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熊本から気ままに山と自転車のブログ

肥後国衆一揆の城村城跡

肥後国衆一揆の城村城跡
2022/5/29(日) 晴/曇
今日の最高気温予報は29°気温は高目だが、今日も暑さ覚悟で午前10時出発のポタリングに出る。
目的地を山鹿三十三観音霊場8番札所東向寺、9番札所円通寺、10番札所千福寺、11番札所安養寺、14番札所志徳寺、15番周保法観音堂とする。途中、城村城跡も見物する。

地元の人に案内頂いた円通寺に案内の道すがら、城村城跡も推薦いただいたので立ち寄る。入り口に二の丸の案内標識があり、空堀跡、本丸跡の標識(写真5参照)が見える。


本丸跡には記念碑と説明板(写真6・7参照)がある。


入口にある説明板(写真8参照)には、「城村城は、「肥後国誌」によると、菊池氏三大家老(城・赤星・隈部)の一人である城氏代々の居城といわれています。
天文十九年(1550年)、鹿子木寂心のあとを受けて、城村城城主の城親冬が隈本城に移ります。そのあと、城村城は、しばらく空城になりましたが、菊池氏のあと、隈府城の城主になった隈部親永の子、隈部親安が城村城の城主となりました。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉から肥後国主に任命された佐々成政は、秀吉の「三年は検地をするな」とい掟を破り、検地をしようとしました。それに反抗したのが隈府城の隈部親永です。親永は成政に攻められ、隈府城は陥落し、息子の親安のいる城村城に生き延びます。城村城には、付近住民総勢約一万五千人が籠城し、八月に成政が攻め込んでくると、激しく抵抗しました。一揆は肥後全土に広がり、この戦いを肥後国衆一揆と呼びます。城村城は最後まで落城せず、隈部父子は、十二月に成政側の和議に応じる形で城を明け渡しました。これにより、肥後国衆一揆は終焉へと向かいます。
佐々成政は、失政により一揆が起きた責任を取らされ、翌年の天正十六年に尼崎で切腹、隈部親永・親安も処刑され、城村城は廃城となりました。
城跡は台地の上にあり、城自体は、台地に築かれた平城の類であったろうと推測されます。城跡には、本丸跡、空堀を隔てて、二の丸跡、三の丸跡の遺構が残っていますが、城の範囲は、もっと広範囲になります。城の規模は、「肥後国誌」によると、二町八反九畝九歩と伝えられています。」とある。


城村城跡を後にして、千福寺に移動する。

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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