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熊本から気ままに山と自転車のブログ

黒石原飛行場奉安殿跡・花房飛行場跡

黒石原飛行場奉安殿跡・花房飛行場跡
2022/8/23(火) 晴/曇

今日の最高気温33°湿度70~60%「危険な暑さ」の予報だが、体調次第でリタイヤするつもりで午前11時前から片道20km圏のポタリングに出る。
目的地は、まず「くまもと自転車紀行」「のぶ」さん情報の須屋の「千人墓」を見て、合志市の「黒石原(飛行場)奉安殿跡」、菊池市泗水町の「花房飛行場跡」とする。

千人塚を後にして、黒石原(飛行場)奉安殿跡(写真3参照)に移動する。
通りに背を向けた形で建っているので、今迄幾度も通っていたが気付いていなかった。


説明板(写真4参照)には、「奉安殿とは、天皇陛下や皇后様の御真影(写真)や教育勅語などを安置した施設です。奉安殿は、ギリシャ神殿風、洋風、神社風などがあり、荘厳重厚な様式で建てられるなか、ここの奉安殿は洋風の様式で大理石が貼られていました(写真右下)。
黒石原飛行場は、昭和十六(1941)年四月に現在の合志市豊岡に熊本地方航空機搭乗員養成所として開所されました。この時期に黒石原(飛行場)奉安殿は、創建されました。航空機搭乗員養成所とは、逓信省航空局が設置した民間航空機乗員(操縦士、機関士、通信士)を養成する施設で、全寮制で軍隊式の教育が行われました。ここ黒石原飛行場からは、終戦までの四年間で五百三十四人が巣立っていきました。昭和二十年三月から四月にかけては沖縄戦に出撃する特攻隊の中継基地として利用され、五月十三日には米軍機による空襲を受けました。この日の攻撃により、七名の犠牲者が出ています。そして七月からは、本土決戦に向けて特攻隊機十二機が常駐していましたが、八月十五日終戦を迎えました。
奉安殿は、昭和二十(1945)年の終戦後に、GHQの神道指令のため、多くの奉安殿が壊されました。しかし、黒石原(飛行場)奉安殿は解体を免れ、現在も原形、原位置に残る県内でも唯一のもので「近代遺跡」として貴重な文化財といえます。」とある。


黒石原(飛行場)奉安殿跡を後にして、熊本県農業公園の木陰で持参したサンドイッチで昼食とする。その後、公園大池側出口に近い所にある「熊本県シベリア抑留者慰霊碑」(写真5参照)を見る。以前に来たことがあるので、詳細は省略する。


熊本県シベリア抑留者慰霊碑を後にして、菊池市泗水町吉富の花房(菊池)飛行場跡(写真6・7参照)へ移動する。
ここも数度前を通っているが、この看板の墨書が新しいので自衛隊の施設と勘違いして通り過ぎていた。看板には「大刀洗陸軍飛行学校菊池教育隊」とあり、当時の名称を復元したものと思う。が、このブログないでは、給水塔説明板(下記)の「花房(菊池)飛行場跡」を使用する。


正門跡を入って、最初に着いた所が「菊池開拓五十周年記念碑」(写真8・9参照)。
記念碑主旨には、「昭和二十一年我等五十戸この地に入植し、困苦欠乏に耐え、平成八年五十周年を迎え半世紀のあゆみを発刊し入植者所有地に進出し、繁栄と発展の礎を築いた菊池農業高校及び企業十二社の協賛を得て、拓友と相計り永遠に苦難の歴史の証しとして後世に残さんと此の碑を建設する。」とある。


五十周年碑から東側に、菊池市指定文化財(歴史資料)の「花房飛行場跡給水塔」(写真10・11参照)が在る。
説明板には、「花房(菊池)飛行場は、鹿児島県知覧飛行場と同様、福岡県大刀洗陸軍の分散として昭和10年に計画され、昭和15年に完成しました。
陸軍飛行場(菊池教育隊)のほかに、通信教育隊や陸軍病院、気象観測所が併設されました。多くの航空部隊が駐屯して訓練を受け、大戦末期には沖縄への航空特攻隊の中継基地にもなりました。花房飛行場は昭和20年5月、アメリカ軍の空爆を受けて壊滅状態となり、通信教育隊生徒や飛行場勤務者、面会の家族など69名の犠牲を出した。
終戦後、奇跡的に被害を免れた高架給水塔は国立病院の給水施設として、また昭和21年2月から入植してきた開拓団の生活用水として利用され、付近数百戸の民家と工場の用水をまかない、平成19年の使用停止までの長い間、地域の生活を支え続け、復興に大きく貢献しました。
現在、この一帯は高架給水塔のほかガソリン貯蔵庫、油倉庫、格納庫基礎などが残り、当時をしのぶことができます。・・・」とある。


説明文にあるところの格納庫基礎(写真12参照)。


格納庫基礎を後にして、慰霊碑に移動する。その手前に伊勢神社(写真13・14参照)がある。
神社鎮座の経緯書が壁に貼ってある。そこには、「吾等氏子一同この地に永住の縁に恵まれてより三十余年、朝に夕に只管守護神の鎮座を願望してきた。今開拓農業協同組合の発展的解散により組合員の総意に基づき「宗教法人富の原伊勢神社」の設立認可申請中のところ過日神社本庁より認可証を受領するに至り、本日伊勢神宮分神の御遷座祭を斉行し守護神を祭祀する運びとなり、永年の願いがついに叶い喜ばしい次第である。・・・」とある。ここにも開拓者達の歴史がある。


直ぐ近くに「慰霊碑」(写真15・16参照)がある。
説明書には、「終戦後、富の原に入植した開拓者達において、少年飛行兵ら38名の霊を慰めるべく、昭和26年、慰霊塔を建立。昭和32年からは、小飛会・戦友会等と区民をあげて合同慰霊祭が行われている。昭和62年に、現在の自然石に立て替えられた。」とある。
今日ポタリングは、一週間遅れの終戦記念日的になり、77年前の古い事ではあるが忘れてはならないと重たい気持ちで帰途に就く。


16時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)26km→花房飛行場跡23km →熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計49km 走行累計50,373km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:のぶさんへ 情報、コメント有難うございます。
墓碑の正面から見て後ろ側が遥拝の対象と考えれば、そのようにも考えられますね。吾平山稜は、遙拝殿のみで神殿が無く塚が遥拝の対象になっています。一方、岱明町の扇崎千人塚のように古墳と思われる塚頂に墓石や石仏が建立されている所もよく見かけます。googleストリートビューで見ると、畑一面が高くなっているので削平されたか、塚以外の部分を盛土したかと考えればそのように考えられますね。あるいは、敷地有効利用のため墓石だけ移設したか、想像は膨らみます。自転車くま
のぶ
千人墓、早速、探訪されましたね。
記事の写真を見てふと思ったのですが、アパートの裏にある石碑は所謂、「墓碑」で、その背後の低く盛り上がった広い空き地の全体あるいは一部が所謂「千人塚」ではないのでしょうか?
考え過ぎ、ですかね?
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