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熊本から気ままに山と自転車のブログ

西園寺随宜の墓・今村天神・ワクド石遺跡

西園寺随宜の墓・今村天神・ワクド石遺跡
2021/7/2(金) 曇/晴

天候は晴/曇、出発時気温27°、降水確率午前10%、午後30%の曇り空に、午後も曇ることを期待して午前9時にポタリング出発。午後は晴れて、気温34°はこの日全国最高だった。目的地は、菊陽町古閑原西園神社の菊陽町指定文化財の西園寺随宜の墓と、杉水の大津町の今村天神とする。

県道341を東に辿り、県道30との交差点から上井手川沿いの道へ進む。上井手川の右岸側へ渡った辺りに「西園寺随宜の墓」の案内標識がある。
「西園寺随宜の墓」は、西園神社(写真1参照)の境内にある。
西園神社とは西園寺随宜を祭神とする神社か?


墓石は、玉垣に囲われた中(写真2参照)にある。


説明板(写真3参照)には、「西園寺随宜(さいおんじずいき)の墓
菊陽町大字原水字芳ヶ平
この墓の主、西園寺随宜(公宜・きんのぶ)は時の左大臣西園寺実晴の末子として京都に生まれ西園寺家を相続しました。寛文5年(1665)に宮仕えを辞して叔父にあたる長岡忠春(細川忠隆の子)の領分である入道水村の安福寺を仮の住居として隠居しましたが、病にかかり寛文10年(1670)8月15日に静かに一生を終えました。」とある。


西園寺随宜略系図(写真4参照)
この系図で興味を惹かれるのは、ガラシャの系譜だ。細川本家では、七代当主をもってガラシャの血脈は途絶えるが、長岡忠春の長岡内膳家(細川内膳家)が明治時代に細川姓に復して、血脈を現代に伝えている。細川護熙元首相は、細川家18代当主である。


西園神社を後にして、大津町杉水の今村天神(写真5参照)に移動する。


御神木(写真6参照)
大津町ホームページには、「今村の西はずれの森に榊を神木として祀られ、その前に拝殿だけが建てられています。杉水菅原神社の古宮とされています。」とある。参道右側に窪地があり、そこから溝跡が続く。湧水跡ではないかと推測する。


今村天神を後にして、国道325に出る途中にワクド石遺跡の標柱(写真7・8参照)があった。行ってみたがどこが現場か分からなかったが、木瀬遺跡と同様の地形で台地の縁である。
標柱には、「縄文後期~晩期(約3千年前)の大規模な住居址遺跡です。この地より出土した御領式土器片に籾の圧痕が発見されたことにより稲作の渡来の時期に疑問を投げかけました。日本の農耕文化の始まりを考える上で、重要な遺跡です。なお、土偶、石包丁、石鍋等も当地から発見されています。」とある。


国道325を横断し、帰路の途中のゴルフ場入り口手前の県道49左側に、平川淀姫神社の伝承に関連する「百騎帰」に立ち寄る。
更に、竹迫の交差点道路下の石橋を写真に撮ろうと立ち寄ったが、川の擁壁が高く河原に降りられなかった。
13時帰途に就き、15時帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)32km→今村天神27km→熊本(自宅)
所要時間3.5時間(実3時間) 総計59km 走行累計41,787km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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