2000年1月11日
二重構造
涼しい良い天気。リゾート地は穏やかで、バリの気候はこんなにも良いものかと驚いていることだろう。国内からの観光客でクタやレギャンはごったがえしている。
今回の渡バリの目的は、会社規程の整備である。会社を一人前の成人にしていこうとするならば、必ず通る橋のようなものだ。
昨日の問いをする暇がなく、会社規程のうちの就業規則から、検討に入り始めた。日本語から英語へ、英語からインドネシア語にしながらの作業である。労働基準監督署には、外国法人は、インドネシア語と英語の二通りの提出が必要なのである。
ここでも、当然、僕らは、規程を二重構造の中でどちらをも充たすよう模索することになる。バリの習慣、バリの村々に生きる人々は、時に法というものを無化してしまうという出来事を昨日聞いたばかりなので、絶えず危惧がつきまとう。労働法には、働く人の為に、会社と社員が共に作り、会社と個人を発展させてゆこうとする理念がある。会社は、この規律を守り、また労働者も守るべきものである。危惧とは、このようなものである。
労働法を無化することもできれば、逆手に取ることもできるのではないかという疑心である。二重構造ゆえのしかたのない疑心である。
思えば、この疑心は、バリ人の一人一人の心の中にもある。僕が会った人の数、その限りで言えば、見知らぬ人を信用するまでかなり慎重で時間がかかる。
例えば、ワイロが系列だっている。商売をするにも、たまたまマネージャーと交渉することになると、売上の5%などと要求してくる。航空券しかり郵便局しかり。あらゆるところで、この種のワイロが裏側で行われる。会社は、まともな決算、まともな税金を払うこともできかねるという環境なのだ。
となると仕入れに行かせる場合でも、二人で行かせて牽制させるか、現金仕入れをなくし、相手にも受書や納品書など徹底させるか、などしなければならい。初めのうちそんなことをしていたら仕事にならない。まず人を疑うことから始めなければ、という気持ちが僕らよりもずっと強く、そうあらねばならない相互作用が人々の間に充満しているように思える。
物盗りを捕まえても、警察は信用できない。物盗りも警察を信用していない。警察は行政府を信用していない。行政府は政治家を信用してない。そんなもの信用しなくったって我々は生きていけるんだ、というたくましさも垣間見えるのだが(きっと戦後の日本もそんな風だったのだろうが)。
このきりのない、やるせない疑心は、思えばアメリカなどの法で整備された社会の正反対の位置にあるものだ。アメリカなどでは、疑心は徹底して法によって明文化され、システム化されている。バリでは、疑心はそのまま人々の心の中にいつまでもあり、時に法を無化する。
アメリカ人やイギリス人、南アフリカ人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人という英語圏の人々と仕事をしてきた僕がいつでも法を無化したり、突然法の方に身をすりよせるのではないかという段階の人々と共に仕事をしている。
ランダやバロンが村を守り、人々を守り、という中で、法によってしか成立できない法人はどのようにして守られるのか、僕には未知である。
2000年1月12日
死んだ者はどうなるか
さて、「殴り殺された三人の男たち、つまり死んだ者はどうなるのか」という問いに対して、イダ(シガラジャ出身、デンパサールの村在住 三十一才)とオカ(サヌール出身、サヌール在住 三十二才)は、どう答えたか。
答えは単純だった。「どうにもならない。無くなるだけだ。三人の者たちは他の島からやってきたのでバリ人ではない。つまり宗教も違う。それに関して感知しない」ということである。「バリ人だったらどうなるのか」という問いには「また罪を背負って、生まれ変わってくる」と答える。「よっぽどひどい者は動物、たとえば牛とか豚、鶏とかになって生まれてくるだろう」という。
「殴り殺した」という罪の意識を村人は持っているだろうかと聞くとたぶんないだろうと答える。人一人一人の重い生命を抹殺してしまったと言うこと、他人の家に忍び込むにはそれなりの事情があったのではないか、という思い方はしないようだ。
