2021/8/23(月) 曇
今日の最高気温予報32°、曇天で蒸し暑いが、降水確率午前20%、午後30%と降雨の心配はないので、午前9時半からポタリングに出る。
目的地は、山鹿市指定天然記念物の湯の端のエノキとする。
熊鹿ロードを北へ走り、宮原から国道3を走る。今年は、古代蓮を未だ見ていないので寄り道する。
古代蓮園を後にして、県道16を経由して「さくら湯」(写真6参照)に到着する。
さくら湯前に「山鹿温泉の歴史」の説明板(写真7参照)がある。
その説明板には、「江戸時代に山鹿湯町の山下甚左衛門が書いた「鹿郡旧語伝記(かぐんきゅうごでんき)」には、山鹿温泉の発見について、保元の乱(1156年)に敗れ、菊池の菊池家に預けられた宇野親治公が、保元2年(1157)、山鹿で鹿狩りをしていたとき、傷ついた鹿が湯浴みしているのを見て、この地に温泉があることを発見したと伝えられています。
しかし、平安初期(934年頃)、源順(みなもとのしたごう)によって著された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には、山鹿は温泉郷として紹介されているので、実際には千年以上前から温泉地として有名であったことがうかがえます。
湯量豊富で・・・そんな湯量豊富な山鹿温泉ですが、文明5年(1473)3月に温泉が突然枯れてしまったことがあります。このとき、山鹿の祈祷寺である金剛乗寺の住職、第八世宥明法印(ゆうめいほういん)が、薬師堂を建て温泉復活の大祈祷を行われたところ、同年12月20日の夜中、以前にも勝るお湯が湧き出してきました。以来、宥明法印は温泉復活の大恩人として敬われ、温泉が復活した12月20日を湯祭りとして法印の功を称えてきました。現在この日は温泉復活感謝祭として祈祷が行われています。
江戸時代には、肥後藩主となった細川忠利公が山鹿の温泉を大変気に入り、御茶屋を湯の端に新築しました。このとき、13代将軍足利義輝の子、足利道鑑と剣豪の宮本武蔵を招待したことが、細川藩奉書(永青文庫)に記録されています。この御茶屋が明治時代に改築され、現在のさくら湯に至っています。
明治42年、山鹿温泉は、大阪の岡本増進堂発行の全国の温泉番付に出ており、西前頭5枚目となっています。熊本県内からは、阿蘇(西前頭三枚目)、日奈久(西前頭三十四枚目)も出ており、山鹿には実に多くの温泉客が訪れていました。」とある。
東側に立派な薬師堂(写真8参照)がある。
説明板(写真9参照)には、「・・・文明5年(1473)年3月突然、温泉が涸れお湯が湧出しなくなり、町民はたいへん嘆き悲しみました。
この様子を聞いた肥後の守護(国主)菊池重朝公は、祈祷寺である金剛乗寺第八世宥明法印に温泉復活の祈祷を頼みました。法印はすぐに薬師堂(医王山浄瑠璃寺)を建立し、同年9月15日より毎日身を賭して大祈祷を続けました。すると3ヵ月後の・・・(さくら湯説明板に同じ)・・・この薬師堂には、温泉の守り神として薬師如来をご本尊に、脇侍に日光、月光菩薩(薬師三尊)とその守護神十二神将を祀ってあります。」とある。
山鹿市指定天然記念物の「湯の端のエノキ」(写真10参照)は、交差点側角にある。思っていたほど大きくない。街中なので選定されて大きくなれないのかも・・・と解釈した。
現在時刻正午に帰途に就く。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)34km→豪潮式宝篋印塔31km→熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計65km 走行累計42,436km
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