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行政学 日進市 福岡大

2020-04-09 03:52:29 | 日記
行政の歴史入門 大学公務員過程
行政業務範囲20/03/01(1)行政学は1800年来アメリカで誕生した政治学の新しい領域である。近世国家から現代国家への過渡期に際し現代国家に必要不可欠体制を整えるという制度改革の課題に応え誕生した学問。近世国家から現代国家移行は何を意味していたか先ず第一に政府職能は行政サービスの範囲規模が飛躍的に膨張していた。第二に国民経済を市場機械工学による自動調整作用に委ねるべきではなくなり政府が深く介入する。第三には政治制度に於ける大衆民主セ氏実現制度の側面の現代公務員制確立により立法行政関係および政治行政の関係双方に大きな変動が生じた。(2)古代欧州中世政治支配:古代と中世時代には政治支配者が果たすべき統治機能が領土と人民を外敵の侵略から護る事が国防であり、更に犯罪を取締警察行為を成し争いごとを裁き裁判をする三点に限られた。政治支配者は保護する対価に人民に賦役を課して徴兵徴税をし権力に依り兵力を保持した。権力背景に王宮、神殿、寺院、墳墓を建立し此れを公共権説成し、権威の象徴とし人民に君臨した他、統治権能があり早魃洪水等自然災害から農地を護る事が治山治水程度。
近世の殖産産業政策と官房学20/03/01(3)ところが欧州中世封建制支配体制が崩れて絶対君主を政治支配者とする中央集権体制の国民国家=NationStateが形成され始めた近世の時代に入ると各地の絶対君主達は富国強兵を競い出し重商主義=Mercantilismまたは重農主義=Physiocaryの政治思想に基づく殖産興業政策が推進されていった。統治の機能は次第に範囲を広げ始め此れを担う新しい人材として近代的な意味で官房が登場した。この時代にヨーロッパ大陸諸国嘗ては神聖ローマドイツ帝国支配領に属すドイツ、オーストリア地域に君主と官僚学問として隆盛を極め富国強兵策を支えたのが官房学=Kameralismusであった。(4)自由放任主義:しかし国家の職能は近世絶対君主による殖産業政策以来今日までひたすら拡大の一途を辿って来たのではない。その間に一度揺り戻した時期があったのである。即ち絶対君主の下でやがて資本主義経済が発達して市民階級=ブルジョアジーが登場するようになると国家に因る殖産業政策が資本主義に批判された。国内産業保護の為に関税政策を初めとして産業保護、助成、振興する為に行われていた国家に因る各種規制介入措置が産業の自由な展開を制約し却って経済の発展を阻害しているという批判が在る。
自由放任主義20/03/01(4B)国家は市民生活と経済活動に対する不必要な規制介入を止め市民社会側の自由活動を許容すべきであり資本主義経済を伸び伸びと発展させ国を豊かにする早道であると言う主張があった。その新しい思潮の事をその当時フランスで流行していた言葉は『Laissez Faire=レッセ・フェールを取って自由放任主義と呼ぶ。思潮を自由主義経済理論にまで高め『神の見えざる手』に依る市場の自動調整作用について解いた著者が英国アダムスミス『諸国民の富』1776年であった。(5)安上がりな政府:自由放任主義が一世を風靡していた時代英国では国家の果たすべき職能は恰も警察官が夜間の街頭を巡回して市民生活の安寧を守る事に尽きるかの如く俗論が横行した。この様な通俗的な国家観の事を夜警国家論とし揶揄(やゆ)論者も居た。国家の職能は国防、警察、裁判に限られるべきだとするのは極論であったとしても資本主義経済先進国であった当時の英国では『国家は安上がりである程良し』とする主張が支配した。この種の国家間のことを『安上がり政府』=Cheap Government論と呼ぶのが通例に成っている。1801年米国第三大大統領にトーマスジェファーソン=T.Jeffersonの言葉『最小の行政こそ最良の政治なり』もこの国家観を表している。
