2019/12/20(金) 晴
最高気温予想は13°とやや低めだが、青空なので気分よくポタリングに出る。
午後から所用のため午前9時に出発。
目的地は、玉東町横平山西南戦争戦跡とする。
県道31を北に走り、JR田原坂駅から左折して二俣台地に上がる。
九州自然歩道の標柱(写真1参照)に誘導されて横平山公園進入路まで自宅から1時間で来た。
蜜柑山のなかの道を上り公園に到着。
公園には、展望所(写真2参照)がある。
今日の目的は、ここ横平山(標高144m)から田原坂公園(標高105m)を、どの程度俯瞰できるか確認すること。
写真(写真3参照)左側の山肌が露出している手前の白い塔が、田原坂公園の西南戦争戦没者慰霊塔。
下側の横に延びる白い線が県道31号線。
写真(写真4参照)左側の鉄塔の、左方向の大きな施設が「リサイクルプラザ」と思うので、その左辺りが薩軍出張本営を置いていた七本柿の木台場と思う。
「明治十年田原坂・吉次・植木戦蹟図」(写真4参照)が掲示してある。
「明治十年(1877年)3月9日、官軍(明治政府軍)は田原坂・二俣を攻撃中、横平山の重要性を知り一個大隊を迂回させて前後より挟撃します。この日から連日横平山の争奪戦が繰り返されることになりました。
最大の決戦は3月15日。朝もやをついた薩摩軍の急襲に始まります。官軍兵士は全員退却。この急報を受けた野津大佐は警視抜刀隊の救援を命じて奪回を図ります。
駆けつけた上田、永田両警部の率いる警視抜刀隊が機を見て一斉に刀を振りかざして突入し、漸く横平山奪回に成功しました。
しかし被害甚大で警視抜刀隊は精鋭を殆ど失い、この戦闘で官軍の死傷者は合計224名になったといいます。」とある。
公園から北方向に直線的に300mほど下った所の湧水井戸(2019/9/4の写真参照)は、このところの好天のせいか、藻が生えている。
ここには、「二俣夜撃図」錦絵(写真5参照)が掲示してある。
「二俣台地の南正面に位置する横平山。これを官軍(明治政府軍)が占領すれば、七本・田原坂を突破することが容易となるため、この横平山を巡って一進一退の争奪戦が連日くりかえされました。
明治十年(1877年)3月9日、官軍は三つの薩軍陣地を奪取し、15日横平山を攻略。
その間、両軍兵士にとっての飲料水はこの湧水だけでした。
負傷兵はこの遊水地にたどりつき絶命し、この付近には両軍兵士の遺体が幾百とも数知れず横たわり、水は負傷兵の血で真っ赤にそまったといわれています。」とある。
未だ午前11時前だが所用の場所経由で帰宅する。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)15km→横平山28km→熊本(自宅)
所要時間4時間(実3.5時間) 総計43km 走行累計30,491km
西南戦争横平山戦跡(国指定史跡)
2019/9/4(水) 晴/雨気温32°予想の真夏日に、午前10時半からポタイングに出る。
ルートを結果から記すと、県道31→七本官軍墓地→木葉有栖川宮督戦の地、→木葉官軍本営跡→二俣台地→横平山戦跡→県道113→県道31と周回してきた。
横平山の北の越で、田原坂方面に下るか、横平山を縦走するか迷ったが、横平山を縦走することにする(写真19参照)。
薩軍兵站の地の説明板(写真20参照)がある湧水池についた。
官軍警視庁抜刀隊も、ここから横平山に登ったのか?
「官軍は・・・横平山奪回に成功しました。しかし被害甚大で警視抜刀隊は精鋭を殆ど失い、この戦闘で官軍の死傷者は合計224名になったといいます。」とある。
この夏は雨が多いので湧水池も水量が増えたかと思ったが、排水路を切ってあるため定量以上の水量はなかった(写真21参照)
説明板には「負傷兵はこの遊水地にたどりつき絶命し、この付近には両軍兵士の遺体が幾百とも数知れず横たわり、水は負傷兵の血で真っ赤に染まったといわれています」とある。その光景を想像すると、霊気漂うような気がする湧水池である。
前回探訪したときと反対方向の行程に少し迷ったが、九州自然歩道の標識(写真22参照)に少し安堵する。
みかん畑の中の農道を南方向に2km程自転車を押してひたすら歩き、県道113に出て夕刻の夕立を気にして帰路を急ぐ。
が、後5分で自宅という所で夕立となり、1時間ほどの雨宿りとなった。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)19m→七本官軍墓地・木葉官軍本営跡20km→熊本(自宅)
所要時間7時間(実5時間) 総計39km 走行累計29,466km
西南戦争横平山戦跡
2017/12/31(日) 晴
今日は大晦日、午前雨だったが午後から晴れた。
自転車なんぞ乗って・・・と非難の方もあるだろうとは想像できるが、年明け後の日程等を考慮すればこの時間しかないと玉東町横平山公園までポタリングに出る。
菱形八幡宮を後にして、県道113の上り坂の途中から北方向に逸れて蜜柑畑の中を行く。
行き先は横平山。折角稼いだ標高がもったいないと、農道に入るも途中で道がなくなる。
収穫が済んだ蜜柑山なので失礼して自転車を担いで上を目指す。
完全に道に迷ったところに救いの神の標識(写真1参照)があった。
環境省・熊本県に感謝です。
標識に誘導されて進むと忽然と展望台(写真2参照)が見えた。
そこに九州自然歩道横平山の戦跡(写真3参照)の掲示板がある。
公園内には官軍、薩軍両軍の将兵の慰霊碑(写真4参照)がある。
この碑の正面に、金属の慰霊碑建立の謂れ書(写真5参照)が埋め込まれている。
「明治十年、わが国に巨大な歴史のうねりが起きた。そのうねりは肥薩の天地に満ち、翔ぶが如く北上を開始した。
西郷隆盛麾下の薩軍将兵一万三千人が雪を蹴って鹿児島を雷発した2月15日」から、日本史上最大の内乱西南戦争の幕は切って落とされた。
一方、このうねりを阻止するため、南下する乃木希典十四連隊長麾下の政府軍と、ここ城北の地で衝突し、陸戦史上類のない激闘が展開された。
この横平山は、かって同胞であった両軍将兵たちが共に義に立ち、大地を血に染め泥にまみれて戦い、そして倒れた西南戦争最大の天王山で薩軍切り込み隊と、政府軍が選りすぐった抜刀隊の激闘は凄惨をきわめ、累々と屍が一山を覆いつくしたという。
歴史は遠くなりつつあるが、ここに両軍の将兵を偲んで鎮魂し、慰霊碑を建立するものである。・・・」とある。
横平山山頂からJR「田原坂」駅方向に下る途中に、薩軍兵站の地に湧水池(写真7参照)がある。
明治10年3月15日の戦闘では、水を求める負傷者の血で真っ赤に染まったという。
凄惨な現場を見たような重い気分と、平和な時代に生きられた有難さを思いながら帰路に就く。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)15km→玉東町横平山公園15km→熊本(自宅) 所要時間3時間(実2時間) 総計30km 走行累計22,904km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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