熊本から気ままに山と自転車のブログ

放牛石仏(地蔵)107体目・左之目神社

放牛石仏107体目・左之目神社
2020/10/19(月) 曇/晴
天候曇/晴、最高気温24°、所用を兼ねて午前10時半から市中心部を経由してポタリングに出る。
目的地を益城町左之目神社と放牛石仏107体目とする。

今日は、南方向へ国道266を南下し、嘉島町で国道から左折して浮島周辺水辺公園(写真1参照)に立ち寄る。


更に東に進み、高速道路を潜り国道443を横断し福田郵便局の前を通り、右折して坂道を上ると放牛石仏107体目(写真2参照)が鎮座する。


説明板(写真3参照)は、放牛石仏に纏わる詳細が記してある。
「谷川(たにごう)の放牛地蔵
江戸時代の僧、放牛が「十年間に100体の石仏を建立して、父の菩提を弔おう」と発願して、生涯107体を建立した最後の石仏です。地蔵には「南無阿弥陀仏・享保十七年」と刻してあり、台石は一部しか見えませんが、「一ぺんの称名のしたには八十億劫つみをめっす」という法歌が刻んであるといわれます。
この法歌が刻まれたのは、放牛が安養寺を訪れた時、すでに自分自身の寿命が長くないことを、悟っていたのではと思われます。その為、人は寿命が終わる時、称名「南無阿弥陀仏」を唱えることで、それまで犯してきた多くの罪が消えて、極楽浄土に往生できるという教えを、刻んだのではないかと思われます。
「皆乗寺旧記」の享保十八年の日記には「この年、引き続き、肥後は大飢饉にみまわれ、野の草を食べて暮らしていたという。皆乗寺御門徒の死亡者は、平年の三倍位で、この年、死亡者が特に多いのは、飢餓につきものの疫病の流行と餓死によるものであろう」と記録されています。民衆にとっては生きている地獄のような生活だったと思われます。そこで放牛は死後の世界では迷わず極楽浄土に往生できるように「迷い苦しむ衆生の身代わりになったり、救いの手を差し伸べてくれる」という地蔵菩薩を多く建立したと思われます。
放牛について、文献では「細川綱利(五代藩主)の頃、鍛冶屋町に貧しい鍛冶屋の親子が住んでいた。息子は評判の孝行息子といわれていた。貞享三(1686)年1月4日、父は不徳で武士を怒らせ、この武士に一刀のもと切り伏せられた。息子は父の非業の死を見て悲嘆にくれ、意を決して仏門に入り、名を放牛と改めた。三十年間の修行積んで享保七(1722)年より同十七年十月まで、藩内各地に107体の石仏を建立し、大願成就し同年十一月八日に没したとあり、墓は横手町四方池台にあります。」とある。


坂を更に上り、マミコゥロードに出る手前を右折すると、左之目神社の鳥居(写真4参照)がある。


扁額(写真5参照)は、地震により落下したのか右脇に置いてある。


社殿(写真6参照)は、左側が杉林になっている参道の奥にある。


説明板(写真7参照)には、「この神社について、「国郡一統志」の中に「八幡」とみられるので、戦国期から近世初めに完成されたものと思われる。
由来については、平家の大将悪平衛景清が九州に落ちのびて来て、追手の源氏より身を守るため、左目をくりぬき人相を変えたので、その左目を祀ったとか、またその左目をある時、麹屋の清次郎が発見して祀ったなどいくつかの伝説があり、生目の神として崇敬されている。
この伝説の由来の真偽は不明だが、付近に隣接していた安養寺の本尊である薬師如来の代身として祀られたのではないかと思われる。
現在の神社は、清次郎が建てたという小さなお堂の後に、寺中村の藤兵衛という大工を雇い、嘉永年間に拝殿を造営したものである。
一説に細川家ゆかりの「澄之助君」が木山の梅屋を訪れ家来に代参させたという事で評判になり、参拝の人々がますます増えたという。今での遠方からの参拝者がある。」とある。
麓の字名が「福原」というので鍛冶集団の祭神かと思って訪ねたが、「生目の神」とはあるがそのことには触れていない。山の中にポツンと鎮座するのは、里人が平野部に移住したためか、炭焼きの適地だったか、畑中川も近い。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)29km→左之目神社22km→熊本(自宅)
所要時間5時間(実4.5時間) 総計51km 走行累計35,794km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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