職能国家への変遷20/03/01この種は英国典型であったが市民革命経て立憲君主制か近代民主制移行した欧州まで普及し国家職能拡大に歯止めをかけたので近代国家の職能の範囲は一般、現代国家のものと比べ遥に狭い者に留まっていた。(6)産業化と都市化:ところが西欧諸国政府は1850年来から1900年来に架けて産業化=Industrializationと都市化=Urbanizationに起因するところ新しい社会問題や都市問題の対応を余儀なくする。そして再び職能範囲を広げる事になった。即ち農村から都市に流入してきた貧民の救済に着手しコレラチフスの蔓延を機にし下水道の整備を始めた。やがてスラム住宅の改良や工場労働者の保護や義務教育の充実電気ガスの供給都市交通事業の経営社会保険制度の創設等を進める。産業活動につき一方では国民生活に及ぼす危害防止に木目細かな規制措置を講ずる地方ではこれを保護、助成、振興する為の国策を幅広く実施する。この様な『近代国家から現代国家へ』の斬新的な移行過程に国家の職能は行政サービスの範囲、規模に生じた変化をアングルサクソン系諸国では『安上がりの政府』から『職能国家』への変化として捉えてそして欧州大陸諸国では『消極国家から積極国家』の変化として要約する事が多いとされる。
福祉国家への旅立ち20/03/01(7)福祉国家への旅立ち:西欧諸国の政府職能は行政サービス拡大傾向は1900年来に入って以降さらに一層加速し政府の財政規模と公務員数を膨張させた。単なる量の膨張に留まらず次第質への変化を伴い始めたのが福祉国家への旅立ち。何を以って福祉国家とよび岐点をどの時期に求めるべきかという点につき諸説入り乱れていて定説が無い。此処では福祉国家岐点は1800年来から1900年来への世紀転換期に求めたいとする。理由は概ねにこの時期から各国で①労働組合が結成され労働運動が活発になり②此れに伴った選挙権が徐々に拡張され成人男性に全てに選挙権を付与する普通平等選挙制度施行期③選挙拡張から有権者となった国民大衆の支持獲得の為各党は競って社会、労働、産業政策を政策要綱掲げ政党政治の主要な争点にした。政治制度に於ける大衆民主制=Mass Democracyの実現こそが現代国家をして福祉国家への道に歩みださせた最も基本的な景気であったと考える。(8)世界大戦と大恐慌:そうは言うも者の現代国家がその後も福祉国家への歩みを続け後戻り効かないとこまで来てしまったのは1900年来後半に起こった様々な事件がこの動向を促進したからであった。
世界大戦と大恐慌20/03/01(8B)世界大戦が二度に渡り、1929年以降の大恐慌という三つの事件の影響である。両大戦に参戦した国々は総力戦を戦い抜く為に国家総動員体制や挙国一致体制を敷き広い国民各層参加協力調達する事を努めざる得ないのであるが戦時行政は国民各層への行政サービスの平準化を進めていく結果になった。この時の大恐慌ほどに市場の機械工学に対する信頼感を根底から揺るがし政府の政策抗争の基調を一変させた事件は他に無い。この間に露国に社会主義体制の国が誕生した為に此れとの対抗上資本主義体制国々側で分配の不公平をある程度まで是正する事を余儀なくすると言う体制間競争要因も見逃す事のできないもう一つの要因であった。(9)福祉国家の要件:福祉国家=WelfareStateは如何なる国家の事かは福祉国家の行政業務にはどのような質の変化が生まれているのかは此処では①生存権保障責務を国家として受け入れ②所得再分配を当然の職能と考えて③景気変動を調整する為に市場経済介入を積極的にする様に成った国を福祉国家と呼ぶことにする。西欧先進諸国が此の意味で諸要件を程整えたと言えるのは第二次世欠いた戦後の事である。
生存権の保障20/03/01(10)第二次世界大戦後制定された日本国憲法25条Ⅰは『全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』と定める。此の種の生存権保障条項を憲法典に最初に規定したのは第一次世界大戦の独国で制定されたワイマール共和国憲法である。生存権ないし生活権の保障を以って或いは更に進み社会権保障を以って国家責務とする思想は此れ以降に急速に各国に普及し定着して行った。憲法上の規範は英国社会保障制度基礎を築いたベヴァリッジ報告は1942年が用いたナショナルミニマム=National Minimumの概念似よって媒介しやがて個別政策領域毎の目標水準具体化していく。(11)所得の再分配:低層所得国民が最低限度生活保障する事が国家の責務とされた以上現代政府は生活保護政策を始め広く社会保障、社会福祉、公衆衛生、医療、教育、住宅等の諸領域に渡り低所得層向けの政策を実施しなければ成らない。此れ等の政策に要する経費をその対象者であり受益者であるところの低所得層の国民に負担させる事は出来ないので現代国家はこの種の政策に要する財源を担税力ある納税者から徴収さぜる得ないが現代国家では所得が高ければ所得が高いほど高い税率を課す累進税率制度を加味した所得税や法人税が導入されたそして資産に対する課税財産税の領域でも相続税については類似の効果を持った税制を確立している。
