台湾食材 BETHESDA KASHIWA

美味しい台湾食材をはじめ何だかんだ日々のこと書き綴ります。
クリスチャンファミリー

いじめに勝利しよう!(13頁中/6-9頁) ライター かみなか さとし

2012-01-15 00:21:01 | 祈り

いじめに勝利しよう!(13頁中/6-9頁) ライター かみなか さとし

ことを語っています。ましてや、「死ね」「お前なんかいなくなれ」と言っていじめをしている子どもや大人たちは、神さまからどんな裁きを受けなければならないことでしょう?
 私たちは日頃、どんな言葉を発しているでしょうか? 相手を励ます言葉でしょうか、それともけなす言葉でしょうか?
 ヤコブの手紙の著者は、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません」(ヤコブ3章9、10節)と戒めています。
 「賛美とのろいが同じ口から出てくる…」。すなわち、「神さま、あなたを賛美します」と言った後、舌の渇かないうちに「あの人、本当にバカだね」と人をけなしている…。これが私たちの実態ではないでしょうか? そんなことがあっては決してならないと聖書は言っています。私たちは神さまの助けを受けながら、舌を制御することを学ばなければならないのです。
 さらに箴言10章には、語ることに関して、実に示唆に富んだ言葉が多く書かれています。

 「心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる」(8節) 
「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある」(19、20節)
 「正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない」(20節)
 「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないため死ぬ」(21節)
 「正しい者の口は知恵を実らせる。しかしねじれた舌は抜かれる」(31節)
 「正しい者のくちびるは好意を、悪者の口はねじれごとを知っている」(32節)

 「言葉は人を生かしもし、殺しもする」と言います。あなたは「正しい者の舌」でしょうか? 「ねじれた舌をもつ愚か者」でしょうか? 私たちは舌を制御することを学んでいかなければなりません。そして、人を面白がったり、からかったりする場面に出くわしたならば、気持ちを強く持って「それは罪です! 神さまが悲しまれる行為です!」と注意してください。「本気にするなよ! 冗談だよ!」と相手は言うかもしれません。でも必ず、冗談が冗談でなくなる時が来ます。また、自分がそれをしているのに気づいたら、直ちにストップし、悔い改めてください。私も、そのことを自分に言い聞かせています。なぜなら、私もいつの間にか人を軽んじるようなことを言っている場合があるからです。いじめられる子ども、大人は、容易にいじめる子ども、大人になりうるのです。
 「面白がる」ことを罪として意識してもらうには時間もかかり、戦いもあることでしょう。それが日本の文化にまでなってしまっているのですから。でも言い続けなければなりません。いじめに発展する前に、またからかわれ、笑い者にされた人が自らの命を絶つまでに追い詰められてしまう前に。

