ブックメモリー

とりとめなく書いてます(/・ω・)/ブーン
読んだ本の感想、作家について、日々考えていることなどなど。

上着は応援ユニフォーム・ズボンはコスプレ

2019年10月26日 09時18分29秒 | 雑記


数か月前、私はポッケのついていない短パンを探し求めてひとり、ショッピングモールをさまよっていた。


ズボンにポッケは基本的には必須である。
なぜそんな不便極まりないものを必死になって探し回ってたのか・・・ともかく、そう、とにかく私はポッケのない短パンが早急に必要であった。

いくかの店をまわったあと得たのはそういった類のものはありそうでないという事実のみ。ほとほと疲れ果てていた。
残念ながらなかったからはい、そうですかと済む問題ではない。とにかく確実に3日後までにはポッケのない短パンを用意しなければならない。
そのとき私はおなかも空いていてかなり追い詰められていた。

そんなときに目に留まったのが、催事場のラグビーワールドカップの特設ショップだった。

そのときはまだ大会開幕直前。「タイミングがあえばニュージーランドのハカは観たい」くらいの認識だったがせっかくなので
ユニホームを着せられたマネキンを見る。
桜のマークが可愛らしい赤と白のストライプ。おや?
私は気がついてはいけないことに気が付いてしまった。イケナイと思いながらもユニフォームの上着から、ズボン、つまり短パン部分に視線をやる。

ない。ポッケが・・・ない!

助かった!長い旅もここで終わり。
レプリカユニフォームである。少々―のちに少々ではない金額に震えた―良いお値段であることは間違いないだろうが、ここであったが百年目。
買ってはやくラーメンを食べにいこうと決意した。
特設ショップ内は幸い、店員さんのほかにお客さんも何人かいた。店員さんは他のお客さんの接客で忙しい。これ幸いと棚を物色する。
しかしいくらショップ内の棚を見回しても、ズボンがない。上着(シャツ)しかない。
おかしい。まさか売り切れてしまったか。私は焦った。棚を行ったりきたりする。やはりない。店員さんに聞こうとも思ったがそんなハードルが高いことは腹ペコな今は無理難題に近い。

そうか、上着のほうが高いからみなズボンに流れたのか・・・
しばらく棚をかき回したあと、いいかげん私は悟った。
それでとぼとぼとショップを後にする。これでまた振り出しに戻ってしまったと嘆きながら。

むなしくラーメンをすすりながらも、往生際悪く某フリマアプリでおさがりを検索する。
だが、不思議なことにレプリカユニフォームのズボンはどこにもない。
さすがにここで私も気がついた・・・もしかしてズボンのレプリカはそもそも売っていないのでは、ということに。

収穫ゼロの寂しい帰り道、あれこれ思いを巡らし、私なりのある持論に達した。
それすなわち「上着はセーフ、だがズボンをセットにするとアウト」

レプリカユニフォームも上だけきつければ「応援着」だが、レプリカのズボンまでセットで履いてしまうこと、
それはもはや「コスプレ」で、ある一線を超えることなのだ。
思えばプロ野球のグッズ売り場でもレプリカユニフォーム(上着)しか観たことがない。ズボン(パンツ)はない。


つづく






ブームに乗るのは命がけータピオカ片手の猛者ー②

2019年10月25日 22時26分38秒 | 雑記

しつこいようだがブームに乗りたい。


タピオカ、インスタ、ナイトプール、花椒、イイねダンス云々。
貧弱な私の脳内データではこれくらいしか流行り(ったもの)が思い浮かばないのだが、
ブーム、あるいはブームにうまく乗っている人というのはとにかく揶揄されがちであるが私はうらやましくってしかたない
揶揄するなんてとんでもないこと。そう、最前線ひた走る彼らに対する私の嫉妬心はあまりにも醜い。

私だってイイねダンス踊りたい。タピオカ片手にさっそうと原宿を闊歩したい。
ナイトプールで写真をとってインスタグラムにアップしたかったなどなど。

そんなにやりたければ一人でやればイイだろ、と思うだろう。
別に一人でやるのは構わない。
だが、今までの経験則からそれらが一切様にならないから困っているのだ。

タピオカ屋さんに並んで、注文し、購入することはオトナなのでさすがにできる。
だが、そこからが問題だ。飲みながら原宿をぶらぶらするにも様になるにはそれなりに姿が決まっていなければそれはもう
タピッているとは言えない
もさもさとした服装、野暮ったい大きなリュック。写真をとろうとスマホを探すも、どこに入れたか忘れあわあわとタピオカドリンクを右手左手に持ち替えながらリュックサックをかき回す・・・挙句、手ぶれ修正機能がある程度ついているはずなのにブレる写真・・・
これはタピッているとは言えない

