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熊本から気ままに山と自転車のブログ

立石遺跡群発掘現場・(伝)郡界標立石

立石遺跡群発掘現場・(伝)郡界標立石
2022/1/14(金) 晴

今日も、最高気温予想8°と寒いが、気温が上がった13時過ぎからポタリングに出る。
目的地は、熊本市北区改寄町立石の(伝)郡界標立石とする。

立石集落は、郡界標立石があった事が地名の由来と云う。その「立石」の所在が知りたいとWeb検索したところ、ヒットした熊本県教育委員会の「熊本県文化財調査報告335集立石遺跡群」61・62頁の図を頼りに探訪した。尚、図中では「建石」となっている。

現場に到着すると、「立石」入り口に市第3次調査区の範疇と思うが、古代遺跡の発掘調査現場(写真1・2・3参照)が露出している。


土塁跡かとも思ったが、あまりに奇麗過ぎるので現代の開田事業の水管埋設部分(写真4参照)ではないかと推測する。


字「南の割」の農道から見た、先の図中の「現存する堀」の南方向風景(写真5参照)。
図中では、この堀の東側が合志郡、西側が山本郡、南にT字形に堀がありその南側が飽田郡とある。「立石」は、この写真の右奥に見える。


同じく、字「南の割」の農道から見た「現存する堀」の北方向風景(写真6参照)。
遺跡調査のための掘削土砂搬出の道が通されている。北方向の堀跡は、現在の道を越えて北に延びている。


現存する「立石」(写真7参照)は、後に建てられたものと云う。


平成の合併前の北部町教育委員会の説明板(写真8参照)には、「伝郡界標・立石
この碑について①貞観元年(859)合志郡から山本郡を独立させた時、その由来を刻んで合志・山本・飽田の郡界を示す表示石を建てたが天文の中ごろ安藤道覚という大力者が西合志の上生に持って行ってしまい立石の地名だけ残り、この碑が建てられた。②ここは大宰府から肥後国へ通ずる古代の官道で、高道駅跡であるという説がある。」とある。
立石の地名由来が三郡境界に石を建てた事によると云うことは知っていたが、中世の始まりとも云える平安時代中期の時代にあって、伊倉の中分線と同じように、施政権の及ぶ土地境界の明示が争いを防ぐ大事な要件だったと推理する。
今日は、ここ一か所の探訪で帰途に就く。


15時過ぎ帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)12km→(伝)郡界標立石12km→熊本(自宅)
所要時間2時間(実2時間) 総計24km 走行累計45,143km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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