こういう人は注意しよう

 いじめとは何か、なぜいじめはいけないのか、その理由について聖書の言葉から探ってみました。次は、いじめに対する予防策です。
 まず、こういう人は気をつけたほうが良いと思います。何か言ったあとに、「冗談だよ。本気にするなよ」という人です。こういう人は、自分の言った言葉がいかに相手を傷つけているかについて、全く罪責感をもっていません。むしろ、「冗談だよ。本気にするなよ」と言えば赦されると思っています。
 次に、人の弱み、欠点、失敗を攻撃してくる人です。私の場合は、気が効かない、おっちょこちょいなので、人の弱みを指摘してくる人にとっては、格好のカモでした。また、できる人ができない人に「そんなこともできないの?」、知っている人が知らない人に「そんなことも知らないの?」とあざける場面をよく目にします。
 しかし、人の弱みや欠点、足りない部分は、誰にでもあるものです。できる、できないは人によって個人差があります。知識の多少は趣味や好みによって随分違うものです。できなければできるように、知らなければ知るようにすればよいのです。しかし、いじめる側はその弱み、欠点、できないこと、知識の足りなさが、その子ども、その大人にとってとてつもなく大きな欠陥であるかのように吹聴します。
 次に、「バカ、死ね、うざい」などと言われて傷ついている人を見て、面白がって笑う人です。それは、直接手をくだしていない取り巻きに対しても同じことが言えます。ちなみに「笑い」は元気の素と言われます。しかし、健康的な笑いといじめる側の笑いは明らかに違います。人の失敗、弱点をあざ笑い、いじめられている人を見て笑う卑屈な笑いは、明らかに不健康です。本来、その場面では笑ってはいけないものなのです。
 最後に、外面と内面がはっきりと違う、ジキルとハイドのような二面性をもった人です。常習的にいじめをする子ども、大人は、概して二つの顔を使い分けている場合が多いようです。先生や友人、会社の上司や有力者にはいい顔を見せ、弱い立場にいるいじめのターゲットには残虐性を現します。さらに自分の仲間をいっぱい作り、集団で攻撃していくということもします。
 ある時、私に対してはとてもフレンドリーな方がいました。しかし、ある筋を通して、「この人は自分の部下に対しては本当にひどいことをする人だ」という情報を聞きました。私にはいい顔を見せ、他の人には闇の顔を見せているという場合もあるのです。
 「冗談だよ、本気にするなよ」と言い訳する人、人の弱み、欠点を攻撃する人、人がいじめられているのを見て笑っている人、表裏のある人…。私はこういう人たちに対しては距離を置くか、なるべく付き合わない、友だちにもならない、話もしないようにしています。そういう人と一緒にいるよりは、私の存在を心から喜び、フレンドリーに接してくれる、表裏のない、尊敬できる人と一緒に時間を過ごしたほうがずっとよいからです。
 しかし、仕事の同僚や家族にそういう人がいた場合は、どうしても付き合わざるを得ないので、対策を考えます。まずは、なるべく距離を置きます。また、カチンと来るようなことを言われても無視するか、反応しないようにします。しかし、そのいやがらせがあまりにひどい場合は、自分に対して侮辱するようなことを言った時点で、思いっきり怒ります。ある時は、手紙でなぜ怒っているのかを知らせます。それでも収まらなかったならば、信頼の置ける人に相談をします。
 もし、「自分は本当にダメな人間なんだ。死にたい」と思わせるほどのいじめに遭った時は、ぜひ繰り返し自分に言い聞かせてください。「私は高価で尊い存在なんだ」「神さまの最高傑作品だ」「私は愛されるため生まれたんだ」と。それが、ひとり子イエス・キリストのいのちと引き替えにあなたを神の子どもとして選んでくださった、父なる神さまのお心だからです。あなたをけなす、侮辱する、あざ笑うなどの攻撃は、全く無視していいのです。むしろ、神さまのすばらしい作品(まさにあなたです!)にケチをつけるような人を哀れに思いましょう。私はそういう人を見るたびに「可哀想に」と思いつつ、神の審判の座で裁かれないように、この地上にいる間に真の悔い改めができるように、と祈ります。

記録をつける

 次に、実際にいじめの中にいる子どもたち、大人たちへのアドバイスです。もし今、いじめに遭い、苦しんでいる人がおられるならば、『いじめと戦おう!』(玉聞伸吾著、小学館)という本を読まれることをお勧めいたします(玉聞さんのホームページURL http://www.ijimetotatakaou.com/ も参考になります)。その本の中には、いじめに対してどう対処すればよいのか、具体的なアドバイスに満ちています。その中で特に私は、忍耐強く、いじめについての記録をつけることをお勧めします。「いじめの記録をつける」ことは私も実践したことがあり、大きな効果があったからです。玉聞さんは、こう語っています。
 
 記録はとても大切です。とくに「どうしても」だれかに助けてもらいたいときに役立ちます。そして、いつ、そのときが来るかわかりません。(中略)記録をつけると、ちょっとはなれた目で見ることができるようになります。すると「なんでここまでされなくちゃならないんだ!」と強くなります。そのためにも記録をつけましょう。

 私はかつて、職場でいじめ、いやがらせを受けたことがありました。しかも、複数の人からです。彼らは明らかに私の弱点をついてきました。失敗を誇大に吹聴しました。私の言った意見にことごとくノーを言いました。それは実に巧妙、計画的で、上司に「私はこんないじめを受けています」と訴えても、「それは君の思い過ごしだ」と相手にしてくれませんでした。それでも私はいやがら
続く(13頁中/9-12頁へ)

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【サウロはパウロに】

2012-01-14 09:49:20 | 祈り

【サウロはパウロに】

心に自信を持ち、安らぎを抱き生きなさい。
シャローム

偶像礼拝の特徴は、
自分が変わろうともせずに、回りの生活環境に
突出(とっしゅつ)した責任転換で、自分が全て
正しいと自らが全知全能者のように振る舞うこと、
謙遜(けんそん)に身を委ねて歩みなさい。