思えば、小学生高学年のころからそれなりに周囲のブームに乗ろうと頑張ってみては徒労に終わることが多かった。
あるときミルキーペンが流行り、親に土下座する勢いで頼み込んで買ってもらったのだが、それをうまく使いこなせない。
なぜだろう。友人たちはそのペンをもってしてノートをおしゃれに、いきいきと着飾らせている。
お手紙もミルキーペンでかわいく書いて、可愛く折ってくれるのだ。
でも、私にはなぜかそれらがどうしてもできない。

なぜだろう。なぜだろう。焦っても、どうしよもならずあえなくペンは筆箱の下に沈んでゆく。
やがて自室のペン立てに格納―と、いう名の放置―されたそれは、視界に入るたび私を責めるようだった。
流行ものをうまく使いこなせない。それが私である。

だからこそ、私は簡単にぼっちでも乗れそうなブームを逃すわけにはいかないのだ。



2019-10-25 17:58:29 初投稿
2019-10-25 22:26:38 修正



ブームに乗るのは命がけータピオカ片手の猛者ー

2019年10月24日 21時43分20秒 | 雑記

ありとあらゆるブームに乗れないので、とにかく乗れそうなものがあるとなんとかしがみつこうとするのが私である。

先月、増税を控え小売店などは「増税前に買いだめ!」と宣伝し特売セールをするところも多かった。
これはチャンス
タピオカ片手に渋谷を闊歩することは無理だが、増税前に買いだめはすることくらいは私にだってできる。
これで職場で困ったときに話す世間話のネタができるではないか。
「だから、トイレットペーパーは絶対に使うかな、って思って。買いだめしておいたんですよ」
これはおいしい。ブームに乗れた上に、職場での雑談のネタも1つ増えてしまうではないか。

そんなわけで、ブームに乗りたいという野望と職場での雑談ネタゲットという下心とともに、旦那に買いだめをしたいから買い物に行こう!と提案したわけなのだが、結果即「そんな何円かのことで」と鼻であしらわれた。
よく考えたら8パーになるときも同じ返しをされた気がする。

このようにブームに乗っかるというのは他人の嘲笑に如何に耐えうるかという鬼のようなメンタルが必要になってくるのである。

そう、ブームに乗るということは実は命がけなのだ。
道をあるけば皆タピタピしている今日この頃、その全員が私には99レべの猛者に見える。

タピオカははじめから諦めていた。
そう、だからこそ増税前の買いだめにかけていたのに・・・
当然ながら触れると壊れるどころか爆発するほどもろい私のメンタルは即やられ、
買いだめもできず、
雑談ネタもゲットできず。
残ったのは割れた私のグラスハートのみだった。

そうは言っても積もればそれが20,30円となるわけでこれはもやし1袋分に相当する。もやしがあればなんでもできる。
これは相当なことではないか・・・

と、気が付いたときにはもう10月になっていた。
寒さが日々増してきたが、私の懐はもともと寒い。





総勢18万人を擁するグループの一員となる

2019年10月22日 21時41分25秒 | 雑記

先日私は総勢18万人を擁する、あるグループの一員となった。

新しい空間に思い切って飛び込み、戸惑うこともたくさんあるけれど日々ドキドキわくわくしている。
多少自分の信念を曲げたことになったが、後悔は今のところない。

大げさに言ったがなんてことはない、ツイッターをはじめ、とある著名人のフォロワーになったのだ。

ツイッターの機能をいまいち把握しきれず、用語がわからず戸惑っており、信念を曲げたというのはツイッターやインスタグラム等のSNSはヤラナイゾ!と勝手に決めていた極めてどうでもよい自分への誓いを曲げたということである。
アカウントは匿名で、誰にも教えていないしこれからも教えるつもりもない。

このアカウント、「絶対に個人特定をされないよう、また趣味嗜好がばれないよう、日々どうでも良いことをつぶやく」という目的(練習)をもってはじめたものなのだが、これが結構難しい。
何が難しいかというと、趣味嗜好がばれないようにという縛りがかなり発言の制限を産むのだ。
なぜかと言えば例えば昼に「カレーを食べた」ということをツイートしてしまうと、1回だけならともかくそんななんの変哲もないものでも一週間、一カ月、1年と続けていくどんどんと蓄積されていき、やがてそれはデータとなる
つまり「こいついつもカレー食べてやがる」→「つまりこいつはカレー好きだな」と、カレー好きがバレることになる。
(※カレーはあくまで例です)
そんな暇な奴がいるのか、とかお前のツイートを分析する価値があるかどうかは置いておく。
世の中何が起こるかわからないのだ。