「もちろん、俺たちは他人の家に忍び込むようなことはしない」と結論づける。
親鸞がいうような「今、人を千人殺せと言われても、人というのはできるわけではない。しかし、殺す縁(契機)さえあれば、誰にでも人を殺してしまうことがあり得るものなのだ」という思想は別のとらえ方で処理されてしまっているように思える。
親鸞は、善と悪をウラとオモテの一体とは考えておらず、遠くの方(死の方)から善悪を眺め、相対的な善悪を我々の人間関係や社会の中で色の変化のようなものとしてとらえている。善いことをしようなどと思ったり、計らったりすることが、悪にもなってしまうというような変色である。
しかし、察するにバリの村々の行為やイダやオカの思い方、述べ方からすれば、悪は悪で絶対的に切りとり、善は善で絶対的であるかのようだ。
悪の化身であるランダは怖い。怖いからランダをねんごろに祀れば、ランダも気分をよくして、我々人間や村の味方になってくれる、というバリの伝統的な考え方は、人間関係や社会の中で、実は相対的に善悪をとらえているのではなく、ウラがオモテになるのではなく、ウラにオモテがあり、オモテにウラがあると相反しながら同じものという絶対的なもののようである。善悪を誰を中心としてみるか、という位置のとらえ方も親鸞とは違っている。親鸞は遠い位置からみている。
バリでは人々は、「自分を守っているもの」ということを中心において、都合よく善悪を考えていると言ってもいいかも知れない。
悪は怖い。だからねんごろに悪を祀れば、自分に危害を及ぼさないだろう。とすれば、自分にとって悪は善になり得るのである。
以上、全て推測に過ぎない。まだ、バリ人に共通する無意識や意識を知らなすぎる。
若い人々や事業での成功者の中には、村の厳しいルールを嫌がって緩やかなルールの村や新しい住宅地に住みたいと思ったり、実際に住んでいる人々も出てきている。しかし、今から先は未知なのだ。他の社会をひっぱり出してきて段階的にあてはめていくと、僕らのほうが間違えることになると考えている。
二重構造
涼しい良い天気。リゾート地は穏やかで、バリの気候はこんなにも良いものかと驚いていることだろう。国内からの観光客でクタやレギャンはごったがえしている。
今回の渡バリの目的は、会社規程の整備である。会社を一人前の成人にしていこうとするならば、必ず通る橋のようなものだ。
昨日の問いをする暇がなく、会社規程のうちの就業規則から、検討に入り始めた。日本語から英語へ、英語からインドネシア語にしながらの作業である。労働基準監督署には、外国法人は、インドネシア語と英語の二通りの提出が必要なのである。
ここでも、当然、僕らは、規程を二重構造の中でどちらをも充たすよう模索することになる。バリの習慣、バリの村々に生きる人々は、時に法というものを無化してしまうという出来事を昨日聞いたばかりなので、絶えず危惧がつきまとう。労働法には、働く人の為に、会社と社員が共に作り、会社と個人を発展させてゆこうとする理念がある。会社は、この規律を守り、また労働者も守るべきものである。危惧とは、このようなものである。
労働法を無化することもできれば、逆手に取ることもできるのではないかという疑心である。二重構造ゆえのしかたのない疑心である。
思えば、この疑心は、バリ人の一人一人の心の中にもある。僕が会った人の数、その限りで言えば、見知らぬ人を信用するまでかなり慎重で時間がかかる。
例えば、ワイロが系列だっている。商売をするにも、たまたまマネージャーと交渉することになると、売上の5%などと要求してくる。航空券しかり郵便局しかり。あらゆるところで、この種のワイロが裏側で行われる。会社は、まともな決算、まともな税金を払うこともできかねるという環境なのだ。
となると仕入れに行かせる場合でも、二人で行かせて牽制させるか、現金仕入れをなくし、相手にも受書や納品書など徹底させるか、などしなければならい。初めのうちそんなことをしていたら仕事にならない。まず人を疑うことから始めなければ、という気持ちが僕らよりもずっと強く、そうあらねばならない相互作用が人々の間に充満しているように思える。