パウロもダマスコまでの200K(約 東京から福島の距離)
を迫害のなかで確信に満ち溢れ歩み、サウロがパウロと
変えられて行ったのです。

パウロは、恵みをしっかりと受け取ったから
変わったのです。
人は、努力によって変わるので無く、霊(たましい)の
深い恵みによって変わるのです。

※ 恵みを受ける三つの法則
1つ目
自分の義が吹き飛ぶことを歓迎しなさい。
(恵みを受ける = 自分の自我である義が吹っ飛ぶ)
無意識の中で神様への反逆は、取り払われるのです。

2つ目
自分の共同体のなかで、しっかりとしたサポートを
受ける。(使徒の働き9章8-9節)

3つ目
見込みの無さそうな人に神の愛が注がれることを
信じなさい
(アナニアさんにも主の恵みは注がれたのです。)

サウロはユダヤ名
パウロはギリシャ名
ハレルヤ エーメン

2012年1月8日 東京サラン教会
メッセンジャー 坂本兵部牧師
使徒の働き 9章1-22節
「人は如何にして美しく変わるのか」

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いじめに勝利しよう!(13頁中/3-6頁) ライター かみなか さとし

2012-01-13 08:28:23 | 祈り

いじめに勝利しよう!(13頁中/3-6頁) ライター かみなか さとし

いじめ、いやがらせはクリスチャンの間でさえも起こりえます。でも、安心してください。イエスさまだけは、あなたの味方です。すべての人が見捨てても、すでに想像を絶するようないじめを体験されたイエスさまだけは、あなたと共にいて、あなたを激しいいじめの中から助け出してくださいます。

 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8章31節)

いじめとは「面白がる罪」

 いじめとは一体、どういうものでしょうか? 文部科学省が児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」だそうです。そして、いじめは何か特別な問題や背景があるから起きるわけではなく、そうした問題の有無とはさほど関係なく起きうるとしています。すなわち、ちょっとしたきっかけでいじめは発生し、広がってしまうというのです。
 実際に、みんなはどうして自分をいじめるのか、なぜ自分がいじめのターゲットになってしまったのか、悩む子どもたち、大人たちも多いと思います。私もまた、「なぜ、この私がターゲットにされ、いじめを受けなければならないのか? 自分にいじめられるだけの悪いところがあるからなのだろうか?」と悩んだことがあります。しかし、今はこうはっきり言えます。いじめはいじめる側の気まぐれによるもので、いじめられる側には全く問題はなく、100%いじめる側が悪いということです。

 私はいじめとは、「面白がる罪」だと考えています。すなわち、人をからかい、面白がる言動や行為から始まって、それが全体に伝染していくというものです。
 人間は誰でも失敗やミスをするものです。その失敗やミスを指摘し、矯正するために叱る、注意するのなら納得ができます。失敗した人はその言葉を甘んじて受け入れるべきでしょう。
 しかし、時として人は、その叱る、注意するという行為に加えて、「お前って、本当にドジだなあ」、「何やってもダメだなあ」、「バカじゃないの」といったメッセージを込めて伝えている場合があります。それがエスカレートすると「お前なんか、人間のくずだ」、「生きている資格なんかない」、「死んだ方がましだ」と、存在否定発言にまでいくことがあります。そして「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルをその人に貼りつけて、いつまでもそういう眼鏡でその人を見、集団でからかい、面白がる…。これが、いじめです。
 「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルを貼られた本人は惨めです。どんなに一生懸命頑張っても、いい働きをしても、いつでもそのレッテルがつきまとうのですから。私は、そんな非人間的な行為を「面白がる罪」と呼んでいます。

