秋紀 芳慧 (Yoshie Akinori)

安保改正法反対

朝NHKのFMをつけると、国会中継をやっていた。

 

ここ最近安保改正法案の審議についてニュース等をチェックしていたが、政府というものが信用できなくなった。

それは、東北の震災を経て被災者支援及び、原子力発電所の再稼働および汚染水などの諸問題、沖縄の普天間基地を辺野古移転に伴う政府の行動、東京オリンピック新国立競技場関連の数々の問題、そのどれもが政府絡みでどれも悪い結果である。

国会中継も時々聞いたが、議論も相談でもなく、与党vs野党、大臣vs野党で攻防をしているだけだ。信用ができない答えばかりで、感情にまかせてしゃべる議員も多い。

安保改正法案可決を望む声は、これからの日本の国防を考えてアメリカと行動を共にすることが国を守ることだという。

しかしそれを僕は素直にうんとは言えない。日本周辺で紛争が発生した場合ということなら分かるが、総理大臣やその他閣僚もそれぞれしっかりとした答弁はない。状況に応じてとか不透明な答えばかりだ。

世論も反対多数だが、安倍首相は時が経てば理解してくれるという。

国民とはなんぞや、そう考えたくなる。

われわれが自分の好みの国を選択できる日がくればいいのにと思う。A内閣の国とB内閣の国。いいと思うほうの国を選んで選んだ国に税金その他を納める。

もうみんなうすうす分かっている。経済的発展は終わった。豊かな人は一握りだけだ。国は下り坂である。高度経済成長は終わり、今のように好きなものがいつでも食べられる時代は終わる。

政府は信用できないし、これからは政府を信用しなくてもいいようにわれわれ国民がバージョンアップした人間であることを求められてくる。

日本国という概念はいらないかもしれない。

 

 

昨日友人が我が家に遊びに来てくれた。

そこでいろんな人が精神的に病んでいるという話が出た。オリンピックやら公共事業やら株価やら景気やらそんな話題よりも日本人が疲弊している。弱っている人間をけしかけてがんばれといってもがんばりはきかない。個人が弱まっている。

身体的な能力も急速に衰えているように感じる。遠近がつかめない若者の話も聞く。

自分がなにをするのかをよく考えなかればならないとひしひし思う。自分だけでなく各人それぞれが自分のことを考える。「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉は、自分自身の意見を持っているもの同士が議論をするという前提のもとに成り立つ。

自分をしっかり意見を持つということは、自分で考え、身体的な感覚も使って感じたことを信用して自分の意見にすることだ。

わたしたちはそれぞれの個人的能力を高めることが必要である。

 

昨今日本各地で災害がたくさん発生するようになった。それもなにか土地がわたしたちに教えてくれているようにも思える。


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