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熊本から気ままに山と自転車のブログ

大野伊勢守紀光隆の墓・上の六地蔵石幢

大野伊勢守紀光隆の墓・上の六地蔵石幢
2021/4/8(木) 曇/晴

今日は、10時半出発、気温18°最高気温も20°ほどと絶好のポタリング日和となった。
目的地は、玉名市指定文化財の大野伊勢の守紀光隆の墓とする。

Googleマップと前夜の予習の効果があり、ほぼ一気に目印の玉名市登録有形文化財「上の六地蔵石幢」(写真1参照)に到着できた。
沢山献花されていて、大切にされているなぁと思っているとお参りの方が見えた。


ここを左側に少し行くと右側に墓地があり、その奥の方に目的の大野伊勢の守紀光隆の墓(写真2参照)はあった。


説明板(写真3参照)には「大野伊勢守紀光隆の墓(供養塔)は、平等寺(廃寺)境内とみられるところに、東を向いて建てられている。
この墓(供養塔)は、凝灰岩製で五重に積み上げられた形態である。上部から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪からなり、このような形態を五輪塔と呼ぶ。空、風、火の三輪には仏を表す梵字を刻む。なお、本塔最下部には、別の五輪塔の地輪が据えられている。
地輪正面には「文中二年八月二十三日伊勢守紀光隆行年(享年)三十九」の銘文が刻まれている。
 紀光隆は紀隆村を先祖とする大野氏一族の末裔である。大野氏は、鎌倉時代、幕府から玉名郡のうち大野別符(現在の玉名市のほぼ西半分)の地頭に任じられ、その子孫は元・高麗の大軍が博多湾に押し寄せた文永の役(1274)の際にも活躍した。
南北朝時代になると、菊池市とともに一貫して南朝(後醍醐天皇)に与したが、1370年代に入ると、北朝方が優勢となり、大野氏は次第に弱体化していった。
 本塔は、文中二年(1373)八月に没した伊勢守紀光隆の供養塔である。本塔により、光隆の存在が知られ、歴史的価値が高く、また、中世五輪塔の典型例として重要である。」とある。


この後は、黒崎公園の古墳探訪も考えたが時間が足りないので、江田船山古墳(写真4参照)公園に立ち寄り県道3を南下する。


植木町清水辺りだったか桐の花(写真5参照)が咲いていた。桐は6月頃だったように気がするが記憶違いだろうか、それにしても早い、未だ四月なのに・・・


帰宅は17時、今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)32km→大野伊勢守紀光隆の墓40km→熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計72km 走行累計39,700km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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