見逃される「面白がる罪」

 罪には、盗みや殺人、姦通など、行いの罪があります。これらの行為ははっきりと分かるので、明らかに犯罪として裁かれますし、やってはいけないことだと誰もが認めることでしょう。
 しかしこの「面白がる罪」は、主に言葉による攻撃なので、殺人罪や窃盗罪のようには法で裁かれません。一般的にそれが罪だとか、悪いことだとも決して言われません。なので、この社会では大目に見られてしまいがちです。いじめる側はそのことをよく知っているので、自分に害がおよばない範囲でいじめを繰り返します。
 実際に、いじめをする子どもや大人は、学校や職場では一目置かれている人たちが多いと言います。また本人もいじめのターゲット以外の子どもたち、大人たちには良い子ども、大人を演じているので、周りの人たちは「まさか、あの子(あの人)があんなひどいことをするはずがない」と思ってしまいます。いじめる側も、「悪気があったわけじゃないんだ」、「冗談だよ」、「たいしたことはないんだよ」、「真に受けるなよ」という、とっておきの言い逃れで、いじめの事実をうやむやにしてしまう場合が多いのです。これが、いじめの問題の難しさであり、やるせなさでもあります。
 しかし、だからと言ってその行為を野放しにしておくと、「お前はバカだ」、「死ね」と言われ続けた相手が自分に失望し、追い詰められた末に自殺するということもありえます。あるいはその積み重ねが相手に怒りを起こさせ、凶悪犯罪へと導く場合もあります。ですから、私はこの「面白がる罪」を見過ごすわけにはいきません。
 「面白がる罪」の重要なポイントは存在否定、つまり「けなす、からかう、侮辱する、弱みを攻撃する」などです。この相手の人格を軽んじる行為が、ふだんの何気ない会話の中で結構、行われています。特に「本気にするなよ! 冗談だよ!」と言ってくる相手は、自分の言っていることに対して全く罪責感を感じていないので、要注意です。
 母親からの虐待を生き抜いた人として知られているデイヴ・ペルザーは、自著『“IT”と呼ばれた子』(ヴィレッジブックス)で、自身の体験をこう書いています。
 
 母さんは氷のように冷たい声になり、ぼくの顔を指でこづいた。
 「これだけはしっかり頭にたたきこんでおきなさい、このばか野郎! おまえが何をやったって、わたしによく思われることなんかないの! わかった? おまえなんかどうだっていい! おまえなんて〝IT(それ)〟よ! いないのと同じよ! うちの子じゃないよ! 死ねばいいのよ! 死ね! 聞こえたか? 死んじまえ!」
 母さんは手紙をびりびり細かく引き裂くと、顔をそむけてまたテレビを見はじめた。ぼくはその場に突っ立ったまま、足もとに雪のように散らばった手紙の残骸を見つめた。
 今までだって、同じようなことは何度もくり返し言われてきたけれど、今回の〝IT〟という言葉ほど残酷な言葉はなかった。
 ぼくは〝IT〟なのだ。人間以下なのだ。

 IT(それ)…。これほど人間の尊厳を無視したひどい言葉はないでしょう。しかし、いじめの現場で発せられる言葉、例えば「お前なんかいないほうがいい」「生きている価値などない」「死ね」といった言葉は、まさに〝IT〟と同じくらい、ひどい言葉ではないでしょうか?

聖書は言葉の罪を指摘する

 聖書には「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)とあります。エペソ人への手紙には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(2章10節)と書いてあります。その「作品」とは、神さまの最高傑作品を意味します。すなわち、人間はみな神さまの最高傑作品であるのです。また、私たち一人ひとりに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と語っておられます。まさに、あの有名な韓国ゴスペルのタイトルのように、神さまは一人ひとりに「きみは愛されるために生まれた人」(イ・ミンソプ作詞・作曲)と語ってくださるのです。ですから私たちは、神さまによって素晴らしく、美しく創造された人間一人ひとりに対して、「バカ、死ね、うざい」なんて、冗談でも決して言ってはいけません。それは、神さまの創造物に対する侮辱行為であり、神さまを悲しませることにもなります。
 にもかかわらず、私たちの周りには、しかも、クリスチャンの間でさえ、なんと存在否定的な言葉に満ちあふれていることでしょうか?

 最近のテレビ番組の視聴率ランキングを見てみると、某お笑い番組が常に上位にあります。このお笑い番組は、噺家たちが司会者のお題に従って、面白おかしく答えるという番組です。しかし、私はある時から、この番組を平安な気持ちで見ることができなくなりました。理由は、しばしば噺家同士でやり合う場面が出てくるからです。例えば、「ハゲ頭」、「馬づら」、「腹黒」、「バカ」と平気で言い合います。私たちはそれを大笑いしながら見ているのです。そして、こういう番組が日本で一番よく見られている人気番組の一つなのです。これもまた、日本にいじめがはびこる要因となっているのではないかと私は危惧しています。
 さて、聖書はどうでしょうか? 聖書は、言葉遣いについても注意を促します。例えば、マタイの福音書5章22節にはこう書いてあります。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」
 聖書は明らかに「ばか者」「能なし」という者には、死後に厳しい裁きがある
 続く(13頁中/6-9頁へ)
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いじめに勝利しよう!(13頁中/1-3頁)

