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熊本から気ままに山と自転車のブログ

ぼたもちさん・放牛石仏76体目

ぼたもちさん
2023/4/22(土) 晴

今日は最高気温予報25°夏日の晴天の一日、黄砂で四方の山は霞んでる中、午前10時からポタリングに出る。
目的地は、菊池市の山田日吉神社のフジの花として出かけた。

その途中、「ぼたもちさん」の前(写真8参照)を通る。久しぶりなので立ち寄ってみることにする。


敷地(写真9・10参照)にシランの花が咲いている。ここは柳川藩主立花宗茂の正室誾千代(ぎんちよ)の墓所である。墓石が牡丹餅の形に似ているということで「ぼたもちさん」というらしい。墓前に手を合わせて、失礼する。


追記(2023/7/1)
立花宗茂は、柳川城開城の後、加藤清正に預けられる身になり、高瀬に暫く生活していたが、慶長六年七月、徳川家に対し、御家再興を求め上方へのぼった。・・・宗茂が上方に滞留している間に、・・・慶長七年十月、宗茂の正室で戸次道雪の娘だった誾千代(ぎんちよ)が、三十五歳の若さで肥後国腹赤村で死去した。・・・ちなみに彼女は、天下分け目の戦のとき、東軍につくよう宗茂に強く訴えたといわれている。(参照:関ケ原敗者たちの復活戦:河合敦著)


放牛石仏76体目・ぼたもちさん
2020/3/11(水) 晴
今日の天候は晴れ、最高気温は13°、午前10時前ポタリングに出る。
探訪地は、熊本県指定史跡荒尾市岩本眼鏡橋賀庭寺古塔群、長洲町指定史跡放牛地蔵76体目、ぼたもちさん四か所と欲張った。

荒尾市岩本橋から廻るろうかと思い出かけたが、道が分かり易い長洲町の放牛石仏(写真1参照)を最初に探訪した。
場所は、国道501から海側へ左折して上沖州の名石神社の鳥居を背中に参道を真直ぐ行った突き当りの左角に鎮座なさる。


後背の上部が欠けているのか「(七十)六体」と「熊本他力放牛」(写真2参照)の文字が見える。
放牛石仏は熊本市近郊だけの所在と思っていたが、長洲町にあるとは驚いた。
長洲町の説明板が御堂右側にあるが、撮影を忘れて次に移動する。


国道501を渡り、腹赤小学校の前を通り東北方向へ進み、腹栄中学校の手前に「ぼたもちさん」の案内標識を見る。
予定外の所在に、喜んで左折する。
Web上の写真で見た「きのこの山」のような墓石に、形式にとらわれない昔の人の感性に感心する。
後日、平川淀姫神社で「ぼたもちさん」を逆さまにした形の鳥居礎石を見た。近くに寄って戒名を見る(写真4参照)。墓石の大きさ高さは、「流石は大名の墓碑」と思う。
墓石の頭部が「ぼたもち」に似ているから「ぼたもちさん」の呼称になったという噺に、地元の人の心を感じる。墓前には菜の花が供えてあった。


長洲町の説明板(写真5参照)には、「誾千代(ぎんちよ)の父、戸次道雪と宗茂の祖父吉弘鑑理は、豊後大分の戦国大名の雄、大友宗麟の有力な家老でした。
宗麟は筑前・筑後を固めるために鑑理の子紹運を宝満山城主(太宰府市)に、戸次道雪に立花城主を命じました。天正九年(1581)紹運の子宗茂を道雪の娘誾千代の婿養子に迎えました。それが立花宗茂です。
宗茂は、関が原の戦いで石田三成方に味方したために領地は没収されましたが加藤清正のとりなしで助命となり、一時、高瀬(現在の玉名)に滞在し、その後熊本へ、さらに江戸へ移り住みます。
この高瀬滞在のときに、誾千代がなぜ腹赤の地に来て亡くなったのかは不明です。
宗茂は元和六年(1620)旧領の柳川領を再び与えられます。そして寛永十一年(1634)には誾千代の墓をつくらせています。その後、改修されたと思われますが、墓の頭部が「ぼたもち」の型に似ているので地域の人々からは「ぼたもちさん」の愛称で呼ばれています。」とある。
関ケ原の戦いのとき、加藤清正は小西行長の宇土城を落とし、北上して宗茂の柳川城を開城させている。
清正は、熊本城北側京町の豊前街道東側に柳川小路、西側に宇土小路という屋敷を与え小西家、立花家の家臣を住まわせている。
清正は、黒田官兵衛とともに滅ぼした豊前の大名宇都宮静房の嫡男朝房を、木葉の宇都宮神社に合祀している。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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