バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記10

2019-12-21 08:39:23 | 私の英語講習
2000年1月17日
LIZA HANIM


 のびやかな声で、テレビから聞こえてくる歌は、スンダ(インドネシアのダンス音楽)のような気もするし、西洋の雰囲気もする。またどこか日本の歌謡曲~ポップスの雰囲気もするが、とにかく歌がうまい。声が限りなくでるようで、曲線を描くようにのびる歌声は天性のものだろう。テレビ画面から急いで歌手の名前を写し取った。LIZA HANIM(リザ・ハニム)という。
翌日、スタッフに聞くと、みんな知っていた。マレーシアの歌手だという。今、バリでも人気なのだそうだ。
もう一人いる。SITI NURHALZA(シティ・ヌラールザ)。LIZAよりももっとポップスぽくなる。この歌手もまだまだうまくなるだろう。
 ポルトガルの大衆歌謡がアマリア・ロドリゲスによって芸術の域にまで達した。
西アフリカのモルナはシザリア・エポナによって喝采を浴びるようになった。
スンダ系の音楽(今のところなんと読んでいいかわからないが、たぶんジャンル名がでてくるだろう)にも、世界に通用していく人が現れるのだろう。

「これは良い」と思うときには、その歌や歌手は、もう時間の問題で昇りつめる寸前のところだ。シザリアを知ったのは、リスボンでアルファーマの店だったが、1年後、彼女はマイクロソフトのビル・ゲイツやクリントン大統領たちに招待され、歌を披露している。
まもなく、日本でも発売され、CDの種類の多い都会の店には、必ず3~4枚程のアルバムが店頭に並んでいた。
 きっと、LIZAは世界的な歌手になっていくと思う。
美空ひばりのうまさとホイットニーのうまさをイスラムで乗けてしまったようなうまさである。


バリ記9

2019-12-21 08:31:22 | 私の英語講習
2000年1月15日
バリの女性

 昨夜はバリの女性スタッフ達が日本食に挑戦する気持ちがあるというので、日本食レストランに連れて行くことになった。クニンガンで休日を楽しみたいという雰囲気がある。寿司のわさびの効き方は鼻と目に来るので、以前イダはびっくりしてしまい、それから寿司は避けるようになった。申し訳ないサービスのしかただった。昨夜はその点は避けて、とりあえず食べれそうなものを選び、ちょっとずつ食べて、日本料理もよいものだと思わせるよう工夫した。結果は上々だった。冷やっこ、もろきゅう、ぎょうざなどから入り、串かつ、そして親子丼を分けた。デザートにはミルクとあずきの入ったミルク金時をおすすめした
ここで食の違いについて語るのではない。女性の環境についてである。聞くところによる話である。一部貴族階級に見合い結婚もあるが、だいたいが自由結婚である。カーストもほとんど無視しているようであるが、カーストの違いは儀式のときなどに、手続の問題(例えば名前を変えるとか)として現れてくるが、大したことでもないようだ。
 僕の知る限り、かなり結婚願望が強く、出産願望も強いようだ。しかしながら日本のロック音楽の歌詞のような、病的とも思えるほどの恋への切なさや、恋での悲しみ、恋での歓喜、男女の心や神経や内臓等との一体感に焦がれるようなものではなく、おおらかさが感じられるような雰囲気を持っている。エッチな話などは穢れたものだとは思わず、恥じらい方も解放性が感じられる。個人的な幻想を共同の幻想や家族への幻想に収斂させているようだ。
結婚は村(パンジャール)の成員となるためには必須だから、つきあった男性とはひたすら結婚の道へ進むことになる。処女性も重んじられている。処女を失った女性はこの点が気持ちの上でひっかかるようだ。仕事については自分の代わりはいくらでもいるんだと思いたくない《個人意識》の強さはなく、仕事上などではいくらでも代わりはいるが子供を産むのは代わりはいない、という感覚。僕の言い方で表現すれば、そんなふうだ。
 一生独身でいることは、村生活の成員権、ひいては葬式などにも影響するから、その点では制度としての強迫的なということになるが、彼女らは「強迫」などとは決して思っていない。どこかに抜け道なり、空気孔があって、窒息死はしなくてすむようになっているのだろう。
離婚もあまりない。僕の女友達は離婚をしたが、老後、死後のことが一番の悩みの種であり、既婚女性からの中傷も多く、夫を寝取られるではないかと心配する女性も多いようだ。
総じてバリの女性の環境は以上のようなものであり、付け加えるならば、よく働くなあと思う。これは数人との話の中での印象に過ぎず、体験的ではないので、その旨付記しておく。

2000年1月16日
贈与


 世界の経済を平均化、あるいは分業化していくために、「贈与」という概念が新しく登場している。
富める国は、貧しい国にお金なり、物なりを援助の形で贈与する。お金を貸しても戻らなかったと言うメキシコやブラジルのような例から、贈与も積極的にとらえようという動きである。貧しい国から何もかも巻き上げてしまうための贈与ではなく、国々の自立を促すものだ。
スケールを小さくして言えば、ワイロも贈与の一種である。
バリの公務員の給料は低い。法律上、相続税や贈与税はないから、富める者はいつまでも富める者で、貧しい者が裸一貫からビジネスを興していくことは難しい。
 観光業に参入してもうけようという人たちには、まだしも成金になっていく可能性があるかも知れないが、それ以外には、利息の高さから言っても易しいものではない。日本の公務員は恵まれているが、それでもワイロが起きるのだから、バリでは、日常茶飯事となっている。
 多くの税を払う代わりにワイロ。許可をとるためにワイロ。商品を納めるのにワイロ。
これらの小さな贈与は当然経済に組み込まれていて、公務員たちの足りない給料を補っている。不正と言えば不正なのだが、仕方がないといえば仕方がない社会と経済のしくみである。
タクシーに高い料金をボラれる。買物の交渉で高く買ってしまう。それはお金を持っていそうな者にするので、我々日本人は毎日贈与している。
 経済社会が発展していくと倫理観も変化し、ワイロはいけないことになるかも知れないが、世界規模からこの問題を考えるとサービス産業が発展してしまって後戻りできない。
国は、贈与を行って、農、林、水産物など、それぞれ分業になりつつある国々から分けてもらい共に仲良くやっていくしか、今見出せる解決策がなさそうである。
小さなスケールの点では、贈与は禁止の方向に行きそうであるが、大きなスケールでは、贈与が責務のようになってきている。