matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

函館散歩その3-立待岬と啄木

2016-06-01 11:26:26 | 旅行




 函館その3

 市電青柳町で下車すると、
ほど近くに函館公園があります。



すりばち山のたもとに、ひっそりと
歌碑が建っています。



「函館の青柳町こそかなしけれ
  
  友の恋歌 矢ぐるまの花」

ただ長年の風雪にさらされて
判読しにくくなっています。


石川啄木(1886-1912年)は
1907(明治40)年5月、故郷
渋民村を旅立ち、青森から青函連絡船
で函館入りします。

函館は当時、東京以北で最も人口の多い
近代都市でした。

啄木はハイカラで文化的な雰囲気に
魅了されました。

21才の啄木は青柳町に居住し、
夏には家族を呼びよせましたが、
8月25日の大火により、勤務先の
小学校・新聞社が焼失してしまいます。

啄木の函館滞在は132日間、以後
札幌・小樽・釧路そして東京と転居
を重ねます。



「死ぬ時は函館で死ぬ・・・」と
書き残し、1912(明治45)年
4月13日、肺結核のため小石川
にて死去。享年26。

翌年5月には妻節子も死去。

友人たちの尽力により、遺骨は東京から
函館に移され、函館山南端の立待岬に
葬られました。

墓面には

「東海の 小島の磯の 白砂に
 
 われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

の一首が刻まれています。



啄木は中学時代、「明星」を読んで
与謝野晶子らの短歌に傾倒して
文学への志を抱きました。



啄木一族の墓から少し歩くと、
1931(昭和6)年に来函した
与謝野夫妻が詠んだ歌が刻まれて
います。

「啄木の 草稿岡田先生の

 顔も忘れじ はこだてのこと」

与謝野晶子


 啄木については、作品と人物の落差
がよくいわれますが、

井上ひさしは
「日本史の上で五指に入る日本語の
使い手」と絶賛し、

ドナルド・キーンは、そのスタイルを
「本質的に即興詩人のものだった」
と指摘しています。

明治生まれの詩人の歌は、現代人の心
にそのまま響きます。



流浪の詩人啄木とその家族は、
津軽海峡を見渡す小高い丘の上に
眠っています。

函館の地できっと、幸せな家族の時間
があったとおもいます。






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1 コメント

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函館散歩その3 (ひろし爺1840)
2016-06-08 09:07:44
 !!(^^)!!Matasaburou3さん、おはようございま~す!
何時もお越し頂きコメントや応援を有り難うございま~す。
今日も元気に充実した楽しい1日を過ごしましょ~!

@('_')@今朝も「初めて見る函館その3」を紹介して頂き、居ながらにして行った様な気持ちに成って楽しませて頂きました。
また色んな情報を教えて頂くのを楽しみにしていま~す!
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