台湾食材 BETHESDA KASHIWA

美味しい台湾食材をはじめ何だかんだ日々のこと書き綴ります。
クリスチャンファミリー

韓国の信仰の友より2025年2月5日・7日・8日・10日・11日・13日 いつも有難うございます。

2025-02-13 17:16:36 | 祈り
 韓国の信仰の友より2025年2月5日・7日・8日・10日・11日・13日 いつも有難うございます。 2025年2月5日 「死を飲み込む愛、涙をぬぐう恵み」 「主なる神は死を永久に滅ぼしてくださる。すべての顔から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(イザヤ書25:8)。「滅ぼす」と訳された「בִּלַּע」(ビッラー)は、「飲み込む」、「完全に呑み尽くす」という力強い動詞で、死が究極的に完全に除去されることを意味します。また「永遠に」(ラネツァハ)は「栄光」や「永遠の勝利」をも意味します。死の恐怖と涙の痛み、その深い淵を神様は直接扱われます。死を飲み込む力で私たちの最も根源的な恐れを征服され、同時に柔らかな御手で一人一人の顔から涙を直接ぬぐい取られる親密な姿の対比は、神様の救いがいかに完全で全人的であるかを示しています。単なる慰めではなく、死の恐怖を根本的に打ち砕きながら、そのプロセスの中で私たちの痛みに深く共感される神様の驚くべき愛です。全能でありながら親密な主よ、私たちの苦しみを終末的勝利に変えてくださるあなたの恵みに感謝いたします。 2025年2月7日 「堅固な町と救いの歌] 「「私たちは歌おう。私たちには堅固な町があることを。主がその救いをその石垣とし、またとりでとされる」(イザヤ書26:1)。イザヤ書26章は、神の民が神によって建てられた堅固な町['עִ֖יר'(イル)]を歌うことから始まります。'イル'は単なる居住地ではなく、保護と共同体を意味します。神の民が住む町の堅固さは、石や城壁からではなく、神の救い(イェシュア[יְשׁוּעָ֥ה])に由来します。それは物理的な救出ではなく、全人的な回復です。これは「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。塵に伏す者よ、さめて喜び歌え。あなたの露は光の露、それを亡霊の国の上に降らされる」(19節)という神の義なる裁きと救いの約束の中に具体的に現れています。絶望の中にあっても希望を抱かせる御言葉です。これは真に、今の困難の中にあっても神の統治を信頼して待ち望む民の告白です。主は必ずご自分の民を救い、義と平安をもって治められます。この希望を歌いましょう。 2025年2月8日 「絶えることのない見守り、止まることのない成長」 真夜中も、早朝も、昼の灼熱の日差しの下でも、あなたを守っておられる方がいらっしゃいます。「わたしは主、ぶどう園の番人。絶えず水を注ぎ、昼も夜も守り、だれも害することのないようにする」(イザヤ27:3)。これは単なる約束ではなく、今も続いている神様の誠実なお働きです。私たちはしばしば忘れてしまいます。私たちが眠っている時も、疲れた心で休んでいる時も、さらには神様を意識していない瞬間でさえ、休むことなく私たちを見守っておられる方(נָצַר、ナツァル[見張り人])がいることを。ぶどうの木が、自分の世話をする農夫の労苦を知らないまま育っていくように、私たちもそのように成長していくのです。このような絶え間ない見守りがあるからこそ、「根を下ろし」(שָׁרַשׁ、シャラシュ)、「芽を出し、花を咲かせる」(6節)という約束が可能となるのです。今日もぶどう園の番人である主は、見えない瞬間でも私たちを守っておられます。この誠実な見守りの中で、私たちは必ず成長していきます。時には遅く感じることもありますが、決して止まることのない主の御手が、私たちを豊かな実りへと導いてくださるのです。 2025年2月10日 何を土台にして生きていますか? 傲慢という麗しい冠も、結局は萎れてしまう一輪の花に過ぎません(イザ28:1)。私たちがそれほどまでに頼りにしていた人間の達成と栄光は、まるで砂の城のように脆い「偽りの避難所」に過ぎません。世界が提供するどんな安全装置も永遠に続くことはできないからです。しかし、主はこのような不安定な土台の上に新しい基礎を置かれます。「見よ、わたしはシオンに一つの石を置いて土台とした。これは試された石であり、尊く、堅固な隅石である」(16節)。この土台はすべての試練を通過した尊い岩であり、永遠に揺るがない堅固な基盤です。賢い農夫が季節に従って土を耕し種を蒔くように(24-29節)、神も私たちの人生で最も適切な時にこの堅固な土台を据えられます。私たちの傲慢さが崩れ、頼りにしていたすべてのものが消え去るとき、その時こそ神の永遠の土台が完全に現れる瞬間です。「それを信じる者は、慌てることがない」(16節)という御言葉のように、この土台の上に立つ者は決して揺らぐことはないでしょう。 2025年2月11日 「唇と心の間の深い谷」 「神の獅子」と呼ばれていたエルサレム(アリエル)は、今や生き残るためにエジプトに頼る立場となりました。皮肉なことに、彼らは自分たちを「ハカム」(賢者、知恵者、14節)と自称し、自分たちの政治的計算と宗教的形式を誇りにしていました。神は彼らに向かって「この民は口で私に近づき、唇で私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている」(イザヤ29:13)と語られます。神に唇は近づけますが、心は遠く置いているのです。表面的には敬虔なふりをしながら、自分の主張と理念を曲げずに生きていたのです。そのような彼らに主は語られます。「その日、耳の聞こえない者は朗読の声を聞き、暗闇の中にいた目の見えない者も、目を開いてはっきりと見るようになる。貧しい人々は主の前で喜び楽しむ」(18-19節)。これは御言葉を聞き、従う時に与えられる回復の約束です。礼拝の回数や奉仕の時間を誇る宗教的形式ではなく、神と隣人に対する真摯な愛と畏敬の念こそが大切なのです。 2025年2月13日 涙と恵み、その深く繊細な出会い いつからか、私たちの涙は静かな祈りとなっていた。ヘブライ語で「バーカー」という涙の言葉は、単なる涙を超えて、内なる深い嘆きと悲しみを意味する。時には言葉で表現できない内なる苦痛、耐え難い喪失感、そして時には無言の切なさが涙に翻訳される。「もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる」(イザ30:19)という御言葉は、まるで傷ついた魂の最も深いささやきのようだ。涙は単なる感情の排出口ではない。それは魂の最も純粋な言語であり、時には最も誠実な祈りでもある。苦痛の瞬間、私たちは言葉を失う。言語の限界を超えるその涙は、かえってより深いコミュニケーションの通路となる。涙は私たちの弱さを告白する静かな叫びであり、同時に回復を待ち望む沈黙の祈りでもある。そして、その涙への応答、まさに「恵み」という名の癒しが訪れる。恵みは私たちの不足を満たす神秘的な手触りである。私たちの限界を知る方、私たちの最も深い叫びを聞かれる方は、いつも私たちの涙を慰めの波に変えてくださる。涙は終わりではない。それは新たな始まりを告げる希望の前奏曲である。私たちの涙は決して無駄ではなく、その深いところで応答はすでに生まれつつある。 ハレルヤ   謝謝  
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(韓国) 2024/012/22オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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