物盗りを捕まえても、警察は信用できない。物盗りも警察を信用していない。警察は行政府を信用していない。行政府は政治家を信用してない。そんなもの信用しなくったって我々は生きていけるんだ、というたくましさも垣間見えるのだが(きっと戦後の日本もそんな風だったのだろうが)。
このきりのない、やるせない疑心は、思えばアメリカなどの法で整備された社会の正反対の位置にあるものだ。アメリカなどでは、疑心は徹底して法によって明文化され、システム化されている。バリでは、疑心はそのまま人々の心の中にいつまでもあり、時に法を無化する。
アメリカ人やイギリス人、南アフリカ人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人という英語圏の人々と仕事をしてきた僕がいつでも法を無化したり、突然法の方に身をすりよせるのではないかという段階の人々と共に仕事をしている。
ランダやバロンが村を守り、人々を守り、という中で、法によってしか成立できない法人はどのようにして守られるのか、僕には未知である。
2000年1月12日
死んだ者はどうなるか
さて、「殴り殺された三人の男たち、つまり死んだ者はどうなるのか」という問いに対して、イダ(シガラジャ出身、デンパサールの村在住 三十一才)とオカ(サヌール出身、サヌール在住 三十二才)は、どう答えたか。
答えは単純だった。「どうにもならない。無くなるだけだ。三人の者たちは他の島からやってきたのでバリ人ではない。つまり宗教も違う。それに関して感知しない」ということである。「バリ人だったらどうなるのか」という問いには「また罪を背負って、生まれ変わってくる」と答える。「よっぽどひどい者は動物、たとえば牛とか豚、鶏とかになって生まれてくるだろう」という。
「殴り殺した」という罪の意識を村人は持っているだろうかと聞くとたぶんないだろうと答える。人一人一人の重い生命を抹殺してしまったと言うこと、他人の家に忍び込むにはそれなりの事情があったのではないか、という思い方はしないようだ。
「もちろん、俺たちは他人の家に忍び込むようなことはしない」と結論づける。
親鸞がいうような「今、人を千人殺せと言われても、人というのはできるわけではない。しかし、殺す縁(契機)さえあれば、誰にでも人を殺してしまうことがあり得るものなのだ」という思想は別のとらえ方で処理されてしまっているように思える。
親鸞は、善と悪をウラとオモテの一体とは考えておらず、遠くの方(死の方)から善悪を眺め、相対的な善悪を我々の人間関係や社会の中で色の変化のようなものとしてとらえている。善いことをしようなどと思ったり、計らったりすることが、悪にもなってしまうというような変色である。
しかし、察するにバリの村々の行為やイダやオカの思い方、述べ方からすれば、悪は悪で絶対的に切りとり、善は善で絶対的であるかのようだ。
悪の化身であるランダは怖い。怖いからランダをねんごろに祀れば、ランダも気分をよくして、我々人間や村の味方になってくれる、というバリの伝統的な考え方は、人間関係や社会の中で、実は相対的に善悪をとらえているのではなく、ウラがオモテになるのではなく、ウラにオモテがあり、オモテにウラがあると相反しながら同じものという絶対的なもののようである。善悪を誰を中心としてみるか、という位置のとらえ方も親鸞とは違っている。親鸞は遠い位置からみている。
バリでは人々は、「自分を守っているもの」ということを中心において、都合よく善悪を考えていると言ってもいいかも知れない。
悪は怖い。だからねんごろに悪を祀れば、自分に危害を及ぼさないだろう。とすれば、自分にとって悪は善になり得るのである。
以上、全て推測に過ぎない。まだ、バリ人に共通する無意識や意識を知らなすぎる。
若い人々や事業での成功者の中には、村の厳しいルールを嫌がって緩やかなルールの村や新しい住宅地に住みたいと思ったり、実際に住んでいる人々も出てきている。しかし、今から先は未知なのだ。他の社会をひっぱり出してきて段階的にあてはめていくと、僕らのほうが間違えることになると考えている。