所得税の分配20/03/01(11B)要するには現代国家は歳入政策歳出政策の両面を通し或る所得階層国民所得一部を収奪し其れを他の所得層国民分配するという所得再分配機能を営むようになった。国民側から見れば低所得層国民は様々な行政業務受けながら見合う納税無く高所得層国民から多額納税を納めならが此れに見合うだけの行政業務を享受しないと言う事に成る。何れ国民と政府間負担と受益交換は不当価交換に成っているのであるが現代国家政策巡り利害対立根源がこの点にある。(12)景気変動の調節:1929年以来大恐慌に伴って社会生活混乱は未曾有の者であったが『好況不況景気循環は資本主義経済の健全な生理現象である』等と言い済まして出来ない非常な事態であったが米国フランクリンローズベルト=F.D.Roosevelt大統領がニューディール政策を実施した。その他の国々でもまた其々に各種の緊急対策を講じ景気回復を必至に模索した。こうしている最中にも第二次世界大戦が勃発し各国景気回復政策は効果検証する間も無く戦時産業政策へと切り替えられていった。この間の試行錯誤過程を通じ各国政府はケインズ経済学に基づいて経済正確有効性を確信する事になり此の体験を戦後の経済復興政策に継承していく事に成る。
金融と財政の政策20/03/01(13)金融と財政の政策:戦後金融政策財政政策を駆使し経済景気変動を調節し景気の後退時には金利を引き下げ政府の財政規模拡大し景気の浮揚をを促して失業者の増大を抑える事と刑期の加熱期には金利を引き上げ政府の財政規模を縮小し景気鎮静を促すが物価の高騰を防ぐ事が政府の取るべき当然の経済政策であると考えられるに至っている。(14)ケインズ経済学とスタングフレーション現象:こうした高度経済成長期はケインズ経済学は社会経済学王座を占め経済政策論は公共政策を巡る論議主導し続けた。1970年来以降のスタングフレーション現象は即ち失業増大と物価上昇が同時並行に進行すると言う新しい経済現象に直面しケインズ経済学に基づいても経済政策は嘗てのようにその有効性が発揮で出来なくなりマネタリズム等数々学派台頭し百家争嗚混迷時代になる。(14)福祉国家の転換と危機:更にその事は福祉国家の功罪を新たな角度から見直そうとする様々な政策議論を招いたが福祉国家はその転換期または危機を迎えられたなど述べた所以であった。(15)石油と財政の危機:1960年来世界的経済高度成長期で此の時期先進諸国行政業務範囲規模は税収自然増に支えられ拡大、第一次石油危機1973~74年第二次1978年を境にして先進諸国の経済は一斉不況期を迎え何処の国も程度の差は在り財政危機に直面する。
減量経営の行政改革20/03/01(16)減量経営の行政改革:1980年来には行政活動見直し範囲縮小する事は言い代えれば減量経営=CutBackManagementを目指した行政財政改革が先進諸国の略共通政治課題となる。米国レーガン政権に依る改革=レーガノミックス英国のサッチャー政権改革=サッチャーリズムそして日本国の中曽根総理に依る改革はPrivatizationの推進など共通点も少なく無かったのであり比較研究の格好の素材と成る。中曽根政権の行政改革は1981年設置の第二次行政調査会=臨調を表舞台にして始められ『増税無き財政再建』の基本方針の下に『小さな政府』を目標に掲げて推進され『三公社の民営化』を初めとする一連の改革を実施に移す。(16)民間と行政の活動:此の時期行政改革論議では行政活動を民間活動と関係から分類しその問題点を指摘するといいう論法が流行し行政活動を4割した①民間活動規制する②民間活動を助成する③民間活動の不足を補完する④民間活動に解決できない者の四類型であった。規制活動につき此れが民間活動活性化妨げている場合が少なくない規制暖和=Deregulationが求められた。助成活動につき過保護場合が在り自立自助大切を説かれた。補完については民間活動補完より民業競合で圧迫の場合在るとし活用、促進、民営化が推奨された。
