制服姿の職員からカルテを受け取ります。
話す言葉も丁寧でてきぱきとしています。
すぐに採血、心電図、心エコーと検査が進みます。
それぞれの検査を待っている間、先生のダヴィンチを使った手術が紹介されているテレビ番組が、壁にかけられてある大型の液晶モニターに写し出されています。
画面では手術直後にリハビリで歩いている高齢者の姿が映し出されます。
蟷螂より遥かに年上です。
その映像を見て蟷螂は決心しました。
手術を引き延ばすことは良くない。
手術をするならば、今後の老後に影響するので、1歳でも若いうちがいいと。
(ただし手術の後遺症が残っている今となっては、この判断に自信が持てなくなっていますが)
血液検査の結果待ちに1時間ほどかかり、施設の代表医師(渡邊剛先生)の診察を受けました。
まず開口一番、
『この度は大変でしたね。驚かれたでしょう』
とおっしゃりました。
とてもドイツへの留学経験があり、国立大学の教授の経験もある医師とは思えないほど丁寧です。
医師は『患者さん』と最近になって無理に丁寧語を使うようになりましたが、どこかで患者を人間扱いしない態度が出ます。
医療機関に通い慣れ?ている者特有の嗅覚が働くのです。
蟷螂は若い頃はよく体調を崩して新宿の職安通りの個人医院までタクシーを飛ばしました。
帝国大学医学部卒業医学博士と看板に書いてありますが、そこの先生は立派な人格者で、ある時蟷螂が診察を受けて帰ろうとしたら、2、3人の労務者が行き倒れのホームレス風の男性を担ぎ込んだことがありました。
その時の先生の態度は立派で、すぐに診察室に運び込み、丁寧に診察していました。
あの日もお嬢さんの弾くピアノの音が聴こえていましたっけ。
閑話休題、
渡邊先生は蟷螂にお手製の、分厚いパンフレットを渡し、僧帽弁閉鎖不全症の説明を始めました。
丸を書いて十字に切って説明した下町の若い医師とはだいぶ違います。
『夜お休みになっていてトイレに行きたくなることはありませんか?』
『いえ、夜間頻尿はありません』
『そうですか、でもこの心エコーによると僧帽弁に逆流が生じているので、そのうち必ずそうなります。なぜなら、横になると全身に行き渡っていた血液が一気に心臓に集まるからです。そうなると逆流が起きている心臓の負担が増え、脳が排尿を促します』
そう言って先生は全身の血液の流れがプリントされたページを指し示します。
『先生にお尋ねしたいのですが、実は歯科で乱暴な治療を受けた直後から発熱し、母の介護で5階まで階段を一気に登ったら、そのまま倒れるのではないかと思えるほど息つぎができなくなりました。心内膜炎ということはありませんか?』
『歯科治療後に閉鎖不全が起きるのはよくあることなのです。蟷螂さんの場合もそのケースでしょう。今後は穏やかに生活し、折を見て手術をされた方がいいと思います』
やはりあの歯医者か!
蟷螂の頭の中はゴチャゴチャになります。
『で、この状態ですと放置していて大丈夫でしょうか?感染が脳に回ると危険だとネットにはありますが』
『現在の逆流の程度は3度ですが、年齢や身体状態によっては間をおかずに4度に進行し、心不全を起こす事も考えらるます』
その瞬間蟷螂はここで心臓を切ってもらう決心をしました。
あとは保険適応外の自費に、追加費用が発生しないかどうかです。
『自費で380万円とのことですが、保険は効かないんですよね』
金に細かい同居人が口を挟みます。
『治験扱いなので、最先端医療保険も効きません。ただしパッケージ料金なので追加費用は一切かかりません』
『差額ベッド代もですか』
『そうです』
蟷螂の頭を、ホームページに掲載されていた豪華な特別室がよぎります。
1泊10万として10日で100万か・・・大学病院だと謝礼もバカにならないし。
蟷螂の頭の中を、親父が肺結核の手術をした日の光景が蘇ります。
薄汚れた、明らかに売血目的の献血者が、汚れた木造の廊下で立ち上がりお辞儀をしました。
陽の光が少し開いた窓から差し込み、手術は6時間の大手術でした。
立ち会った元霞ヶ浦の飛行教官のオジキが、献血者に母親と並んで丁寧に頭を下げました。
その献血者の誰かが、或いは全員がC型肝炎のキャリアで、親父は40年後に肝がんを発症したのです。
『で、心臓の手術となると輸血などは?』
もう渡邊先生に切ってもらうと決めた蟷螂は具体的なことを聞きます。
『いや、ダヴィンチならば自己血を回収して再利用するので輸血はしません。入院期間も1週間もあれば退院できます』
『え、1週間ですか』
人体の、最重要器官の手術です。
たしかにホームページには10日間程度で退院できるとありましたが、いざとなるとなるべく病院に留まっていたいと思うのは人情です。
『で、先生、実は初診のドクターに紹介され、明日、J医大を受診することになっていますが、どうしたら良いでしょう』
『受診するといいと思います。蟷螂さんの納得がいくまで比べることを、むしろお勧めします。こちらとしては弁の状況を詳細に見るために、経食道エコーの予約をしておくといいと思います』
言葉のひとつひとつに自信がみなぎっている先生に頭を下げて経食道エコーの予約をして病院を後にした頃は、通勤ラッシュと重なり、少し大変でした
私、おおいに思い当たります
私はまだそこまで行っていないけれど切りました。
治療は後に延ばしていいことはありません。