2021/11/15(月) 晴
今日は、降水確率0%の晴天予報に、午前10時過ぎから昨日のリベンジポタに出る。
目的地は、谷尾崎山中の放牛石仏(地蔵)99体目、近津の85体目を到達点として、河内町清田の63、河内町岳の41、鎌研坂の無番号5体目・(伝)放牛地蔵探訪の予定で出かける。
河内町岳の41体目と鎌研坂の(伝)放牛地蔵は、到達できずに宿題となった。
先ず谷尾崎山中の放牛石仏(地蔵)99体目を探訪する。登り口は、島崎の紅葉に彩られた岳林寺山門(写真1)左脇から歩きで上る。墓地公園菩提樹園を抜けて、右折して林道を西方向に辿る。
岳林寺から3km、標高差200m強を歩いただろうか。道がやや緩斜面になる所で左上に小堂(写真2参照)が見える。
道から少し登った所に放牛石仏(地蔵)99体目(写真3・4参照)が鎮座する。
光背右側に「享保十六年亥十一月」、頭上に「・・・像・・・佛・・・村・・・陀」、左側に「他力九十九体願主放牛」とある。
登り口の立札(写真5参照)には、「放牛石佛、第九十九、阿弥陀如来坐像、享保十六年(1731)年」とある。私には、薬師如来は分かるが他の仏は分からない。
放牛石仏(地蔵)99体目を後にして、谷尾崎町方向に下り、一路近津の放牛石仏(地蔵)85体目(写真6参照)に移動する。
目的の放牛石仏(地蔵)85体目(写真7参照)は、道が上り坂にかかる所の川畔と民地の橋の角に鎮座する。昔ここから山を越えて99体目の石仏の所を通り、戸坂から城下に続く路があったのでないかと想像したが、見当外れか?
説明板(写真8参照)には、「熊本の城下町、鍛冶屋町に生まれた放牛(ほうぎゅう)というお坊さんが作った85体目の地蔵様です。
放牛さんについては、悲しい話が残っています。自分たちの兄弟喧嘩が元で、父親が殺されたと思い悩む心を抱え、仏に救済を求めたものでしょう。兄弟のうちの一人が出家し「放牛」となりました。享保七年(1722年)、放牛は「十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔わん」と発願します。その85番目の地蔵様〔享保16年(1731年)正月作〕が近津にある地蔵様です。放牛のお墓は横手四方池台(城西小近く)にあります。」とある。
放牛石仏(地蔵)85体目を後にして、近くの近津「鹿島宮」(写真9参照)に立ち寄る。
境内に社伝等の2枚の説明板(写真10・11参照)がある。2枚目の長文は、参考資料として、1枚目を書き写す。「西暦893年第59代宇多天皇の時、参議民部卿藤原保則が、藤原氏の祖神で、武人の神である常陸国の鹿島宮祭神「建御雷之男神(タケミカズチノオノノカミ)」を勧請し、宇土宮を改装造営し、鹿島宮と称しました。現在の鹿島宮は、寛政4年(1792年)の大津波で被害を受け、再建されたものです。
一説には、平安時代に新羅国人が九州西海岸、有明海沿岸の防備の薄い地方を侵略・略奪を繰り返し、西暦893年5月肥後国飽託郡一帯を侵略。その時、人々は火を焚いて防御・撃退しました。それが現在まで続いている10月14日の「火の神まつり」の起源と伝えられています。」とある。
近津鹿島宮を後にして、河内町清田にある放牛石仏(地蔵)63体目に移動するが、その途中の丘の上から河内町の蜜柑畑(写真12参照)を見る。「耕して天に至る」段々畑に黄色に輝く蜜柑が見える。
放牛石仏(地蔵)63体目(写真13・14参照)は、県道101の下清田バス停近くに鎮座する。仏像を線刻した板碑と並んでいる。
放牛石仏(地蔵)63体目を後にして、県道1の鎌研坂分岐の隅切り地に鎮座する放牛石仏(地蔵)無番号5(写真15・16参照)に移動する。
途中、岳の集落で放牛石仏(地蔵)41体目を探訪したが、辿り着けなかった。
放牛石仏(地蔵)小堂前の緑地にある紅葉(写真17参照)も美しく彩られている。
この後、(伝)放牛地蔵があるという鎌研坂を下るが、車道ではなく旧歩道沿いなのか、所在が分からなった。
15時半帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)29km→河内町清田18km→熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計47km 走行累計43,959km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「六地蔵・放牛石仏(地蔵)」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事