新公共管理20/03/08(17)その後の英国ではサッチャー首相政権が同じく保守党のメージャー首相に引き継がれ改革は次の段階=NextStepへと発展させられたが規制暖和と民営化による市場機械工学の活用路線に加え行政活動に於ける企画実施を分離して実施業務を担任する取次人事管理および財務管理の自立性を強め、此れ等取次の業績目標を予め『市民憲章』=Citizen's Charterに定め達成状況を業績測定する新しい評価システムの確立を目指すようになった。行政活動に対して統制の仕組みを実施業務の執行方法または過程に対する事前統制から執行の成果に基づく事後統制に切り替えたのであった。市場機械工学の活用、取次への権限委譲や成果志向、顧客志向の業績測定等を中核にした改革の波は豪州、ニュージーランドに波及し更に米国に伝播した。そして母国である英国ではその後の保守党のメジャー政権から労働党のブレア政権に交替したにも拘らず改革路線の基本変更は加えられなかった。そこで今日ではこの種の新しい改革の思潮と手法の事を『新公共事業』=NewPublicManagement(NPM)と総称しその意味内容の内包と外延の確立が試みられて要る。此の波は日本にも及び2001年1月から施行された国の中央省庁等の再編成に際し日本版取次と独立行政法人創設し全省庁に政策評価の実施が義務付けた。
市場と政治の機械工学20/03/08(18)1980年以降行政改革論議に一貫したのは此れまで以上に市場機械工学を信頼し活用し活性化を図れという要求があった。ここでもう一度政府の職能は行政業務は発展を振り返ってみれば現代国家が職能国家になり福祉国家に歩み出したのは現実の市場機械工学から様々な社会問題が発生し解決を政府に期待させられたに他ならない。(19)現実の市場に独占寡占状態が生じるなど市場は決して完全競争条件を満たしていないのは経済学で言うところの市場不完全及びその歪。また市場が仮に完全競争条件を満たしていたとしても元々市場の自動調整作用なる者は公害などの外部不経済の問題とか公共財の効率的な資源配分の問題などについては適切に解決する事のできない事の物であったのは経済学の市場の失敗である。言い代えると現代国家が司法主義経済の無条件信頼を寄せる事ができなかったからこそ行政業務範囲規模を拡大させざる得なかったのである。(20)ところが此処に来て時代思潮の流れの方向が完全に逆転したのである。今度は専ら行政肥大が憂慮されて行政活動不適切且つ非効率な側面に非難の矛先が向けられた。経済学に依る市場の失敗という魅力的な概念になぞられて政治の機械工学側にいわば政府の失敗ないし政策の失敗と称すべき本来的な欠陥があったと言い残す。
政府および政策の失敗20/03/08(20B)行政業務適正範囲は何か此れは歴史上繰り返し論じられてきた論点であるがこれからも先も時には右から左に揺れる振り子運動を繰り返すであろうと思われる。(21)行政学は市場の機械工学の業務供給と政治機械工学による業務の供給からの利害得失を明らかにする事を通して此の論議に際しての論点を整理する事はできた。しかしこの論争に最終裁定を下し得る学問上かつ科学的な基準を持ち合わせて居ない。市場業務の範囲は学問の確定し得るところではなくあくまでも政治の機械工学を通して決定されるべき性質ものである。故にそれが国毎の多様であって当然であて時代と共に変遷して当然のものである。(22) (1)~(21)までに述べた現代国家の三つの特質の内第三点は即ち大衆民主制の実現及び現代公務員制確立結果とし現代国家の立法行政関係と政治行政関係に生じている問題状況について理解を深める為『官僚制と民主制』は絶対君主制の時代に形成された近代官僚制が市民の革命後の近代民主制の憲法構造の下で如何なる変容を迫られたかと言う点に論点を充てる。
絶対君主制の政治と統治分化体制20/03/08(23)絶対君主制の時代は中世以来各地分轄割拠した封建諸勢力の中から富国強兵策に成功し頭角を現した領邦君主が次第領土を拡張しながら中央集権体制を確立して領土内封建諸勢力特権剥奪し国民国家=NationStateを統一した時代。其処は君主当地全権総攬していたから立法司法行政の区分さえ不明確であり近代国家憲法構造構成した諸制度の原型は何れも絶対君主制政治体制化で形成され始めていたのであった。(24)先ずは主権概念確立に次第君主権は立法権統帥権と統治権は司法権行政権と分化していったが君主に代理し統治権遂行機構として官僚制が形成された。官僚制に統治統括する君主の輔弼機関とし大臣宰相が生まれ内閣制の原型になる。君主協賛機関は等族会議や三部会が後の議会制の原型となる。(25)絶対君主制時代官僚はその当初君主旧来家臣団や等族勢力とその家臣団から登用されていたのであったが官僚を部下にしながら封建諸勢力特権を剥奪し旧体制アンシアンレジュームを打破し統治を近代化する事が困難だった。君主達は桎梏から自由な将校官僚は忠勤励み階級地域職能汲みする事が無く自己国家同一化し新類型官僚将校を求め社会身分門地に拘らず学歴能力基準平民階級からも登用抜擢する様に成った。
