


更に道なりに行き左に曲がると熊本県指定史跡の「網田焼窯跡」(写真11参照)がある。


窯跡(写真12・13・14・15参照)。残っていた窯跡に保護のために上屋を架設したものと考えたが、一部復元したものか、復元したものか、私に判断できない。


説明盤(写真16参照)には、「網田焼は、細川藩の御用窯として寛政4年(1792)、長尾利藤太が肥前の陶工山道喜左衛門を招いて長尾窯を開いたことに始まる。以後、藩の援助のもとに多いときは窯数8基を数えた。
高浜焼が色絵を主としたのに対し、網田焼は藍の染めつけであった。茶器が中心であったが、文政5年(1822)藩誤用が解かれてからは雑器を焼くようになった。明治維新後は有田焼に押され、最後まで残った長尾窯も明治45年(1912)に廃窯した。
窯跡は山の斜面を利用した登窯で8基あるが、損壊が著しいため窯の構造や規模については不明な点が多い。長尾窯は最初2連房の平窯であったのが、幕末には5連房の登窯のなったことが調査の結果確認されている。」とある。現在時刻14時前帰途に就く。


16時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。ウクライナに平和が訪れますように!
熊本(自宅)44km→網田焼窯跡37km →熊本(自宅)
所要時間6時間(実5時間) 総計81km 走行累計47,014km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:のぶさんへ コメント、情報有難うございます。
引ノ花六地蔵の幢身は改修ですね、訂正しました。
法泉寺入口の地蔵尊は六体ですか、気づきませんでした。市街地開発に因り存在場所がなくなり、止む無くここに持ってこられたと思って観ました。
走潟、円応寺の情報有難うございます。そのうち再訪したいと思います。自転車くま
のぶ
宇土市の六地蔵探訪、お疲れ様です。
引の花の六地蔵の幢身は、削られ過ぎて細くなってしまい、倒壊の危険性が高まったため新たに作り直されたそうです。
法泉寺には、他にも入口の所にお地蔵さん六体の六地蔵があったと思います。
走潟の六地蔵は栗丸肥料店と出光石油の間の駐車場横にありますよ。
そらから、宇土市の市街地の船場の近くの円応寺には地蔵祭りの起源となった木造6体型の六地蔵が並んでいたと記憶してます。
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