両親が今年結婚50周年なので
金婚式のお祝いをしに実家へ帰省してきました。
50年目の結婚記念日には松島のホテルに泊まり
孫娘たちの司会進行によるお祝いの会を行いました。
記念品として贈呈した色紙です。
上半分が表紙側
下半分が内側になっています。
3月は超がつくほど忙しかったので
帰省直前になってしまったけれど頑張って作りました。
表紙の文字は私が工作しました。
左側の絵は下の娘の作で、
なかなか特徴を捉えているな~と思います。^^
結婚50年、
苦しいことも楽しいことも
いろいろあった年月だったと思います。
でも
こうして両親が二人揃って元気に
金婚式を迎えられたことに感謝です。
これからも、仲良く元気に
二人で年を重ねていってほしいと願っています。
ところで
日本三景の松島は
湾のなかに大小さまざまな島があるので
東日本大震災の折、津波による被害は少なかったそうです。
訪れた日も海はとても穏やかでした。
ただ、宮城県北部では
今も屋根にブルーシートがかけられている家も珍しくなく
地震で壊れた屋根の修理がまだ進んでいないようでした。
松島に行ったとき、少し足を伸ばして
震災で津波の被害に遭った石巻を訪れました。
そして津波に呑まれ、
多くの子どもの命が失われた大川小学校を訪れました。
更地となって何もない河原に忽然と現れた校舎。
強風にあおられて辺りには土埃が舞い上がっていました。
その校舎の前に慰霊碑が立てられていて
訪れた人々が黙って頭を垂れ、祈りを捧げていました。
写真は撮りませんでした。
2階建ての校舎の屋根が海水を被ったせいで
茶色く錆付いていました、
コンクリートの柱が津波の力でへし折られていました。
校庭一面に粉々になった木片が散乱し、
子どもたちが使っていたペンケースやハンカチや靴底などが
土に埋もれていました。
その光景を目の当たりにして
一緒にいた私の子どもたちは
言葉を失ったように無口になりました。
そして私も…。
私は子どもたちに
津波によって失われた街、失われた人々の暮らしを見せたいと思いました。
今までテレビで何度も見てはいたけれど
実際にその地に立って自分の目で見て感じることが
事実を一番理解しやすいのではないかと思ったからです。
震災から1年経った今もなお、
元の暮らしに戻れないまま、そして心に深い傷を負ったまま
必死に復旧・復興のために頑張っている人たちがいる、
そういう街があるんだということを
子どもたちの心にしっかりと刻んで欲しいと思うのです。
震災を
忘れてはいけない
そして
伝えなければならない
子どもたちへ
その子どもたちへ
そのまた子どもたちへ
ずっと ずっと
永遠に
それが今を生きる私たちの
責任だと思うのです。
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