近代官僚制の属性20/03/08(25)行政概念はその後展開重要は絶対君主制に形成された近代官僚制に於き後の現代公務員制行政官僚団にまで継承されるべき基本属性と呼ぶべきものは即ちは専門性永続性熟練性終身制従属性中立性の原型が形成された事になった。(26)フリードリヒッヒベーゲル=GWF Hegelは著書に『法の哲学』の中に君主権統治権に関する釵述箇所に官僚原理につき次のように説明が在る。先ず官僚は学歴能力と言った客観的資格に任用され世襲売官は排訴される=専門性。次に官僚は公務に於き私的利益を厳しく禁じられる反面俸給の支給と言う形で生活を保障されると共に終審の身分保障が与えられる=終身制。終身制とは終身職官僚によって構成される官僚制の特性が永続性である。官僚は君主に依り決定される法や機構や施設などを継続的に運用維持する事の統治権代理者であるとされている。君主に忠勤を励み国家に同一化するべきものとされている=従属性。官僚は市民社会の諸々の特殊利益に偏る事無く普遍的利益貫徹以って職務=中立性。専門性永続性従属性中立性が君主が官僚に課している規範である。官僚が指摘利益を追求し権力を濫用する可能性のある事は十分に認識されていた。官僚は統治権の補助執行者とされて実態は君主に依る君主権=立法権の行使を補佐し輔弼(ほひつ)存在だった。
三権分立20/03/08(26B)実際のところは官僚が私的利益を追求し権力濫用する可能性が在った事は十分に認識されていたが官僚は統治権の補助執行者とされているものの実態は君主に因る君主権の行使を補佐し輔弼する存在でもあったが中立性とは市民社会利害対立から超然としていると言う限りでの中立性であったのであり官僚は国民国家統一維持しながら近代化推進する戦いの先兵であると言う意味での党派性は明白であった。(27)立憲君主制は国家社会間に緊張関係が顕在化した時代に国家が社会に一定の譲歩をした憲法構造である。国家とは絶対君主制の政治体制を支えていた君主や枢密院や軍事官僚や司法官僚や行政官僚等の支配機構の他ならない。社会とは納税階層の地主階級やブルジョアジー=新興市民階級等である。欽定憲法が発布され君主自ら主権の絶対性に制約を課したそして納税階級から選出された代表を以って構成する国民議会が開設され君主権の根幹を成していた立法権を国民議会に委譲した。立法権の独立に依り初めて立法、司法、行政がの概念が確立され三権分立が始まった。行政とは旧来の統治から議会と裁判所に移譲された立法権司法権を控除した残余の権能全てを意味しており旧来の統治と大差の無い広さを持った概念であった。
法治主義の原理20/03/08(28)立法司法行政の三権の間に新たな関係を規律する事になった規範が次ぎの三原理である。議会=議会の制定する法律がその他の機関の制定する一切の命令は勅令、枢密院命令、軍令、政令、大統領令に優越し法律の規定に抵触する命令の規定は無効である。②行政=行政として行なわれる事の内少なくとも国民に義務を課し国民の権利を制限する特質を持った行政行為を行う授権は全て法律事項として留保され国民の権利または自由を侵害する行政行為は必ず議会制定法律根拠を持ち法律に基づき行われなければならない。③裁判=行政府の行政行為の合理性は行政府から独立した地位に在るところの裁判所が議会の制定した法律の規定に基づいて審査審理する。(29)言葉の正しい意味で法律に依る行政の原理には法治行政原理という事はこれらの三原理全てを具備している法治主義が確立した憲法構造の下で行政府に依る行政活動が議会制定法に基づいて行わなければ成らないとする規範である。(30)規範確立により従来は君主の君主権に従属した官僚は議会の立法権に帰属するものと成った。官僚の従属性は立憲君主制の下では未だ嘗て不完全な物であった。今日の行政組織法とか公務員法に相当する法制は官僚大権に属する物とされ勅令ないし枢密院令に依って定められていた。決定的な限界が議員内閣制が未だ確立されて居らず内閣は君主によって任命され閣僚の多くは官僚出身である。
