浦田天神社
2024/12/10(火)晴
最高気温13°早朝5°快晴ではないが、たまに雲が陽射しを遮る程度の暖かい日になる。目的地を加藤清正公が祀られているという浦田天神社として午前11時からポタリングに出る。
熊鹿ロード北進し、硯川から県道31に出て国道208を西進する。木葉の町並みに入る手前の浦田川沿いの道へ右折する。砕石を積載するダンプーが頻繁に往来する道を2km程北進すると浦田の集落に着く。目的の天神社は山の中腹にあり、その境内に生える黄葉したイチョウの木(写真1参照)が、かなり手前から目に留まる。
そのイチョウを目印に住宅の中を進み、文字は読めないが標識らしい立札(写真2参照)がある角を左折する。
道は細くなり山に向かうが、ほどなくして鳥居(写真3・4参照)が見える。掲額には、「浦田天神社」とある。
鳥居を潜ると石段があり、その上に拝殿(写真5参照)が見える。目印にしたイチョウの葉が落ちている。神殿は扉が閉まり、拝顔は叶わなかった。清正公が祀られている確証は得られなかったが、下記のような歴史がある地域であるので訪ねてみた。
「城北地方の和紙業は,1598年(慶長 3)、加藤清正が高麗より道慶・慶春2人の紙漉工を召し連れ、製紙に従事させたのが始まりとされている。彼らは当初、飽託郡亀井村(現熊本市)に居住し、紙漉きを始めるが、この地は水も悪く、薪にも不自由したので、1615年(元和元)に、道慶が玉名郡上小葉村浦田(現玉名郡玉東町)へ、慶春;らは1619年(元和5)に芋生村川原谷(現山鹿市鹿北町)に移住し、そのうちの一部の者は日平(現玉名郡和水町)にも移り住み、それぞれ紙業に従事している。その後、彼らは細川氏の御用紙漉としても召し抱えられ、その技術は、城北地方の村々に広がったといわれる。(参考:地方衰退地場産業にみる産地変容の諸条件-熊本県城北地方の和紙産地の事例 山中 進 著)
15時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)21km→浦田天神社19km→熊本(自宅)
総所要時間4.5時間(実4時間) 総計40km 走行累計60,816km