別に自分が何かをしたわけでも―唯一したことといえば、その著名人のアカウントを検索してフォローボタンをクリックしただけ―日常生活で友達が爆発的に増えたということではないのだが、なぜだがこの「18万人のフォロワーを要する著名人(自分の好きな芸能人)をフォローしている状態」というのがぬくぬくと、昼間干した布団に夜くるまるかのごとく心地よい。

・・・しかし、後ろめたい気持ちも多いにある。
そう、私は「絶対に個人特定をされないよう、また趣味嗜好がばれないよう、日々どうでも良いことをつぶやく」という練習を目的としてはじめたとか何行か前で偉そうに言っていたが、あっさり欲望に負けツイッター開始3週間目にしてついに好きな芸能人をフォローしてしまったのだ


誤爆ツイートをする日は、もうすぐそこに来ている。
自分を全世界にさらけ出しているという意識は忘れてはいけない。





読書と音楽ー秋、感動したいー

2019年10月21日 21時40分51秒 | 雑記


読書感想文を書くことと音楽鑑賞文を書くことがこの上なく苦手である。

音楽鑑賞の課題を出された小学生の時分、事前に先生が「冒頭は川のせせらぎを表現し~」とか「~ここで鳥たちが一斉に飛び立って・・・」という解説という名の公式カンニングをさせてくれたのにも関わらず、冒頭川のせせらぎも聞こえず鳥もどこにもいなかった、というよりは私の耳には聞こえず。
曲を聞き終わっても何も思い浮かべることができず、苦心した挙句ひねり出した感想は伝家の宝刀「楽しかったです」。
(しかし小学生だから許されるだろう)
読書感想文に至っては、9月1日朝の会直前に半泣きで仕上げていた。そんな体たらくである。

読んだ本の感想をブログに載せたいと始めたこのブログに、いつまで経ってもロクに本について触れないのはこれが原因である。
ブログを立ち上げて半ば無理やり心を奮い立たせてみたものの、結局無理なものは無理・・・なのかもしれないというのが今のところの結果だ。

読書家と胸を張っていえるかどうかは置いておくとしても、小さいころからあれこれと本を読んできた。
唯一値段を見ないで買うのは本なのだ・・・が。
そもそも私は読んだ本の感想をいうことがとても苦手な上、下手くそだ。これはコミュニケーション能力の著しい欠如が原因であるのでもう諦めている。
それならば、と文章で表すことを思い立ったのだが、結局は同じことだった。何度も繰り返すがそういうことなのだ。

では、なぜ面白いと思った本の感想を文章でも表せないのだろうか。

実は私は本を読んだり、音楽を聞いても感動しないのだ
感動という感情が実はよくわからない。
深く心に色々な意味で刻まれた物語はある。墓に持っていきたい本もある。
しかし涙を流して「感動」し、その後私のバイブルとなった本は悲しいかな、まだない。
なぜだろう、と10年くらい前はそこそこ悩んでいた。
こんな私を導いてくれる本がキットあるはずだ、と。だが、それから○年経った今現在でもまだ現れない。

「良いな」と思うことはよくある。「すっごい良いな!」もある。
だけれど感動はない。
多少でも心を動かされればもしかすると「感動」なのかもしれないが、なんだか違う。きっと違うのだと思う。もっとこう、深く深ーく一切意図していないのに涙がでるような、そんな「感動体験」を私はしたい。

良い曲(あるいは好みの曲)を聞けば良いと思い、物語を読んでいて悲しい場面があれば涙がでるのは当たり前だ。
これは感動ではないはずだ。
もっとこう・・・何と言えば良いのか。

いや、もう良いだろう。
それよりもせっかく立ち上げたブログだ。
読まれるかは別として自分の中で掲げた目標は達成したい。★の数等で何かを表すなどきっとやり方はあるはずだ。

・・・そんなことを想いながら、毎日きままに読み散らかしては読後「楽しかったな」と1人胸の内で感想を述べた後そっと私は本を閉じるのである。


2019-10-21 22:11:36 初投稿
2019-10-22 21:40:51 誤字訂正