憲政と行政の対抗20/03/08(30B)内閣総理大臣は議会勢力として超然とした存在であり得た事であったが立憲君主制の下では議会勢力はその意思を官僚制の隅々にまで深く浸透させその行動統制術を持たなかった。(31)政治的妥協憲法構造下でも議会勢力が政治的実力を蓄えてくるように成ると超然内閣総理大臣を継続させる事は事実上難しくなる。行政府は予算案法律案の議会通過を確実にする必要上に議会内に行政府を支持する勢力形成して維持しなければ成らなくなる。議会内に政治与党と雇うの党派対立が発生する。(32)議会自立性が更に強まって行くとPoliticalPartySystem=政党制が確立される。こうして一度政党政治が確立されると議会内多数党の領袖(りょうしゅう)を内閣に任命せざる得ない事態に直面するが経緯を辿り立憲君主制下誕生した政党内閣に因る政治が一般に憲政と呼ばれる。(33)議員内閣制萌芽と言うべき憲政が定着して政党内閣に依る政権交代状態に成ると政党対立が官僚集団の内部に迄浸透する事はある程度まで避けられない。官僚は議会立法に従属すべき存在であるのみならず政党内閣執政に従うべき存在に成ったからであるが憲政時代にしばしば発生した官選知事と警察官に因る選挙干渉などの事例はこうした現象を示す一端である。
情実任用と猟官制20/03/08(34)立憲君主の下では官僚制自立性は総じて強固だったので大幅に崩され官僚制が全面的に政治化し党派化する様な自体は起こらなかったといってよい。(35)仏国の憲法構造が帝政王政共和制の間を目まぐるしく動いていた時期に独国統一され立憲君主制の下で華々しい発展を見せていた時期に英国と米国では既に議会主権ないし国民主権の憲法原理が確立され近代民主制の政治が全盛期を迎えていた。(36)英国議会勢力が市民革命家庭直面した第一課題は常備軍処置であった。(37)1640年来に始まったピューリタン革命に際し群の中でも議会側支持を誓った部隊を迎え入れ此れを中核に新しいNewModelArmy=議会軍を編成し指揮して内戦に勝利を収めたのであったが内戦が終息に近づいて常備軍の存廃問題が論議の俎上(そじょう)に昇った。軍は此れまでに国王の恣意的な支配を支えて来た存在であり将来に於き人民に対する抑圧装置になりがちの者として忌避されて国防は専らはmilitia=民兵制度に依るべきだとする意見が多数を占めていたと言われていた。(38)内戦完全終結時間が掛った為議会は此の間に叛乱(はんらん)法を制定して法律に議会軍を向こう一年に限り存続させる旨の規定を置いた。時間規定を毎年繰り返し更新方式が続けられたが時限期間延長がされそれ自体抹消して軍存続恒常化する結末に終る。
議員内閣制の確立20/03/08(39)英国議会勢力はこうした経緯の中で軍存続は一重に議会意志に拘る者で在る事を明確にして国王軍を議会勢力に忠実な軍隊に変えながらCivilianControl=文民統制かCivilianSupremacy=文民優越の原理と称される者を確立した。(40)英国の議会勢力にとって第二の課題は議会内閣制の確立である。共和勢力の代表が議会に集結して立法権掌握しても外交国防方針を含む国政全般に関する施政方針定めて予算案法律案を立案して官僚制に依る行政活動統制内閣議会から独立存在であり続けるので在れば議会は先の立憲君主制時代議会と何ら異なるところが無い。共和勢力統治全般に渡り実権掌握するには議会立法権のみならず内閣行政権まで掌握しなければ成らない英国共和勢力は1688年の名誉革命経て議員内閣制確立に至る。(41)議員内閣制は議会共和勢力選出の代表が内閣を構成する。言い換えると内閣議会共和勢力執政委員会に変える仕組みに他ならなかった。立法府と行政府を調整し統合する政治指導の中枢機関になった。英国の国王が君臨すれば統治せずという地位に退いたのはこのとき以来である。(42)英国共和勢力に残された第三の課題は先の軍に対する文民統制場合同様国王に忠勤を励む旧来の官僚制を共和勢力に忠実な官僚制に変えることであった。

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