2012-01-12 10:31:44 | 祈り

いじめに勝利しよう!(13頁中/1-3頁)

                       ライター かみなか さとし
はじめに

 いじめを苦に自殺をしたというニュースが絶えません。政府統計によると、2010年に文部科学省が認知した、特別支援学校を含めた小学校から高校までのいじめ件数は75,295件で、1校あたりの認知件数は2人、いじめを認知した学校の件数は42%でした。ただし、本来、いじめに相当するのに「いじめと認定されなかった」ものや、いじめがあるのに「ない」と言っている学校もあることを考えると、その実数はもっと大きな数字になるのではないかと思います。また、いじめは学校だけでなく職場でも、もっと言えば教会の中でさえも起こりえます。そう考えると、いじめはどこででも体験されうる身近な問題ではないでしょうか?
 この小冊子は、いろいろな場面でいじめに遭っている人に対して、クリスチャンの立場から、何らかのサポートができればと思い、筆をとりました。また、なぜいじめが罪なのか、いじめをしてはいけないのか、聖書の視点から私なりに学んだことをお分かちしたいと思っています。
 ぜひ、これを読んで、いじめに遭っている人が少しでも楽になり、またいじめを未然に防ぐための手助けになればと、心から願ってやみません。

イエスさまこそいじめの体験者だった

 今、すでにいじめに遭っている子どもたちや大人たち、いじめというつらい、苦しい中を通っている子どもたちや大人たちに、まずこのことをお知らせしたいと思います。それは、イエスさまもまたいじめを体験された方だったということです。
 イエスさまが十字架に架かられる前、当時の民衆や指導者、兵士、犯罪人からどんな仕打ちを受けられたでしょうか? そのことが福音書に詳細に描かれています。

 「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った。『これはユダヤ人の王』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりは悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。」(ルカ23章35〜39節)
 「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた』という聖書が成就するためであった。」(ヨハネ19章23、24節)

 イエスさまは生涯、罪のない、正しいお方でした。にもかかわらず、イエスさまは「ユダヤ人の王と自称した」として不敬罪で捕らえられ、犯罪者とされ、当時、最も残酷な刑とされる十字架刑に処せられました。そして、イエスさまが十字架にかかる前に、民衆や指導者、兵士、犯罪人までもが、イエスさまに対して、あらんかぎりの侮辱的な言葉を投げかけ、イエスさまが着ていた着物を四分し、下着は誰のものになるかくじ引きするという愚かな行為をしました。まさに、イエスさまはいじめの極みを体験されたのです。その極みの中で発せられたのが、以下の祈りの言葉です。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」(ルカ23章24節)

 私たちは、イエスさまが半端でないいじめを受けた体験者であったことを知る時に、次のことが言えるのではないでしょうか? それは、イエスさまご自身がいじめの体験者であるがゆえに、どんなに陰湿で、ひどいいじめを受けている子どもたち、大人たちの気持ちをも、他の誰よりも深く理解し慰めることができる、ということです。イザヤ53章3節には、イエスさまについてこう預言しています。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」
 イエスさまは、人が顔をそむけるほどさげすまれ、人々からのけ者にされた経験があるがゆえに、同じくいじめの渦中にある子どもたち、大人たちの苦しみ、悲しみ、痛みをも理解できる方なのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」(第二コリント1章4、5節)

 また、イエスさまは「インマヌエルなるお方」(マタイ1章23節参照)でもあります。「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。すなわち、イエスさまは今、いじめを受けている子どもたち、大人たちと一緒にいて、そのいじめの攻撃を共に受け、苦しんでくださる、ということなのです。たとい、友だちも親も先生も、学校も警察も、すべてのものがいじめを受けているあなたを見捨てたとしても、たった一人、イエスさまだけは激しいいじめ攻撃の中に置かれているあなたと共にいて、一緒に苦しみ、一緒に耐え、その戦いを一緒に戦ってくださる、ということです。この事実を知る時、今、現実に激しいいじめ攻撃を受けている子どもたち、大人たちにとって、大きな、大きな支え、助けとなるのです。

