2023/6/20(火) 晴
今日は最高気温予報31°薄曇りながら真夏日の陽射しを浴びながら、午前9時からポタリングに出る。
目的地は、先日に続き甲佐町の鵜ノ瀬堰と甲佐神社とする。
県道220沿いの簗場の上流の大井手取水口に猿田彦大神の碑(写真1参照)がある。
猿田彦大神は、道祖神として道の分岐ヶ所に祀られているが、緑川本流と井手分流の守護神か。
道を上流側に進むと、右側に「鵜ノ瀬堰」(写真2参照)の説明板がある。川面を見ると、静かな水面とそこから流れ落ちる水が川に斜めに横切っている。これが鵜ノ瀬堰か、大きい。
説明板(写真3・4参照)には、たくさんの情報が記載されている。全部は紹介しきれないので、左下の文だけ紹介する。
「清正公の祈りが、先人たちの家族を思う心が鵜ノ瀬堰を造り、水の勢いを止め、さらに水を引き込み何百ヘクタールという田んぼが作られました。
鵜ノ瀬堰は、昭和56年3月22日に町指定文化財に指定された、石畳、石積みからなる史跡です。慶長13年(1608)加藤清正公によって造られたとされるこの堰は、甲佐町を貫流する一級河川緑川を斜めに横断し、甲佐町豊内から東寒野まで延長約600メートルにわたり広がります。
完成後、増水により破壊される度に改修が行われ、そのほとんどがコンクリートにより固められてしまいましたが、現在でも一部(対岸側)で「緑川図」(中央写真:江戸時代天保年間に作成)に描かれた石畳の面影を見ることができます。
平成16年度に対岸の東寒野地区で行った発掘調査では、絵図にあるような石畳が幅10m、延長100m以上にわたり出土しました。敷き詰められた20cm程度の礫の上に1m四方の割り石が隙間なく整然と並べ置かれており、川の流れが石の扁平な部分に当たり堰が壊れぬよう石を斜めに置くなど、石の向きにも工夫がありました。また、石畳の上流部分には直径10~20cm程度の穴が2列に連続して掘られている部分もあり、橋や梁といった構造物があったと考えられます。
このように先人の知恵と労力が詰め込まれた鵜ノ瀬堰は洪水の絶えない甲佐町の被害を防ぐとともに、そこから導かれた用水路は甲佐・竜野・白旗地区の数百ヘクタールの田畑を潤し、江戸時代以降の甲佐町の発展に重要な役割を果たしました。また、いま現在でもその機能は生き続け、私たちの生活を支え続けており、鵜ノ瀬堰は、治水・利水の点から非常に重要な歴史文化遺産といえます。」とある。
甲佐神社前の緑川堤防上から上流・下流方向(写真5・6参照)を見る。
説明盤(写真7参照)には、「先人達の家族を思う心と知恵が結集した高さ3m、延長500m以上にわたる石積みの堤防跡が見つかりました。」
「甲佐神社前では船着場跡が見つかりました。甲佐神社を中心とした緑川と人の密接な関係と歴史がこの「上揚往還遺跡」には凝縮されています。」とあり、詳細が記載されている。
甲佐神社(写真8・9参照)
甲佐神社(鏑崎宮)御由緒書(写真10参照)には、
「甲佐神社は、神武天皇の孫である阿蘇大神の健磐龍命の御子八井耳玉命を主祭神とし、境内には全国の神社でも数少ない主祭神の御陵(古墳)があります。また、当神社は、肥後国二宮であり古来より肥後南方の守護神されております。
(当社伝承では、八井耳玉命の御母は、健磐龍命が対馬で対馬ノ媛と云う女性と出会われ連れ帰られました。その後、八井耳玉命を御産みになり、対馬に帰られたと伝えられております。また、伝承には八井耳玉命の御母は天女噺(伝説)の天女であったとの言い伝えもあります。)
創建は、紀元前189年(孝元天皇26年)とされ、阿蘇大神の健磐龍命が鏑矢を放ち、鏑矢が当った所に社殿を建立したため鏑崎宮と称されました。近隣の安平区には、創建当時の言い伝えがあり、主祭神が阿蘇から十三人の伴と来られる話や・・・
・・・紀元200年(仲哀9年)の頃、神功皇后が南九州の内乱を治める際に、当社殿にて祈念され、隣国平定の後に、甲冑を当社殿の神祠に納められました。この時の勅命により鏑崎宮から甲佐宮へと改称されました。・・・」とある。
その由緒書にあるところの八井耳玉命の古墳(写真11参照)が、拝殿右横にある。
拝殿には、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」が掲げてある。説明文(写真12参照)には、
「国宝「蒙古襲来絵詞」と甲佐神社
鎌倉時代、甲佐神社は現甲佐町・小川町・城南町・松橋町に四〇〇町歩の社領を有していました。
松橋町の竹崎に住んでいた幕府の御家人竹崎季長は文永の役(1247年)で活躍しましたが、恩賞からもれてしまいました。
そこへ甲佐大明神のお告げがあり、鎌倉へ行き直訴したところ海東の地頭職を賜りました。
その報恩感謝のために甲佐神社に奉納したのが「蒙古襲来絵詞」です。
その後、この絵詞は名和氏・大矢野氏などを経て天皇の御物となり、現在は宮内庁の所蔵となっています。
絵詞は縦幅約四〇センチ、長さは前・後巻を合わせると約四〇メートルのも及びます。
その中から重要な場面を十枚選んで拡大模写したのがこの大絵馬です。
国宝には損傷や加筆などがあり、今回の制作に当たっては甲佐神社に奉納した時の姿に近づけました。」とある。
模写絵とは言え、色も鮮やかで迫力ある絵馬が並んでいる。その中から私たちがよく目にする2枚(写真13・14参照)を選んでみた。
参道の石段に腰を降ろして弁当を開いていると、力士が燈籠を担いでいる面白いデザインの石灯籠(写真15参照)が見えた。ここを折り返し点として帰途に就く。
15時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)30km→甲佐神社30km→熊本(自宅)
総所要時間6時間(実5時間) 総計60km 走行累計54,981km
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自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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