「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」

 実は私自身、イエスさまがいじめを体験されていたという事実を知ることによって、ものすごい屈辱体験を乗り越えられたということがかつてありました。
 それはあるクリスチャンの集まりの中でのことです。私はその日、昼、夜と、食事の祈りの当番でした。クリスチャンは食事の前にお祈りをします。祈りの当番は、その日歌う賛美の歌を選び、一緒に賛美したあとメンバーの誰かを指名し、お祈りしてもらう係のことです。ところがお昼に私が食堂に来ると、すでに賛美は終わっており、お祈りが始まっておりました。そして、お祈りが終わったあとは何事もなかったかのように食事が始まっておりました。そのグループのリーダー格であるAが、勝手に祈り手を指名し、食事の祈りを始めていたのです。
 私の頭の中は真っ白になりました。テーブルで食事をしている人々の何人かは、私のほうを見てニヤニヤしていました。皆、私が祈りの当番であることを知っていたはずです。しかし、誰もAを止めようとはせず、何事もなかったかのように食事が進んでいったのです。
 私のプライドはズタズタでした。こんな小さな奉仕でさえやらせてもらえないことに、くやしさでいっぱいでした。「どうして誰も止めてくれなかったのか」と、その場にいた人たち全員を憎みました。そして、私の中で怒りが爆発しそうになりました。もし神さまが、あの聖書の言葉を私の心に語りかけてくださらなかったら、大暴れしていたことでしょう。
 ところがその時、私の心の中にあの言葉が迫ってきたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と。
 この言葉によって、イエスさまが共にいてくださることを確信し、私は冷静になることができました。そしてAをはじめ、その場にいたメンバー一人ひとりが、憎しみの対象であるよりも、神さまの目から見れば可哀想な人たちなのだと思えるようになりました。
 そして、夜です。私は少し早めにテーブルに着きました。そして、みんながそろったところで祈り手を指名しようとすると、またもAが勝手に祈り手を指名し、指名された人は祈り始めようとしました。しかし、主から言葉をもらっていた私は、威厳をもってはっきりこう言えました。「祈りをストップしてください。担当は私です。私に従ってください!」
 この時、その場で大きな歓声が上がりました。その場にいた人たちは、明らかに私とAのやりとりを面白がっておりました。
 この体験は、神さまを信じ救われた仲間たちの集いの中で起こった出来事でもあったので、そのことで私の中に大きな傷が残りました。でもこの体験を通して私は、次のことを学びました。それは、いじめはどんなグループや組織、クリスチャンの集まりにおいてさえも起こりうるということ、一方でイエスさまだけはどんな時にも裏切らず、いじめられる側の味方であり続けてくださるということです。
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【残留放射能の行方】

2012-01-11 00:36:05 | 祈り

【残留放射能の行方】

昨年の年末で忙しい頃にお会いした
友人が、こんなことを話していたのを
思い出した。

今年は、冬休みを海外で過ごす子供たちが
多いのだって!

なぜなら 一か月間 日本を離れるだけでも
放射能の残留量(ざんりゅうりょう)がかなり
減るんだって、だから大変だけど
私も子供たちの
健康の為に無理しても子供達だけは、海外で
過ごさせるのだ、と言う話しであった。

震災と放射能の人災で、仕事に支障を抱えての
子供達に対しての唯一の責任なのだと言う。
危機的状況での子供へ出来る唯一深い
親の愛情の決断だった。

これからは、子供達の休みである
春、夏、冬、に海外に送り放射能を少しでも
体内から取り除くのが親としての務めなのだと
言っていた。
凄いなぁぁぁ と その両親の決断に感心した。

ささやかな抵抗・・・
親心である

でも此れって 本当!

一か月でそれほど効果良く放射能は
抜けるのだろうか?
 
20年から30年は、地上に残るとされる
最短放射能物質セシウムを体内に取り入れたら
やはり20年から30年と体内に蓄積されて
行くのではないだろうか?
ほんの気休めにすぎないのではないだろうか?

そう思いつつ
苦しい生活の中で苦肉の決断をする両親の
居るなかで・・・!

今も未来に何もしないで
「増税」「増税」と中小企業の首を絞め
加害者企業に優遇をする。
その上、子供たちの校庭の、公園の放射能の
除去一つも行わず、放射能の廃材がでるからと
ゴミ焼却場までも停止する。
そんな国政に涙も枯れる思いがするこの
頃である。

水一本でも幼児に子供に放射能の影響の無いものを
飲ませたいと言う親心に、無言で、その安全性をも
明らかにしない国政・・・
今年もこんな日々が続くのだろうか!?!?

主により頼め ハレルヤ エーメン

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